2015年に誕生したスニーカーブランド「Flower MOUNTAIN(フラワーマウンテン)」の勢いが止まらない。
ファーストコレクションでオーダーをつけたパリのcolette(コレット)を皮切りに、アカウントはあっという間に100を突破。

中国で出会ったパートナーとともにこのブランドを立ち上げた、太田圭輔の履歴書。
挫折と同時に始まったスニーカー業のキャリア
「ずっと音楽をやっていて、大学在学中にデビューが決まりました。地元北海道のラジオ番組の企画で優勝したんです。ところがいろいろあって土壇場で白紙に。デビューする気満々でしたから、就職活動はまったくやっていませんでした」。
傷心の太田は大学で会社説明会が開かれた靴屋への就職を決めた。いったんは札幌の営業所に籍を置くも、ほどなく東京転勤の打診を受ける。太田は断る理由もなく上京した。その会社は日本の靴産業のメッカ、浅草に本社を構える問屋だった。

「配属されたのは国際事業部。名前は立派ですが、常務がひとりでやっている部署でした(笑)。しかし結果的にこれがよかった。
事業部の主な業務は海外で買い付けた靴を国内の小売店に販売するというものだ。並行輸入のスニーカーもかなりの数をさばいたという。
「はじめのうちこそ面白かったけれど、仕事に慣れてくると、そこには前向きになれない自分がいました。言ってしまえば、他人の褌で相撲をとっているような気がしたんです。ぼくは常務に“つくるほう”をやりたいとかけあった。幸い中国や韓国に生産背景を持つ会社でしたから、すんなりとシフトすることができました」。
生まれてはじめてのものづくりの現場。自分が役に立たないのはわかっていた。太田は少しでも力になりたいという思いでラインに入って1日中バフがけや仕上げに勤しんだ。そうこうしているうちに型紙の切り方なんかも教えてもらうようになる。
「よく言われることですが、一枚の革を立体の靴に組みあげるのは本当にクリエイティブな仕事で、とっても面白い。
飽きることなく気づけば十余年。太田が独立したのは2013年のことだった。
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「いつかやってみたいことのひとつに会社経営があったんです。その年は、目をかけてくれた常務が会社を辞めた年でもあります」。
看板をあげた企画会社は大手アパレルのOEM生産が決まり、人も雇うなど順調な滑り出しだった。だが、「やってみてわかったけれど、資本家は向いていなかった(笑)」。
そんなときに巡りあったのがヤン・チャオだった。

「ヤンとは中国の工場で出会いました。ひと言でいえば、天才。先ほどもお話ししたように、靴は絵型という二次元を三次元に起こさなければなりません。そのサンプルを見て、あっけにとられました。
時を前後して、とびきりの工場を見つけた。
取引先のために新たな生産態勢を整えなければならなくなり、ツテを頼って辿り着いた広州の工場だった。
「これまでに足を運んだ工場は100じゃききませんが、圧倒的に優れていました。何はさておきマインドがいい。安かろう悪かろうの真逆をいくスタンスで、品質を重視し、手仕事を大切にしていました。デザインへのリスペクトもある。もちろん、アイデアを横流しする心配は無用です(笑)。
40代後半のまだ若い社長なんですが、すでに知られた存在で、錚々たるブランドの製造も請け負っていました。そして、海のものとも山のものともわからない僕らの将来性を買ってくれたんです。
太田は2015年、イタリアの国際靴展示会ミカムへの出展を果たす。
「起業の次に掲げていた目標は、自分のブランドをつくることでした」。
こうして「フラワーマウンテン」は産声をあげる。その後の成長の記録は後半で。
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ブリースデザイン
https://www.flower-mountain.co.jp
竹川 圭=取材・文