2016年4月に発生した熊本地震。観測史上最大のマグニチュード7クラスの揺れが2度、余震は4500回以上にも及んだ。
【ビジョナリー・大西一史】
- 今でも鮮明に覚えている。地震当日のことを…
- 孤立しがちな要支援者をきめ細かくサポート
- 熊本は人がいい。水がいい
今でも鮮明に覚えている。地震当日のことを…

「まずはあの地震が起きた日のことをお話しさせてください。4月14日の前震から28時間後、4月16日午前1時25分、自宅で仮眠をとっている時に突然震度7の揺れに襲われました。停電になり暗闇で割れたガラスか何かを踏んでしまい、足に激痛が走りました。出血している感覚もありましたが、自分の足なんか観察している場合ではありません。とりあえず足に刺さったモノを抜き、履いていた靴下で止血をしてすぐに自宅を出ました。
秘書課とも連絡がとれず、妻が運転してくれる車に乗るしかありません。ブロックなどが倒壊して道を塞いでいたり、電車も来ないのに遮断機が下りていたり…。停電で信号機が消灯した暗い街を震えながら進み、どうにか市庁舎までたどり着きました」

「自宅には緊急用の衛星電話があったので、すぐに使ってみましたが、つながりませんでした。普通の電話も通じず、外部との連絡がとれない。何がどうなっているのか全く分からない状況でした。
非常時に何をすべきか。そのためにはどう動けばいいのかは普段から訓練しておかない限り、実際に判断を下すのは難しい。
熊本地震以降、防災研修の講師として全国の行政のトップの方々の前で話す機会が増えました。行政の首長のみなさんにまずアドバイスしておきたいのは、災害発生時に庁舎まで行く手段を確実にしておくことです。熊本市の場合、市長が消防に居場所を連絡し、消防の緊急車両が市長を市庁舎(災害対策本部)まで運ぶシステムになっています」
「普段使い」を非常時も熊本地震を経て、熊本市では普段使用しているものを非常時にも使えるようなシステムに変えていった。共有しにくくかさばる紙のマニュアルは廃止し、各自が小型PCを持つことで書類を電子化し、随時バージョンアップしていくようにした。ペーパーレス、デジタル化を進め、職員同士の連絡にはLINEも利用している。
市内の設備としては、マンホールトイレ(下水道管路にあるマンホールの上に簡易な便座やパネルを設けることで、災害時にトイレ機能を確保できるもの)の数を増設し、市内のコンベンションセンターや商業施設などの複数箇所に非常用物資を備蓄するようにした。非常時にはそれらの施設が防災機能を持った避難所になる予定だ。
商業施設においてはバックヤードに防災品を保管するだけでなく、衣食住揃った店の商品を避難者に提供する協定が市と結ばれている。
JR熊本駅白川口駅前広場はオープンスペースを広くとっており、市外・県外から集まったボランティアのテントが多数張れる設計となっている。
また、生活用水を100%地下水でまかなっている熊本市では、各自で井戸を所有しているホテルも多く、断水時には市指定の災害用井戸として市民に水を提供することが決まっている。

観測史上最大のマグニチュード7クラスの揺れが2度、余震は4500回以上だったという熊本地震。避難者は約11万人、住居被害は約13万戸という非常に大きな被害をもたらし、被災者が身を寄せた避難所は267箇所にものぼった。
混雑する避難所を避け、半壊した住居や自家用車で寝泊まりする被災者も少なくなかった。一体どこに何人の被災者がいて、どんな支援を必要としているのか、正確に把握できない状態だったと大西市長は当時を振り返る。
大規模災害時においては公助には限界があり、地域の中で支え合う「つながり・共助」が重要だ。地域住民がお互いに助けあう仕組みを整えるべく、熊本市では地域と学校、市などが組織を超えて連携できる地域防災組織の結成に向けた支援をしている。
そして現在、熊本地震の経験を教訓とした防災に対する熊本市の姿勢を広く発信し、地域防災のさらなる強化につなげるために、「熊本市防災基本条例(仮称)」の制定に向けて取り組んでいる。


