プラごみによる海洋汚染のニュースが多く流れる昨今。2018年の夏には、神奈川県・鎌倉市の由比ガ浜に打ち上げられたシロナガスクジラの赤ちゃんの胃の中からもプラごみが見つかった。
県はこれを「クジラからのメッセージ」と捉え、「プラごみゼロ宣言」を発表。プラスチック製のストローやレジ袋の利用廃止と回収を呼びかけ、2030年までに、プラスチックによるゴミのゼロ化を目指す。
この宣言に即座に賛同した自治体には葉山町があった。東京からドライブで1時間ほどの距離にある、相模湾に面するこの町は「はやまクリーンプログラム」を独自に掲げ、「プラスチックを使わない町」を目標にするという。
公共施設の自動販売機でペットボトルの飲料を扱わないことに決めたのも、その施策のひとつ。果たして、目指す町の姿はどのようなものか。山梨崇仁町長に葉山の町づくりを聞いた。
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——「かながわプラごみゼロ宣言」は由比ガ浜に打ち上がったクジラがきっかけでした。
そのクジラを見ることはできなかったんですが、なぜクジラが由比ガ浜に打ち上がったのかについて、理由をひと言で表すのは難しいと思います。しかし近年は相模湾の近海でマグロや本ガツオが釣れたり、一方でアジやサバがいなくなったりと、近隣の人たちは海洋環境の変化を如実に感じています。
そのためクジラが打ち上がったこと、そして胃のなかからプラスチック片が見つかったと聞いて、「あ、やっぱりな」と思った人は多いでしょうね。そういう意識の高まりもあって、葉山は「はやまクリーンプログラム」を現実化できたと思っています。
——プログラムは行政・町民・民間企業の協働によるものですね。
町としては公共施設の売店・自動販売機でペットボトル飲料の販売をやめ、職員にマイボトルの使用を推進するなどの働きかけをしています。
町民の皆さんには、飲食の提供を伴うイベントを町内で行う際には、ペットボトルの会場持ち込みをやめてもらったり、マイ箸・皿・コップを持参してもらうなどの協力をお願いしています。

そして町内の各事業者にはレジ袋やプラスチック容器の削減に向けた取り組みをお願いしたり、また公共施設にウォーターサーバーを設置するといった施策を通して、ペットボトルごみ削減、マイボトルの普及を狙っています。
こうした取り組みから、プラごみゼロの実現やSDGsの目標達成を目指そうというのが「はやまクリーンプログラム」です。
——ペッドボトルの飲料を売らないことに反発はありましたか?
ちょこちょこありましたし、今でもあります。ペットボトルの代わりに缶の飲料を販売していますが、飲みきれないとか、ペットボトルでもきちんと捨てれば良いのではないか、といった声ですね。
——事業者ではなく利用者からなんですね。
企業側からは「仕方ない」といった諦めの声が届いていました。ただ利用者のなかでも子供たちに目を向けると、彼らはだいたい水筒やタンブラーを持っているんですね。
つまり反対する声は大人のものであり、子供たちにはあまり関係ない。この点はとても重要だと思っています。また反発という意味では、家庭ゴミの戸別収集と資源ステーションでの資源物収集についても外部の人からは反対の声がありますね。
——それはどういうものですか?

