■朝ドラのエピソードは完全なフィクション
五代友厚(才助)は、「東の渋沢、西の五代」と、渋沢栄一と並び称された大阪の大実業家である。近年は、NHK 朝の連続テレビ小説『あさが来た』の主人公・白岡あさ(モデルは広岡浅子、大阪の実業家・教育者)が尊敬する実業家として登場、人気俳優のディーン・フジオカさんが友厚を好演したことで、一気に地名度が高まった。
ただ、残念ながら『あさが来た』での白岡あさ(広岡浅子)と五代友厚の話は、完全なフィクションなのである。友厚は、浅子の夫・広岡信五郎と共同事業はおこなっているものの、浅子の実家・油小路三井家に出入りした記録はないし、浅子との直接的な交流も見いだすことはできない。互いに面識程度はあったろうが、親しく接する間柄ではなかったと思われる。
そんな五代友厚だが、戦時中まではあまり知られていなかったし、地元の大阪人からも忘れ去られていた。
■「友厚の方が終始一貫してはるかに立派」
『夫婦善哉』で知られる大阪出身の作家・織田作之助は、昭和18年(1943)に刊行した『大阪の指導者』(錦城出版社)の中で、友厚について次のように述べている。
「渋澤榮一を引き合ひに出したのは、明治財界の指導者として友厚の位置が榮一と相竝(なら)んでゐるからにほかならない。相竝んでゐるばかりではなく、幕末維新における志士としての活動をいふ點(てん)より、この二人の先覚者を比較すれば、友厚の方が終始一貫してはるかに立派である。この點、友厚は明治實業家中ただ一人の人ではあるまいか。しかも、榮一は永く記憶され喧傳(けんでん)され、友厚は忘れられ黙殺されている。
このように作之助は、五代友厚が渋沢栄一をもしのぐ大実業家だったにもかかわらず、まったく世人から忘却されている現状を嘆いている。その上で作之助は、「維新の変革期に大阪は極度に衰微した。それを救った人が五代である。彼がいなければ、大阪は凋落の一途をたどり、今日の大阪を見ることはできなかったろう」と非常に高く評価する。
■元薩摩藩士の経歴を利用した「悪人」
しかし戦後になると一転、五代友厚はすべての高校日本史の教科書に記載され、授業で学ぶ必須人物となったのである。一つ、日本史の教科書を紹介しよう。
「北海道の開拓使所属の官有物を払い下げるに当たり、旧薩摩藩出身の開拓長官黒田清隆は、同藩出身の政商五代友厚らが関係する関西貿易社に不当に安い価格で払い下げようとして問題化した。」(『改訂 詳説日本史B』山川出版社 2022年)
このように五代友厚は、薩摩閥という政府のコネを利用し、不当な値段で国有の土地や建物、船や工場を手に入れようとした悪徳実業家のように記されているのだ。
「政商」とは、政府から特権や保護を受け、独占的な利益を上げた商人のこと。いずれにせよ、朝の連続テレビ小説『あさが来た』が放映される前までは、「五代友厚=悪人」というイメージが、世間に定着していたのである。
■誤報が史実のほうに広がってしまった
ところが近年、そんな友厚に関する教科書の記述に変化が見られるようになった。最新の日本史教科書をみてみよう。
「旧薩摩藩出身の開拓長官黒田清隆が、同藩出身の政商五代友厚らが関係する関西貿易社などに北海道の開拓使所属の官有物を不当に安い価格で払い下げようとしていると報じられ、問題化した」(『詳説日本史 日本史探究』山川出版社 2023年)
一見、ほとんど以前の教科書と内容が変わらないように見えるが、「不当に安い価格で払い下げようとしていると」の後に、新たに「報じられ」という文言が入ったことがわかるだろう。
近年の歴史研究により、官有物の払い下げを持ちかけたのは政府の黒田清隆のほうで、友厚はその申し出を断っていたことが判明した。
しかし当時は、自由民権派(反薩摩閥派)の新聞は、あたかも払い下げが事実であるかのように報道し、それが世間に広まり、攻撃を受けてしまったのだ。そうしたなかで友厚は、「自分はいささかも天に恥じることはない」と言って、一切弁明しようとしなかった。たいへん立派な態度だと思うが、皮肉にも抗弁しなかったことで、その誤報が史実のように後世に伝わってしまったというわけだ。
