移民を受け入れると、日本経済にはどんな影響があるのか。静岡大学の楊海英教授は「中国の政治的統制から逃れようと、多くの中国人富裕層が日本を訪れている。
しかし、彼らが移住してきても経済を押し上げる要因にはならないだろう」という――。
※本稿は、楊海英『中国共産党 歴史を書き換える技術』(ワニブックス【PLUS】新書)の一部を再編集したものです。
■500万円あれば就労ビザが取得できる
中国人富裕層が日本への移住を望む背景には、日本の安定した社会保障制度への期待が要因としてあるだろう。その関連で注目されているのが、日本国内で会社を設立する際に取得可能な「経営・管理ビザ」である。
これは外国人が日本で事業の経営や管理に従事するための在留資格で、資本金わずか500万円を用意すれば取得がほぼ可能とされる。この基準は国際的に見ても極めて緩やかだ。取得後は日本の社会保障制度への加入も認められ、その恩恵は家族にまで及ぶ。
一方、アメリカではトランプ政権下で導入された永住権と就労許可を一体化した「ゴールドカード」制度があるが、取得には500万ドル(約7億4600万円)という高額な投資が求められる。2025年4月にはすでに発行が始まったとも報じられている。金額の妥当性はさておき、明確な参入障壁を設けている点には、制度設計のうえで学ぶべき点があるだろう。
■移民国家カナダと比べても緩すぎる日本
また、移民国家として知られるカナダでも、制度運用には慎重さが貫かれている。たとえば「ケベック州投資家プログラム」では、200万カナダドル(約2億円)の純資産と、120万カナダドル(約1.3億円)の州指定投資が求められている。

