「What’s AIR JORDAN」とは……
「エア ジョーダン」という靴が持つ特異な魅力。それを掘り下げるうえで、1992年は特別な年となる。
それから2度目の引退を表明する1999年まで、“ふたつのジョーダン”の軌跡を追う。
エア ジョーダン 1~2「名作が持つ光と影」
エア ジョーダン 3~6「大きく変わった運命」
エア ジョーダン 7(1992年)
オリンピックの舞台へ羽ばたいた「エア ジョーダン」
「エア ジョーダン 7」が登場した1992年は、NBAの2連覇を成し遂げたマイケル・ジョーダンにとって飛躍の1年となる。
同年には、マイケル・ジョーダンが伝説の「ドリームチーム」の一員としてバルセロナオリンピックに参加したことから、第4弾として“オリンピックカラー”が登場している。このモデルは独特の色使いに加え、ヒールにはジョーダンの代表選手としての背番号「9」が入っている。

大舞台での活躍を支えたシューズだけあって、機能のアップデート面でも特筆すべきものがあった。ティンカー・ハットフィールドは1991年に「エア ハラチ」で採用していたシュータンとアッパーを一体にした「ハラチ システム」と呼ばれる設計をこのモデルにも取り入れ、フィット感を格段に高めることに成功。

ワーナー・ブラザーズの人気キャラクター、バッグス・バニーを起用したプロモーションも「エア ジョーダン 7」を大いに盛り上げた。
エア ジョーダン 8(1993年)
NBA3連覇、そして初の引退まで愛用したモデル
ナイキのロゴが一切入らない屋外用バスケットボールシューズ「エア レイド」のクロスストラップを採用した「エア ジョーダン 8」は、1993年にマイケル・ジョーダンが初のNBA3連覇を達成したときに着用していたモデルであり、オリジナルには3種類のカラーが存在した。

「エア ジョーダン 7」に引き続き、プロモーションではバッグス・バニーを起用。1996年に公開された映画『スペース・ジャム』では、マイケル・ジョーダンとバッグス・バニーは競演も果たしている。
順風満帆かと思われていた矢先、不慮の事故で父親を失う悲劇がマイケル・ジョーダンを襲う。これをきっかけにジョーダンはコートを去り、幼少期からの夢であり、亡き父親との約束だったMLBへの挑戦を表明した。

ティンカー・ハットフィールドは彼の復帰を待つかのように新たな「エア ジョーダン」のデザインに着手。
エア ジョーダン 11(1995年)
オフコートでも活躍したパテントレザーのバッシュ
1995年、“究極のシューズを手掛けたい”というティンカー・ハットフィールドのデザインに対する限りない情熱ととともに、「エア ジョーダン 11」は鮮烈なデビューを果たした。

このモデルが“伝説のバッシュ”となった大きな要因に、マイケル・ジョーダンの要望からアッパーにパテントレザーを使用したことが挙げられる。
そこには2つの理由があった。ひとつは、パテントレザーによって前足部をシューズに固定させることで素早い動きを可能にすること。もうひとつは“オフコートでも履けるシューズ”にするという目的であった。

マイケル・ジョーダンの目論見通り、新たな背番号「45」をヒールに刻んだ「エア ジョーダン 11」は、コートの内外で無類の活躍を見せた。
彼を支持する多くのバスケットプレーヤーに愛用されると同時に、ジョーダンがドレスシューズ代わりにフォーマルなイベントで着用する姿に人々は共感を抱いた。ハイカット以外にも後発でローカットを展開したことも興味深い。
スニーカー史に残るエポックメイキングを起こした「エア ジョーダン 11」の功績は計り知れない。ここからマイケル・ジョーダンは、2度目のNBA3連覇へ向けて走り出していく。
エア ジョーダン 13(1997年)
「ラスト ダンス」を紡いた初のジョーダンブランド作
1997年に発売された「エア ジョーダン 13」は、ジョーダンブランド設立後に初めてリリースされたシグネチャーモデルであった。

1997-1998年シーズンは、のちに「ラスト ダンス」と呼ばれるマイケル・ジョーダンがシカゴ・ブルズに在籍した最後のシーズンにあたり、ほとんどのゲームで彼はこのモデルを着用していた。
マイケル・ジョーダンがコートで活躍する姿を“ブラックパンサー”にたとえたティンカー・ハットフィールドは、シューズの随所にユニークなディテールを落とし込んだ。アッパーの斑点模様、肉球を模したアウトソールの形状、ヒール上部のホログラムなどがそれである。

優勝を決めるファイナルで接戦の末、ユタ・ジャズにした勝利したシカゴ・ブルズは2度目のNBA3連覇を達成。シーズン終了後の1999年、マイケル・ジョーダンは2度目の引退を表明する。
シグネチャーモデルという宿命からか、マイケル・ジョーダンと「エア ジョーダン」は運命共同体のような関係にあるのだろう。
「エア ジョーダン 13」以降、ワシントン・ウィザーズで再度NBA復帰を果たし、最後にコートで着用した「エア ジョーダン 18」までのデザインの変遷には、少なからず試行錯誤の跡が見える。
そして、ティンカー・ハットフィールドは「エア ジョーダン 15」を区切りに「エア ジョーダン」シリーズのデザイナーを一時離任する。
だがしかし、物語はここでは終わらない。
「What’s AIR JORDAN」とは……オークションではマイケル・ジョーダン本人が着用していた「エア ジョーダン 1」が61万5000ドル(約6600万円)で落札。彼が現役引退してからも派生モデルは増殖し、比例するように熱狂的マニアも後を断たず。エア ジョーダンって一体、なんなんだ?
上に戻る戸叶庸之=編集・文 ナイキジャパン=写真