ITを専門の一つとするフリージャーナリストの佐々木俊尚氏に、現代人とデジタルデバイスの向き合い方、その未来予測を聞いた。インタビュー後半では、そのデジタルデバイスの発達が可能にする、「広く、薄く、弱い」つながりの重要性という話題に。
デジタルの“散漫”な状況を前提にするしかない
みんなの介護 今、「スマホ依存」などデジタルデバイスの過度な使用が問題視されています。佐々木さんはどのようにお考えでしょうか。
佐々木 スマホで言えば、今の流れは「いかに離れるか」になっています。しかし現代人はデジタル環境が前提で生活・仕事をしている。現実的にそこから身を離すことは不可能です。
情報が溢れ、いろいろなことに気が散ってしまう“散漫”な状況を受け入れるしかない。
もはや、ドラマや映画も、受け手の気が散ってしまう前提でつくられている時代です。70年代は、3時間映画で一人の登場人物のストーリーを描くという作品がありました。例えば、歴史上の人物の青春期から死ぬまでをずっと追いかけていくような。
反対に、今Netflixで放映しているドラマは、複数のストーリーが同時並行で進んでいく。群像劇などと呼ばれるスタイルですが、『スノーピアサー』はその典型例です。
登場人物それぞれの物語が進んでいって最後に収束する。
私たちにそれが理解できるのは、もうすでに脳が変化しているのでしょう。進化なのか退化なのかはわからないけど、少なくとも変化している。その変化した思考スタイルに合わせて仕事のやり方も変えていいのではないか、ということを今度の本『読む力 最新スキル大全』でも書いています。
みんなの介護 なるほど、テクノロジーの発達に合わせて私たちの脳はすでに変化しているのですね。デジタルデバイスの方は今後どのように変わっていくのでしょうか。
佐々木 パソコンからスマホになって、その次はウェアラブルデバイス(身に付けるタイプのコンピューター)の開発が進められています。埋め込み型のデバイスも開発が進められていて、目の中に入れるレンズ型のものが出てきています。
身体とテクノロジーが一体化していくと、身体の外にあるデジタルデバイスとの関係を考える時代には戻れなくなります。ということでスマホというデバイスも消えていくでしょう。
また、最近はメタバース(現実世界ではない3次元の空間)がバズワードですが、透過型のメタバースでは眼鏡をかけると、目の前にある現実の景色とともに、メタバースの中にしかないバーチャルな映像が同時に見えます。
仕事に応用すれば、メタバース上のバーチャルな会議に参加しながら原稿を書くということもできるようになるでしょう。
高齢世代も問題なくデジタルに対応できる
みんなの介護 デジタルデバイスの発達は今度も私たちの働き方を変えていきそうですね。ただ、そこに高齢世代が取り残される危険性はないでしょうか。
佐々木 高齢だからデジタルツールが使えないわけではないという研究結果はいくつも出ています。
今、パソコンで仕事をする高齢者が多くないというのは、単に使っていなかっただけではないかと思います。世の中にパソコンが入ってきたのは、団塊の世代が50代の頃です。会社でも上のポジションでしょうから、部下にやらせていたのでしょう。
確かに、90年代ではパソコンはまだ使いづらかったという面もあります。パソコン教室に通ったり本を読んで勉強したりする必要がありました。
それに比べて今はずいぶん使いやすくなりました。UI(ユーザーインターフェース)が、劇的に良くなっていて、スマホを普段から使っていれば直感的に使えます。デジタルにおける世代間格差みたいなのは、どんどん消滅していくと思いますよ。
みんなの介護 ちなみに佐々木さんは理想の高齢者像のようなものはありますか?
佐々木 今、東京-福井-軽井沢の3拠点生活をしているのですが、その中で思うことがあります。福井で出会う方は、みんなすごく明るい。
一方で軽井沢は別荘地です。東京でサラリーマンや経営者だった人が引退して定住しているケースが多い。もともと大企業の部長や役員をしていて、そこそこ社会的地位が高かった人が多いです。
しかし、軽井沢に行った瞬間にそういう地位は何も意味を持たなくなります。にもかかわらず、元の勤務先の名前を入れた名刺を持っていて、元〇〇部長とか書いてある。怒る相手を探して暮らしているような人もすごく多いです。「俺を何様だと思っているんだ」という考え方になって孤立している。
ああいうマウンティングをする高齢者になってはいけないと、軽井沢に行くたびに思うんですよね。

広く、弱く、薄いつながりが価値を生む時代
みんなの介護 マウンティングをしている本人たちは孤独かもしれませんね。佐々木さんは、どんな人間関係を築くことが幸せだと思いますか?