孤立しがちな要支援者を細かくサポート

「建物や設備面などは復興の進み具合も分かりやすいのですが、被災者のケア、“心の復興”については目に見えないだけに難しいものがあります。
熊本地震では余震も長引き、いつまた強い揺れが襲ってくるかも分からず、避難所の運営についてもさまざまな意見がありました。避難所を閉鎖した後は、家を失ってしまった人たちをどのように支えていくべきなのか。
災害公営住宅に入居してもらうにしても、全く新しい環境に馴染むまでは時間がかかります。特に高齢者は孤立しがちですから、きちんとしたケアがないと健康を失ってしまうリスクが非常に高い。
どの世帯にどのような支援が必要なのか。熊本市では被災者の世帯ごとの調査票をつくり、仮設住宅に入居された各世帯の状態を把握し、現在まできめ細かなサポートをしてきました。その結果、最大約1万2千世帯に及んだ仮設住宅等の入居世帯数は地震から6年(2021年12月末時点)でゼロとなり、仮設住宅等の退去後も支援が必要な世帯は、2022年3月末には22世帯まで減っています。
これは市職員、特に保健師・看護師の方々が非常によい働きをしてくれたおかげだと思っています」
危機を市民と乗り越えていく地震の経験で培った人と人とのつながりを大切に、被災された方が誰一人取り残されることなく、生活を取り戻し笑顔で暮らせるように寄り添ってきた熊本市。仮設住宅等からの退去後も支援が必要な世帯が22世帯にまで減ったのは、親身になって接した保健師・看護師の働きが大きい。
現場を支えた職員の多くは当時の熊本市民病院の看護師であった。熊本市民病院は556床、34診療科がある市の基幹病院として700人を超える職員が働いていたが、被災し建物が倒壊する恐れが生じたため、病院機能を停止し、患者を他病院に転院させた。
医師たちは他病院のカバーに回ることになったが、400人を超える看護師を他病院で受け入れるのは難しい。そこで、市では「地域支え合いセンター」の職員として被災者のサポートに就いてもらうことにした。これが功を奏したのだ。
ピンチに陥っても機転を利かせる熊本市。災い転じて福となすべく、さまざまな取り組みが現在進行形で進められている。

地域支え合いセンターでは、看護師の医療知識を生かし、世帯状況調査票の作成・運用をしたほか、心理カウンセラーや各分野の専門家などと連携しながら、被災者のケアを行ってきた。今後は地域支え合いセンターが担ってきた活動については、各区の保健福祉部署が、各種機関と連携しながら、引き続き支援していくこととしている。
高齢者を孤立させないための支援の方法、仮設住宅退去後の住まいの割り振りなど、高齢被災者が健康を取り戻していくため、親身になってサポートしている。

熊本は人がいい。水がいい

「熊本は人が優しいですね。『肥後もっこす(熊本人は頑固者)』、『肥後のわさもん(熊本人は流行好き)』など、悪く言えば頑固でミーハーのような捉え方をされることもある肥後もん(熊本人)。でも、新しいことにはチャレンジしながらも自分の信念は曲げないという、あの『巨人の星』の左門豊作のような人物が私のイメージする『もっこす』と『わさもん』です(笑)。
人情に厚くて、お節介かもしれないですけど親切ですから、移住者を受け入れやすい気質もあります。おかげさまで移住者も増えてまして、移住相談を始めた当初の2017年から比べて、今は相談件数が3.7倍になっています。
それに熊本は水がいい。
水がいいから食べ物がおいしい。県外からの移住者が増えているのは、熊本の農産物、海産物のおいしさの『とりこ』になってしまう人が多いからなのではないのでしょうか」
アクティブシニアが住みやすいまち阿蘇や天草などの大自然に近く、都市としての機能がコンパクトにまとまっている熊本市。大都市を離れ、地方で第二の人生を送りたいと考えるセミリタイア層にとって住みやすいまちとされ、年々移住者数も増えているという。
また医療アクセスの良さも住みやすさにつながっている。厚生労働省による「令和元年医療施設(動態)調査」によれば、人口10万人あたりの病院の施設数は12.9か所と、全国でもトップクラスの施設数を誇る。それだけでなく、経験豊富な地域の保健師たちが移住者たちの健康相談も受け付けてくれる体制が整っている。
「アクティブシニアのみなさんが培ってきた知識や技術を熊本の子どもたち、市民に伝えていってほしいんです。日本一の防災都市には、アクティブシニアの力が欠かせません。さまざまな分野でプロとして活躍したシニアたちにとって魅力あるまちにしていくためにも、それぞれの人が培ってきた知識や技術を教える手段や機会を設けて、人とつながれる仕組みを整えていきたいと思っています」と大西市長。
熊本地震から6年。

1967年熊本市生まれ。フォロワー16.5万人を持つツイッター市長としても知られる。趣味はドラムで大物ミュージシャンたちとの共演歴もある。愛読書は、城山三郎「男子の本懐」、宮本輝「錦繍」など。熊本ラーメンが大好物で、1日3度の食事がすべてラーメンでもいいと思っている。座右の銘は「至誠努力」「養之如春(之を養う春の如し)」

※2022年4月21日取材時点の情報です
写真提供:熊本市、インタビュー撮影:林 文乃