これに対し、日本は移民国家ではないにもかかわらず、資本金500万円という驚くほど低い基準で、中国人富裕層の流入を実質的に認めてしまっている。
言うまでもなく、この程度の金額は彼らにとって取るに足らないものであり、すでに中華系の専門ブローカーが乱立して荒稼ぎをしているとの報道もある。制度そのものが「抜け穴」として機能しているとの指摘も少なくなく、もはや日本側が管理・制御の主導権を失い、合法的な移住が実質的に無制限に近いかたちで許容されつつあるのが現状である。
■なぜ中国人富裕層が「国外脱出」するのか
中国人富裕層の「移住の流れ」は、日本側の制度的寛容さだけでは説明しきれない。背後には、中国国内における政治的統制の強化という、より深層的な要因が横たわっている。
毛沢東、鄧小平の時代を経て、中国の政治環境は2010年代以降、大きく様変わりした。とりわけ習近平が共産党総書記として政権を掌握すると、鄧小平の改革開放路線のもとで巨額の富を築いた「紅二代」や「太子党」と呼ばれる特権層との対立が激化し、やがて「反腐敗運動」の名のもとに、彼らに対する徹底した粛清が断行された。
表向きには汚職の一掃を掲げたこの運動も、実際には自身の権力基盤を強化し、党内での求心力を高めることを目的とした政治的手段に他ならなかった。その結果、共産党による統制はかつてないほど強化され、経済的に成功した者が自立的な経済活動を展開する余地が、完全に奪われてしまう形となった。
■日本が「逃避先」として選ばれている
中国国内において富裕層が党の統制を逃れ、自律的に富を活用することは、もはや不可能となっている。こうした現実を彼ら自身が悟ったからこそ、国外移住という選択肢がこれまでになく現実味を帯びてきたのである。
そして今、日本の制度的な甘さと見通しの甘さが、意図せぬかたちで彼らの「逃避先」となりつつある。
この状況を、単なる制度運用上の問題として片づけるべきではない。むしろそれは、中国という体制の構造的限界を映し出す現象として、私たちが真正面から捉え直すべき問題なのである。
振り返れば、かつて日本や欧米諸国に広く共有されていたのは、一つの希望的観測であった。すなわち、中国が経済的に発展すれば、やがて「市民的な中産階級」が台頭し、民主化が進展するであろうという期待である。今日においてもなお、こうした楽観的な見方を唱える政治家や専門家は少なくない。しかしそれは、中国という国家体制の本質を見誤った幻想にすぎない。
■移住しても共産党の枠組みからは出ない
中国における「中産階級」とは、すなわち共産党員のことであり、また経済的成功を収めた富裕層の多くも同様に共産党員である。彼らは常に「党」という政治的枠組みの内部に組み込まれており、その価値観や行動規範も、党の論理によって形成されている。
この構図は中国企業全般にも当てはまる。国有であれ民間であれ、企業は単なる経済主体ではなく、共産党が富を収奪し、それを維持するための政治的装置として機能している。ゆえに、真の意味での経済改革は制度的に不可能であり、それはアリババに対する一連の措置を見れば明らかであろう。
仮に日本やアメリカが、ダンピングなどの不公正な取引を理由に中国系企業を非難し、是正を求めたとしても、当該企業が応じる可能性は極めて低い。
なぜなら、中国において国有企業の意志とは、すなわち中国共産党の意志にほかならず、企業改革とは党の支配構造そのものの変革を意味するからである。
中国の政治経済体制は、西側諸国が前提とする近代化モデルとは本質的に次元を異にしている。にもかかわらず、中国に対して依然として理想的な変化を期待する者は多い。体制の根底にある原理を見極めることなくして、現実的かつ実効性のある対中政策を構築することは不可能であると認識すべきであろう。
■中国人に「爆買い」された不動産の末路
体制的背景を踏まえれば、中国人富裕層による日本への不動産投資が、単なる経済行動にとどまらず、より深い意味を帯びていることが理解できる。
彼らの投資は、高級タワーマンションや著名な観光地の高額物件、さらには無人島の購入といったかたちで展開され、いわゆる「不動産の爆買い」としてメディアにたびたび取り上げられてきた。
こうした動きが過度に膨らめば、中国当局の警戒を招き、資金移動に制限が課されることとなる。実際、投入された資金が宙に浮き、物件が不良資産と化して、投資先がゴーストタウン化する事例も日本各地で起きている。
■日本経済にプラスに働くことはない
背景には、中国当局による海外資金移動への厳格な監視体制がある。特に日本への不動産投資については、当局が常に注視しており、個人の海外送金には年間上限を設け、不動産目的の送金にはとりわけ強い規制が課されている。
中国人民銀行や国家外貨管理局といった監督機関は、金融機関に対して送金申請の審査を厳格化するよう通達を出しており、それを受けた各金融機関は、資金の使途や出所が不明確な申請については保留あるいは却下する対応を取っている。こうした措置によって、富裕層による資金の国外流出は物理的に抑え込まれているのである。

そう考えれば、資本金500万円規模の中国人による小規模な事業が、日本経済を押し上げるほどの成果を上げるとは考えにくい。
■医療・福祉サービスが食い物にされるだけ
にもかかわらず、日本では来日した外国人がわずか3カ月以上の滞在で国民健康保険に加入できる制度が存在し、その結果、日本人と同様の高度な医療サービスを安価に受けることが可能となっている。この制度は富裕層のみならず、留学生や観光客にも適用されているが、その隙を突いて医療や福祉制度を不正に利用する事例も後を絶たない。
この状況が放置されれば、日本が長年にわたり善意と性善説を前提に築いてきた医療・福祉制度は、一部の「中国人富裕層」によって食い物にされることになる。
結果、本来この制度を支えるべき被保険者である日本人が不利益を被り、社会全体における不満や疲弊も、今後ますます深刻化していくことになるだろう。

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楊 海英(よう・かいえい)

静岡大学教授/文化人類学者

1964年、南モンゴル(中国・内モンゴル自治区)出身。北京第二外国語学院大学日本語学科卒業。1989年に来日。国立民族学博物館、総合研究大学院大学で文学博士。2000年に帰化し、2006年から現職。司馬遼太郎賞や正論新風賞などを受賞。著書に『逆転の大中国史』『独裁の中国現代史』など。


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(静岡大学教授/文化人類学者 楊 海英)
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