葉山では2014年から家庭ゴミの戸別収集と資源ステーションでの資源物収集を始めていて、町のなかにゴミ箱はありません。しかし街角や海岸にゴミ箱を勝手に置いたりする人がいます。
ポイ捨て対策であり、「ゴミ箱を置け。置けないなら町のほうで引き取れ」という反発ですね。町民は毎日の暮らしのなかで分別をしてくれています。頑張ってくれているのに、外から来られた人にだけ「ゴミ箱がありますからこちらに捨ててください」というわけにはいきません。
ゴミは町として受け取らない。全部持ち帰ってもらう。もしくは、ゴミになりそうなものは持ち込まないでくださいといったメッセージの発信を強めていかないとな、と思っています。
不法投棄は減っているんです。成果が出ているなら仕方ないという人も増えていると思われるので、ここが踏ん張りどころですね。
——環境を守るために敷居をあえて高くする?
葉山の自然を守ることにつながると思いますね。
——誇りや自負心は土地の価値を高める?
そうですね。実際のところ町民の方々の意識は高いと思います。ゴミの戸別収集について5年ほど前に調べたところ、日本で無料の戸別収集を行なっている自治体は30くらいしかありませんでした。
もちろんそれぞれに事情はあるんですが、葉山のように町民任せで行っている自治体は、おそらく数えるほど。戸別に無料収集するとゴミの総量は増えると思われがちなものの、しっかり減量できていますし、資源化率も県内で1、2位を争うという、町民の高い意識があってこその状況にあるんです。
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——山梨さんの出身は東京・渋谷なんですよね?
そうですね、自宅の近くに原宿キャットストリートがありました。

——キャットストリートが庭だった?
いえ、はい(笑)。
——現在42歳。どんな高校時代でした?
古着ブームが始まっていましたね。よくリーバイスのXXにエンジニアブーツを合わせていました。
——当時は男子高校生によるファッションシーンも元気でしたよね。
そうですね。それに高校時代はヒップホップが入ってきたタイミングだったんです。3年生になるとDJをやってる友達とか、音楽に詳しい人も周りに増えていきました。
——生粋のシティボーイが海と接点を持つようになるきっかけは?
大学進学ですね。生まれ育った環境もあり中高時代は遊びが過ぎまして(笑)、このままだと自分は将来使い物にならないと。
大学は本気で心を入れ替えて過ごそうと思ったんです。父親がウインドサーフィンをしていたこともあって私も少しかじっていました。友達から遊びに誘われる日々のなかで、海の時間だけは自分だけのもの。ならば大学はウインドと真剣に向き合おうと、当時、大学日本一だった関東学院に進みました。
——大学進学前はどのくらいのペースで海に行かれていたんですか?
横須賀に父親がアパートを持っていまして、中学時代は夏休みになるとそこにずっといました。高校生になるとあまり行かなくなってしまったんですけどね。

——それで、大学進学とともに本格的に海と向き合うことになる。
はい。単に大学へ行ったのではなく、「当時大学日本一だった関東学院のウインドサーフィン部に入学した」ともいえる感じでした。ウインドサーフィンにはヨットとサーフィンのいいとこ取りという側面があります。風で進み、波にも乗れます。自在に操れるようになると海の上で自由になれて、とても面白いんです。
道具が大きかったり、風をうまくつかめず流されたりというリスクなど、敷居は確かに低くないんですが、ウインドサーファーだから味わえる快感があるんです。
——メンタルも鍛えられましたか?
例えば2月、ウインドサーフィンのスポットとして有名な伊勢湾には雪解け水が流れ込み、とても冷たいんですよ。海水温は10℃を切り、気温も雪が降るほど。風も強い。
今思えば正気の沙汰ではないですが、過酷な海でトレーニングを積んだ経験によって、どのような困難な状況でも平常心でいられる強さを育めました。命までは取られない。そのような心の在り方ですね。
——オリンピックも目指されたとか。
2004年のアテネオリンピックでは最終選考まで残りましたが、本大会には出られませんでした。その後に選手を退くんですけれど、海外の大会にも出場して世界とのレベルの差を痛感していましたし、合宿中に膝の怪我をして2~3kmしか走れない身体になり、続けることは諦めたんです。
「プラごみゼロ宣言」という先進的な取り組みをする町長という肩書からは、いささか想像しにくい経歴を持つ山梨さん。彼が今、葉山を通じて叶えたい夢とは? 後編へと続く。
熊野淳司=写真 小山内 隆=取材・文