■「ふりかけ」だけど、ふりかけない
広島県廿日市にある宮島口フェリー乗り場に隣接する商業施設「etto」。ここで、ふりかけを“巻いた”おにぎりが食べられると聞いて向かった。
ふりかけといえば、ご飯にサッとふりかけるもの――。しかし、この「巻くふりかけ」は、その名の通り“ふりかけない”。ご飯に重ねたり、おにぎりの海苔のように巻いたりするのだ。特殊な技術で加工されたシート状のふりかけは、素材の味そのもの。国産の材料で作られ、表面はサラリとしていて、まるで柔らかな海苔のようだ。
「簡単にお弁当をカラフルにできる」「デコレーションしやすい」「巻いても割れないから安心感がある」と、2020年の発売以来、SNSではデコ弁やキャラ弁の素材として人気を集めている。鮮やかな彩りのおにぎりは食欲をそそり、思わずかぶりつきたくなる。
店内を見渡せば、「広島ちりめん」「呉カレー風味」といったご当地ふりかけから、サラダ用ふりかけまで、スーパーでは見かけない珍しいふりかけがずらりと並ぶ。これらの商品を開発したのは、125年の歴史を持つ広島市の「田中食品」だ。
いったいなぜ、老舗のふりかけメーカーが市場にない一風変わった商品を開発しているのだろうか?
その謎を解き明かすべく、私は宮島から路面電車で田中食品の本社へと向かった。5代目社長の田中孝幸さんに会うためだ。現在40歳の孝幸さんは、テレビで見た通りの穏やかで優しい雰囲気の持ち主。しかし、会話の端々からは、地方企業の「ド根性」がひしひしと伝わってきた。
「世の中にないものを作るっていうのを、1つの使命だと思ってるんです。じゃないと歴史だけにすがっている会社になってしまうんで」
新しい商品を開発する思い、突然の父の死、そして日本で初めて「ふりかけ」を作った企業としての意地――。孝幸さんから見た田中食品の真髄とは?
■「日本初」を作った曾祖父
田中食品の始まりは明治34年(1901年)。広島県呉市で初代・田中保太郎さんが漬物や佃煮、味噌、缶詰の製造をはじめたことから始まった。
事業の転機は、納品先であった海軍からこのような要請を受けたことからだった。
「兵隊が栄養不足で脚気(ビタミンB1の欠乏により起こる病気)になって、命を落とすことがある。
この難題に、身内を戦地に送り出していた保太郎さんは「若者に栄養のあるものを食べてもらいたい」という思いで引き受け、明治時代に小魚の粉末としょうゆ、ごま、あおさを合わせたふりかけを開発。「旅行の友」と名付けた。当初は海軍に卸していたが、大正5年(1916年)に一般家庭向けに広く販売した。この商品が、日本で最初に作られたふりかけと言われている。
その後、田中食品は事業を拡大していく。孝幸さんの父・茂樹さんが代表を務めていた2011年頃には会社の過去最高売上を達成。国内だけでなく、ハワイなど海外への輸出も上り調子だった。
だが、27歳の孝幸さんが入社した2012年以降、環境の変化により厳しい局面に入っていく。海外での反日感情や物流問題、それだけでなく「混ぜ込み系ふりかけ」の台頭により、次第に他社のブランディング力におされていった。
■尽きることのない父のアイデア
厳しい経営環境の中で、茂樹さんは先陣を切って新商品のアイデアを考えた。
「(父も)同じことを繰り返してはいけないという気持ちが強いんです。私もどこかでアイデアが尽きそうで怖くもあります。
その中には、今では笑い話になるような失敗作もある。どんなものあるのか尋ねると、孝幸さんは「30年くらい前の父の企画なんですが」と静かに語り出した。
それは、サンリオキャラクターのキティちゃんとコラボした「ピンクのイチゴ味」のふりかけ。「可愛いし、意外性があり、いける!」と思ったものの、話題性だけで時代としては早すぎた。アイスクリームにかけるなら美味しそうだが、その時はごはんにかける想定だったという。
取材に同席した当時を知る社員は「砂糖をごはんにかけているみたいでした(笑)」と教えてくれた。
■広島らしい商品を目指して
新商品が必ず売れるとは限らない。データ上、売り上げが伸びない商品は1年ほどで廃盤になることも。売れなければ在庫過多になり、資金繰りに大きな影響が出る。開発に携わった孝幸さんも、プレッシャーを感じながら攻めの姿勢でヒット商品を生み出そうと取り組んだ。
20代の頃の思い出を、孝幸さんはこう語った。
