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連載「37.5歳の人生スナップ」
人生の折り返し地点、自分なりに踠いて生き抜いてきた。しかし、このままでいいのかと立ち止まりたくなることもある。

この連載は、ユニークなライフスタイルを選んだ、男たちを描くルポルタージュ。彼らの生活・考えを覗いてみてほしい。生き方のヒントが見つかるはずだ。

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バナナの叩き売りから、大学院へ進学。公認会計士の道へ進んだ男

現在、公認会計士見習いとして東京の大手監査法人に勤める鎌田三郎さん(33歳)。真面目で誠実な人柄は、その見た目にも表れている。「監査」というと、よく耳にする割にいまいちピンとこないが、一体どんな仕事なのか?

「相手は千差万別ですが、今、大きなやりがいをもって臨んでいる仕事相手は自治体です。自治体がやるべきことに予算をつけ、正しくその予算を管理・使用しているかを、資料やヒアリング、現地調査を通して監査しています」。

公認会計士といえば、合格することが非常に難しいとされる、医者・弁護士と並ぶ、三大士業の一角だ。しかし鎌田さん、ストレートでこの道に進んだわけではなかった。大学卒業後、就職して社会に出るものの、26歳で大学院に入り直した。過去にはバナナの叩き売りを往来で行ったり、ベンチャー企業で働いていた経歴もある。

「現在の会社には、ずっと勤めたいと思っています。

経験を積んで一人前になった40歳頃には、地元・福岡に転勤したいと入社当初から相談もしているんです」。

今でこそ、いかにも“勤め人”然としたキャリアパスを語る鎌田さんだが、幼い頃から自営業の父の背中をみながら、独立を意識しながら生きてきた。大きな方針転換にも思える選択だが、なぜ鎌田さんは、公認会計士という道を選ぶことになったのだろうか?


ルート営業からバナナの叩き売り、そして大学院へ

バナナの叩き売りから、大学院へ進学。公認会計士の道へ進んだ男

大学卒業後、地元・九州で飲食関係のルート営業をしていた鎌田さん。しかし、人員の不足から激務が続き退職、しばらく家業を手伝うことにした。

家業とは、鎌田さんの父がオリジナルで製作した英語教材の通信販売だ。元々は英語を学びたいという母のために作った英語初心者のための教材。せっかくなのでと販売してみると思いのほかヒットした。

鎌田さんの父親の人生は、かなり興味深い。19歳で単身渡米し、ロスで働きながら英語の勉強をして、アメリカの大学に入学。さらに、在学中に放浪の旅に出て、ニューヨークからドイツ、スペイン、カナダ、エジプトなど各国を放浪したという。そして現地で質のいい手織り絨毯の買い付けに目をつけ、絨毯の輸入販売で成功を収めた。

そんな商才のある父の背中を見て育った鎌田少年は、幼い頃から自分も自営業で独立して働くんだという気持ちを持っていたという。しかし、実家で暮らした日々は、“父親の仕事を手伝っているだけ“という意識もあり、焦燥感がつきまとった。

「できる父親を持ったプレッシャーっていうのは少なからずあったと思います。自分は人生で何がしたいのか? 見えない時期がありました。そこで見つけたのが、自分を育ててくれた地元に恩返しのできる仕事がしたいという思いでした」。

鎌田さんの生まれ育った北九州市門司区には、バナナの叩き売りという伝統芸能がある。叩き売りの塾生募集の広告を見て、まずはここから始めようと思った。

「1年間講習を受けつつ、道でバナナの叩き売りをやりました。メンバーの中では売れるほうではあったのですが、そこで気づいたのは、人前で何か行うのは自分には向いていないってことでしたね(笑)」。

この間に、独学で日商簿記1級も取得。その後、26歳で大学院の会計研究科に入学する。唐突な気もするが、何かきっかけがあったのだろうか?