佐々木 “つながり”というものに対する考え方が、昔に比べてかなり変わってきていると感じます。昭和世代では「同じ釜の飯を食う」というような、濃い付き合いをするのがつながりだと考えられていました。
毎日顔を合わせて、夜は飲みに行く。
それをもって「最近の若い人は孤独だ」とか言いたがる人が多い。しかし、今は興味がある人が誰でも参加できるサークル的な集まりがたくさんできています。
例えば私は、月に1回ペースの登山を10年ぐらい続けています。そこに参加しているメンバーは、トータルすると50人ぐらいいます。その中の3・4人から多くて10人ぐらいのグループで一緒に登るんです。
彼らには月1回しか会いません。何の仕事をしているのかという話もあまりしない。ただ登山の日にちと、どの山に登るかだけFacebookで共有して、その日に集まった人たちで登る。登っているときは一緒に楽しくご飯を食べたり、帰りにビールを飲んだりする。しかし、それ以上の関係ではありません。
そういう薄いつながりをたくさんつくるのが大事になるのかなと。それは登山に限らずどこでもできる。ボランティア活動に参加したり、スポーツサークルに入ったりしてつながるための機会というのはすごく増えています。
隣の部屋にいる妻とメッセンジャーでやりとり
みんなの介護 人間関係は、距離が近くなり過ぎるからこそ、争いになることもありますよね。
佐々木 ある程度距離を取った方が気楽というのは間違いなくあると思います。私の妻はイラストレーターをやっていて、たまに「どんな夫婦ですか?」という感じの取材を受けるんです。だいたい女性ライターが来て「二人はどんなに愛し合ってるんですか?」みたいなことを聞くんだけど、「愛し合っていません」って答えます(笑)。
四六時中一緒にいると、だんだん行き詰ってくる。二人とも家で仕事をしているので、ずっと同じ屋根の下にいます。でも、昼間は会わず、隣の部屋にいる妻とはメッセンジャーで連絡をとるようにしています。
人とご飯を食べに行く予定があっても、誰と会うかまでは伝えません。ただ「何月何日の夜はいないので、食事はそれぞれね」と伝えます。
一緒に暮らして20年ぐらい経つ中で、そのルールをだんだんつくり上げてきました。なるべくお互いの私生活にはコミットしない。ただし一緒にご飯食べるときは仲良く食べましょうと。それぐらいの距離感でいいんじゃないかなと思うんですよね。
みんなの介護 お互いに心地良い関係でい続けるための距離の取り方なのですね。
佐々木 そうですね。それは夫婦間だけではなく、あらゆる人間関係に言えると思います。期待値が高まりすぎると、逆につらくなることってあるじゃないですか。そうすると「これだけ一生懸命やったのに、何で答えてくれないの」という思いになる。
大事なのは、あまり人間関係に期待しないことだと思うんです。好意を与えても見返りは要求しない。
「5年ぐらい経って見返りがあったとしたら嬉しいな」ぐらいの気持ちで、好意を提供するのがいいでしょう。
みんなの介護 これは仕事での人間関係でもそうでしょうか?
佐々木 はい。私は、スタートアップ企業からトークセッションや原稿執筆の依頼がよく来ます。知名度が低く、原稿料がほとんどなかったり、出演料がゼロだったりします。でも「いいよ」と答えて、だいたい引き受けています。
とりあえず好意をばら撒いておく。自分のリソースを食わずに1時間、その場で喋るだけだったら大した労力じゃない。何でも受けますと。それでいいんじゃないかな。
そうすると、3年後に突然仕事を持ってやってきてくれたりするケースもある。長い目線で見れば帳尻が合うんじゃないかなと思っています。
撮影:丸山 剛史