「以前、地元の取引先から『広島らしいふりかけを作って』と依頼を受けました。でも納期はたったの1ヵ月。商品開発には半年はかかるのに。ほぼ徹夜で開発に取り組みました。パッケージのデザインでも横文字にするか、縦文字にするかで取引先と議論して、『それって、固定観念じゃないですか?』ぐらいまで言って。若気の至りですよね(笑)」
孝幸さんが最もこだわったのは、素材と原料。そして、「誰が食べても美味しい」という状態に仕上げることだ。比較的安価な値段で販売されるふりかけが他社との差別化を図るには、消費者に「また食べたい」と思われなければならない。
■父から子へ受け継がれたプロジェクト
「巻くふりかけ」の構想は、1990年代からあったという。茂樹さんのアイデアの一つで、田中食品の社員たちは「なんとか形にしよう」と一進一退を続けてきた。
まず、わかめを板状の乾燥品にするところから試作を重ねたが、一つの大きな壁にぶつかった。
「素材の繊維って、乾燥させたらバリバリになるんです。食物繊維のある赤しそなんてシート状にするのが本当に難しい。穴が空いたり、割れたりで、季節や温度や湿度、それから乾燥させるスピードによって商品の状態が大きく変わってしまうんです」
季節を通して原料ごとのデータを蓄積せねばならず、1年、また1年と時が過ぎ、30年以上の歳月が経った。
この困難な開発を支えたのは、技術顧問とベテランの技術開発者だ。彼らは素材にどのような配合のバランスにすればシート状になるのかを研究し、製造機を一から設計してくれたという。
孝幸さんは技術開発者の仕事ぶりについて、「手書きで新たな機械の設計図を描くんですよ。まるでガリレオ・ガリレイみたいで、本当にこんな人たちがいるんだって。お会いすると鳥肌が立ちます」と語る。
孝幸さんも、長年会社に勤めてきた相談役と共に生産工場に通いつめた。試作品を食べては会議で父や上層部に発表し、食感や味わいを技術開発者に伝える。その繰り返しだった。
「おにぎりにした時に馴染む薄さと破れない柔軟性、そして国産の素材のみを使った、美味しくて健康的な商品を作りたい……」
アイデアを生み出す父。それをなんとか形にしようとする息子。この2人とともに、社内スタッフや技術開発者たちは「広島からとびきり美味しいふりかけを生み出そう」と奮闘した。
成果が実ったのは、2019年の冬。予想していなかった条件で、穴の空いていないシート状のふりかけが出来上がったのだ。
■コロナ禍の船出
そこから、とんとん拍子で製品化が進んだ。外気の変動や季節に関係なく安定した品質を実現するため、建物の壁を分厚くするなどの工場の改修に加え、数千万円規模の機械投資を実施した。
パッケージデザインは、国内だけでなく海外展開も視野に入れ、輸入食品ショップで売られているような高級路線かつ斬新なイメージを採用した。
2020年2月、通販で「巻くふりかけ」を発売。同年4月には宮島に直営店「旅行の友本舗」を開設し、商品の店頭販売とともに「巻くふりかけ」を使ったおにぎりのテイクアウトも始めた。
だが、その直後に田中食品はコロナ禍という世界的なパンデミックに飲み込まれた。店はオープンからわずか11日で一時休業に追い込まれるという、最悪のタイミングだった。
だが、田中食品はへこたれなかった。「 巻くふりかけ」をホテル、飲食店や広島空港などのお土産売り場などに卸すことに注力した。
「巻くふりかけ」は、業界の市場がガラッと変わる商品になる――。社員たちもそう確信したからこそ、地道に営業をしたのだろう。その努力が実り、テーマパークのキッズメニューで「巻くふりかけ」が期間限定で採用されるなど、目新しさが話題を呼ぶようになる。なかでも、宅配で期間限定商品として打ち出すと、通常の企画販売の1.8倍の売上げを記録。着実に実績を積み上げた。
■軌道に乗った矢先の「父の急死」
「巻くふりかけ」が認知され始めた2023年7月、田中食品に激震が走った。
健康そのものだった父が突然倒れ、帰らぬ人となったのだ。原因は心不全だった。当時、副社長を務めていた孝幸さんは、父の葬儀の2週間後に社長に就いた。
早急な就任には理由があった。2週間以内に登記を変更しないと業務に支障をきたす恐れがあったのだ。その時、孝幸さんは広島市商工会議所の青年部で会長を任され、私生活では結婚したばかりだった。
当時の心境を聞くと、彼はふうとため息をついて、空を仰いだ。
「いまだに亡くなった実感がないです。バタバタし過ぎて、父がどこかで仕事をしていそうな感じ。本当にそんな感じなんですよ」
「巻くふりかけ」は、今や自社通販と店舗販売で売り上げトップの商品だ。商標と特許をダブルで取得し、市場での独占権を確保。