「母が59歳で大学に入学したんです。勉強が面白い、と毎日楽しそうでした。働きながら、母親、そして学生という三足のわらじを履いて充実した日々を送っている母の姿が、なにより奮起するきっかけでした」。

会計研究科に入学したのは簿記取得の経験から。自分は「会計に強い」という小さな手がかりをもとに、鎌田さんの大学院生活が始まった。


大学院生活で感じた、自分の弱さ

九州を離れ、初めての東京生活。修士課程修了までの2年間はあっという間に過ぎ去ったという。大学院生活では、改めて学び直しの面白さに気づいた。

「大学時代は、自分の学んでいることが将来何の役に立つのかピンとこないまま受動的に学んでいましたし、楽しいという感覚もなかった。大学院では一度社会に出たことで、実務と座学が結びついて、より実感を持って勉強することができました。初めて勉強が楽しいと思えたかもしれない」。

一方で、大学院には優秀な人が大勢いて、自信を失うこともあった。「鼻っ柱をへし折られました」と鎌田さんは笑う。

「在学中、コンサルティング会社のインターンシップに参加したんです。そこには僕より年齢が若いのに、頭の切れる人がたくさんいて……自分はなんて凝り固まった考え方しかできていなかったんだろうと反省しました」。

東京に来て、少し自信を失った鎌田さんだったが、「独立」という目標は常に頭にあった。

そこで学生による地元、門司区地域活性化プランコンテストを主催する。

バナナの叩き売りから、大学院へ進学。公認会計士の道へ進んだ男
地域活性化プランコンテストを主催した際に取材を受けた、フリーペーパーの紙面

「将来は地元に貢献したいという話をしていたら知人に『じゃあ今やれば?』と言われてハッとしました。そこで学生のうちでしかできないこととしてコンテストに参加するのではなく、主催側にまわってみたんです」。

この挑戦は企画としては一定の成功を収めたが、一方で鎌田さんはまたも自身の弱みに気づくことになる。

「自分は人を引っ張っていくようなリーダータイプじゃないと思い知りました(笑)。独立すると、大きな方向性を決めて自ら先導することが必要になる。そうではない選択肢を考えるきっかけになりましたね。挑戦しないでいたら、きっと無意識のうちに自分の弱みが出る可能性を避け、傷つかないように立ち回っていたと思います。傷ついたからこそ、自分の弱みを直視できたし謙虚になれました」。

だったら自分の得意な会計の分野を生かし、補佐する立場に就こう。そう気づいて、大学院卒業後はベンチャー企業の経理として就職。働きながら、公認会計士試験合格を目指した。

「2年目で受からなかったときは、心が折れかけました。でも諦められない。なんとか3年で受かってみせるとベンチャー企業の上司にも誓いました」。

働きながら公認会計士試験に合格することは非常に難しいとされている。鎌田さんは通信教材のみで、そんな難関を突破した。


弱さに気づくことで見つけた自分の道

バナナの叩き売りから、大学院へ進学。公認会計士の道へ進んだ男

そして今春から現職の大手監査法人に勤めている。とはいえ、まだ公認会計士「見習い」。2年間の実務経験と3年後の修了考査に合格しなければ「公認会計士」にはなれないのだ。

「人生、ずっと勉強だなと思いますね。資格を取得してもどんどん新しい会計基準ができるので、常に勉強は欠かせませんし。今の仕事は福岡との繋がりが強い部署に入れたので、それも良かった。バランスのとれた会社で、将来的には監査だけではなくアドバイザリーとしての仕事も視野に入れつつ、日々を過ごせています」。

今でも地元に恩返しのできる職に、という思いは変わらないという。目標としていた地元に関する仕事にも就けた。40歳を目処に福岡の部署に転勤し働き続けたい、とうれしそうに語る。

独立心を抱き続けてきた鎌田少年は、学び直しやさまざまな経験を経て、自分にあった働き方のスタイルを見つけられた。そして今春、20代前半の若者に混じり、32歳でスタートラインに立ったのだ。

尊敬する父の姿とは少し違う。けれど着実に自分だけの最適解を導き出していた。

藤野ゆり=取材・文

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