ただ、教科書の記述もこのように正され、ようやく濡れ衣が晴らされたのである。
■大阪の発展のため商工会議所の前身を設立
鉱山業や製藍業のほか、じつに多くの事業を展開していった友厚だが、同時に大阪の商業発展のためにさまざまな組織をつくりあげていった。
その一つが明治11年(1878)に友厚が発起人となって設立した大阪株式取引所である。取引所は資本金を20万円とし、株式を募集し130名の創立株主を得て活動がはじまった。さらに同年、藤田伝三郎や広瀬宰平ら有志15名とともに、大阪商法会議所を設立したのである。
大阪府知事に提出した願書には、
「欧米各国では商法会議所を多く設け、とても益があると聞いていますし、東京府でもすでに商法会議所の許可がおりています。大阪は商家が密集し、多くの品物が集まる地です。なのに各自が旧慣に安んじ、商法も決まっておりません。
とある。こうして同年9月、大阪商法会議所の設立が許可された。
■毎日のように大酒を飲み、糖尿病に
会頭には友厚が選ばれ、会議所も当初は朝陽館内におかれた。会頭になった友厚は会員集めに力を入れたが、「後から加盟しても受け入れないかもしれないし、多額の入会費を徴収する」と半ば脅して加入させた。大阪中の主な経営者が参加することで、はじめて勝手気ままな商売ではない、信用と秩序ある商いが可能だと考えたのである。
明治13年には、若い実業家を育てるため、商業専門の学校・大阪商業講習所を設立している。
このように大阪の実業界に偉大な足跡を残した友厚だったが、その死は意外に早く訪れてしまった。健康には自信があり、薬など飲んだことがなかった。飲んだのは酒である。だいの焼酎好きで、毎日のように大酒をしていた。46歳の明治13年頃から心臓の調子が悪くなったが、その後も忙しい日々を送っていた。酒もやめなかった。
■49歳で死去、葬儀では4800人が悼んだ
それでも酒やタバコはやめず、病気は悪化の一途をたどり、翌明治18年になると、流石に酒は控えるようになった。だが、春になると再び飲酒を始めてしまう。糖尿病のために目が悪くなり、ときおり胸痛に襲われ、食欲もなくなっていった。
見舞いに来た同郷の松方正義がその病状に驚き、薩摩出身の軍医・高木兼寛を遣わした。高木は友厚に東京で治療すべきだと強く勧め、まだ死ぬ気がなかった友厚も、それに素直に従い8月に東京に移った。だが、当時の医学ではもはや手遅れの状態で、翌9月25日、友厚は満49歳の若さで生涯を閉じてしまった。
2日後、友厚の遺体は横浜港を出て、神戸に着き、そこからは汽車で大阪の中之島の屋敷に運ばれた。10月2日に自宅でおこなわれた葬儀にはなんと4800名の人びとが弔問に訪れた。その後、阿倍野墓地に葬るため友厚の棺は自宅を発した。その葬列は1.5キロ以上に及び、沿道には彼の死を悼む人びとであふれた。
■日本を豊かにすることに命を懸けた人生
友厚の死から6年後に発刊された坪谷善四郎著『内外豪商列伝』(博文館 明治24年刊)によれば、その数は数万人に及んだと伝えられる。
最後に言えば、友厚の死後、五代家には100万円の借金が残ったという。子孫に資産を残さなかったのである。この一事をもって、五代友厚という実業家が、己を富ますことではなく、日本を富ますことに命を懸けてきたことが、はっきりと理解できるだろう。
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河合 敦(かわい・あつし)
歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数
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(歴史作家 河合 敦)