「通常のふりかけと比較すると高いラインナップだと思います。国産原料にこだわり、ほぼ素材だけで作られているんです」と彼が言うように、5枚入りで540円という価格で、安価な印象があるふりかけのイメージからの脱却を図っている。
メディアに取り上げられる機会も増え、2025年1月には 広島市が認定する「ザ・広島ブランド」に仲間入り。父・茂樹さんのアイデア商品は今、人の心を掴み始めている。
■広告費より、技術と材料にお金をかける
田中食品は、大手メーカーのふりかけの認知度に比べると、まだ広くは知られていない。私自身、田中食品の元祖ふりかけ「旅行の友」を知らなかった。「ふりかけ」と聞けば、最初に「のりたま」が思い浮かぶ。こういった大手メーカーのふりかけについて、田中食品はどのように思っているのか。
「他社のヒット商品に嫉妬することはありますか?」と聞いてみると、孝幸さんは「うーん」と悩みながらこう答えた。
「他社の商品のチェックは行っています。私たちは広告費をかけるより、技術や材料費にお金をかけてきました。常に時代に求められる商品開発を行っていきたいと考えています」
孝幸さんが急に社長に就任後も焦らずに事業を続けているのは、周りにいる企業の社長さんたちからのアドバイスが支えになっているようだ。
「父の知り合いの、広島の優良企業のJさんから『経営は点、線、面で考えたらいいよ。いつか三角形になる』って言われたことがあったんです。その意味をずっと考えていたら、スティーブ・ジョブズの『Connecting The Dots(点と点をつなぐ)』の話と繋がって。たくさん経験を積んで、点を線にすればいつかは形になる。だから失敗しても気にしないで挑戦しようと思ってます」
■いつか、ふりかけ界の手塚治虫に
取材の帰り、孝幸さんの母・岳子さんが応接室にやってきた。会社の専務として共に働いているという。「うちの母は、話が深まったところにいつも入ってくるんです」と孝幸さんが笑みを浮かべる。岳子さんは「最初から来てはお邪魔かなって思ったのよ」と明るい笑顔を息子に向けた。
朗らかな母と、アイデアマンの父の元で育った孝幸さんは、現在40歳。穏やかな話し方だが、言葉には「まだまだ。このままでは終わらない」という熱い気持ちが伺えた。
孝幸さんは今、「ふりかけを巻く」という概念を市場に根付かせようとしている。まずは、日本で、そして世界、宇宙へ。新たなフィールドへの展開を視野に入れている。
なぜ宇宙なのか? それは遠い未来、いつか来るであろう万人の宇宙での暮らしに向けた食品にしたいと考えているからだ。従来のふりかけは粉末状で無重力の空間には適さなかったが、「巻くふりかけ」ならその課題を解決できる。
「いつか『鉄腕アトム』の手塚治虫みたいに、この社長は先を見据えていたんだなと思ってもらえますかね」と孝幸さんは笑った。
■「元祖」にあぐらをかかない
老舗企業だからといって、同じものを作っていては意味がない。孝幸さんはそれを一番に伝えたいのだろう。
「これからはもっと人の健康寿命を延ばせるような、例えば病気の経過を遅らせられるような、そういうふりかけを作りたい」と孝幸さん。
広告費よりも、技術や材料費に投資するという田中食品のスタイルは、会社が誕生した背景に繋がるのかもしれない。
「戦地へと向かった家族、そして兵隊さんのために、栄養価の高いものを作ろう」
この創業者の思いが「子を想う親心」として120年以上の歳月をかけて令和の時代に辿り着き、「世の中にないものを作る」「人の健康を守る」という使命になったのではないだろうか。
帰り際、本社ビルの外まで見送りに来てくれた孝幸さんが言った。
「1番手が2番手に追い抜かれるのは、どの業界でもよくあることです。あぐらをかいてちゃいけないってことでしょうね」
平和の町・広島で、新たな可能性が芽吹いていた。
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池田 アユリ(いけだ・あゆり)
インタビューライター
愛知県出身。大手ブライダル企業に4年勤め、学生時代に始めた社交ダンスで2013年にプロデビュー。2020年からライターとして執筆活動を展開。現在は奈良県で社交ダンスの講師をしながら、誰かを勇気づける文章を目指して取材を行う。『大阪の生活史』(筑摩書房)にて聞き手を担当。4人姉妹の長女で1児の母。
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(インタビューライター 池田 アユリ)