経営コンサルタントの倉本圭造氏は、京都大学経済学部卒業後マッキンゼーに入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業などのプロジェクトに携わった。
合唱部時代に学んだ“バカバカしいもの”の大切さ
みんなの介護 倉本さんの過去について教えてください。現在につながる原点のようなものはありますか?
倉本 私は高校時代、合唱部に所属していました。戦後から圧倒的な強豪として知られていた高校で、全国大会に出て当たり前で金賞が取れるかどうかが勝負という感じでした。
決して音楽が得意な生徒ばかりが集まっていたわけではなく、特に男子は最初から楽譜を読める人の方が珍しいぐらいなのに、音楽科の学生を集めてつくったような他校の合唱部を抜いて優勝する。そんな場所で私は指揮者をしていました。
当時の私は、「個人に対するあらゆる集団的圧力は旧時代的なバカバカしい因習にすぎない」という思いを強く持っていました。例えば、敬語もそのうちの一つです。そして、自分が主導権を持てるようになったらバカバカしく見えるものを全部廃止しました。
するとみるみるうちに弱体化してしまい、私が卒業した数年後には、関西以外では誰も知る人がいない無名校になってしまった。最近は20年ぶりぐらいにまた混声で全国に出られるようになったのですが、とにかく一度「協力しあえる文化」が消滅すると戻すのは大変なんだなというのは痛感しました。
その経験を通して「バカバカしいと思っているものの背後にある合理性」というものがあるのだということが身にしみてわかったんですね。
バカバカしいものを時代に合わせて変えていくことは大事なんですが、配慮なしにやると、そこで活躍できるのは一握りの才能のある人だけになってしまって、「普通の人」をちゃんと戦力として育てる機能が崩壊してしまうのです。
逆に言えば、なぜ日本からバカバカしい風習がなくならないかというと、中学生までぐらいの私のように「日本のそういう部分が嫌いで仕方がなくて、とにかく破壊したいと思っている人」の意見だけで変えようとするからなんですよ。
たとえば日本のオリンピック柔道チームは、一度凄く弱体化したけど、井上康生監督のように「伝統の良さもちゃんとわかっている人が伝統を壊して新しい発想を取り入れる」ことで急激に変化も進んだしまた凄く強くなりましたよね。
日本を本当に「変えたい」と思っている人がいるのなら、その人が憎んでいる「日本のバカバカしさ」の中に眠っている価値を迎えに行って掘り起こす必要があるんですね。
私が「メタ正義感覚が大事だ」という発想の大本にはそういう体験があるのは間違いないですね。
マッキンゼーで感じた違和感とは
みんなの介護 合理的でないものでないと思っていたものに実は合理性があったかもしれないと。その経験は倉本さんの人生にとってどんな影響を与えたのですか?
倉本 大学を卒業して入社した外資系コンサルティング会社のマッキンゼーでも、合唱部での経験を彷彿とさせる出来事が起こったのです。
当時のマッキンゼーは「この遅れた日本社会を改革してやる」というような空気が今以上に強かった。結果として、高校の部活で「今まで自然にできていたことがどんどんできなくなっていくような不気味な感じ」と全く同じ感覚が、クライアントとの関係でも常に感じられて、しんどかったですね。
当時の外資系コンサルティング会社にいた人たちが「成功だと感じていること」「これが正しいと感じていること」が凄く片手落ちな感じがして、いずれ社会全体が酷い分断に悩まされるだろうなと痛いほど“体感”してしまったんですね。
結果として、あれから20年近くたって、外資系コンサルティング会社は今の日本で物凄く儲かっているんですが、日本経済の方はイマイチなままですよね?やはりどこかがおかしいんですよ。
とはいえ、だからといって「現場礼賛」みたいな形に戻るわけにもいかないので、「知的な発想の改革」と「現場的な絆」の部分をいかに最適にシナジーさせる文化を作れるか?について自分の人生の仕事として真剣に取り組もうと思ったんです。
「遅れた日本社会」と思っている現場には、実際どのような状況があるのか。体感してからでなければ責任を持ってアドバイスをすることもできないと思うようになりました。
そこで考えたのが、お客さんとして語るのではなく現場の一員として入ってから語ろうと。体感しないと伝えられないことがあるのではないかと思って、ブラック企業や肉体労働現場、ホストクラブ、カルト宗教団体などに潜入して働きました。まあ完全に若気の至りですが。

震災体験は自分の中に深く根ざしている
みんなの介護 時間軸はさかのぼりますが、他のウェブメディアの取材で、「高校生のときに遭った震災体験も大きい」と語られていました。倉本さんの原点を考えるにあたっての鍵がありそうな気がします。
倉本 確かに震災は大きいかもしれませんね。
幸いなことに、私は家が崩壊したり家族が亡くなったりするようなことはありませんでした。夜には電気も復旧しました。しかし、隣のブロックの家はほとんどが丸焼け。人間の運命というのは、紙一重なのだなぁと思いましたね。
当時好きだった女の子の友達が亡くなったので、一緒に隣の区にある死体安置所まで行ったんです。
例えば戦争のドキュメンタリーとか見ていると、そこで生きていた人に「日常」などないように思えますが、でもたぶんこんな感じで、「日常」と「非日常」は同時にそこにあるのだなと思いました。
よく言われている事ですが、被害が大きな場所のボランティアに行ってみれば、普段意識高い系のご高説を述べるような人が全然役に立たなかったり、不良っぽい兄ちゃんがやたら頼りになったり、といった「人間社会の真実」に出会うこともよくありました。
そういう体験による影響はどんなものかというと、たとえば「外資コンサルではこういうやり方でこういう風にやるんです」という標準があった時に「はいそうですか」とそれをなぞるだけでは物凄く空虚なことをやっている気持ちになるとか、「政治的に正しい言論のパターン」をただなぞるだけでは、本当にそれは人々の幸せに繋がっているのだろうか?と真剣に悩んでしまうとかでしょうか。
そういう発想の根本に、一度自分が安心して立っていたはずの地面が崩壊した体験のようなものがあるように思います。そこで「日常が裂けた隙間の向こう」から垣間見た「社会の本当の繋がり」のレベルから考えないと、全てが嘘くさい特権階級のインテリの茶飲み話に見えてしまう感じといったらいいでしょうか。
独立当時に描いたことが実現
みんなの介護 「全てが嘘くさい特権階級のインテリの茶飲み話」とは痛烈ですね。
倉本 私が大切にしている価値観は、考えてみればアメリカという国が持つ理想主義の一部です。例えば「万人平等にあらゆる人と付き合おう」という思想もそうです。
アメリカ人は対等にホームレスの人とも雑談をする人が結構います。
ただ建前は素晴らしいけど実質が全然伴っていないのがアメリカ社会で、日本はただそれを真似しようとしたら自分たちの美点が失われて大変なことになってしまう。
自分はマッキンゼーという会社の理想主義的な部分は非常に好きで、いわゆる「卒業生」であることは結構大事にしたいと思っています。
自分が普段やっている仕事と実物のマッキンゼーという会社は結構遠いんですが、「アメリカ的な理想主義に賭けて生きる姿勢」みたいなものは明らかにあの会社の影響を受けて長い間背中を押してもらってきたと感じているからですね。
ただ私はそういう「アメリカ的な理想」を、「日本的に地に足ついた」レベルで実践したいと思って生きてきました。
そういう試みは日本社会にとって必要なだけでなく、アメリカという“最高”でもあり同時に“最低”でもある(笑)存在と付き合い続けなくてはならない人類社会全体で必要だと考えたからです。
みんなの介護 結果、マッキンゼー時代を反面教師として生きることができたのでしょうか?
倉本 何かそうなってますね。対話の大切さを理解してくれるクライアントと一緒に、ある程度の実績を積んで来られたと思っています。また、応援してくださる読者が出てきたり、本を出すようになったり、こうした取材の依頼もちらほら来るようになりました。
当時から感じていた理想と現実、頭で考えている人と現場で働いている人の溝というのはいずれ問題になるだろうなと思っていた。
撮影:神保 勇揮(FINDERS)