※本稿は、井上章一『阪神ファンとダイビング 道頓堀と御堂筋の物語』(祥伝社新書)の一部を再編集したものです。
■いいところまではいく「万年2位」
1960年代の前半に、阪神は2回、セ・リーグで優勝を勝ちとった。その後も、1970年代のなかばごろまでは、比較的強いチームでありつづける。優勝こそしなかったが、たいてい上位のAクラスにはいっていた。
とりわけ、1968年から1973年までは、安定した成績をのこしたと思う。1971年に5位へ転落したが、それ以外の年は2位の座をいとめつづけている。ただ、たいてい阪神が2位となったその時期に、いつも優勝をしたのは読売であった。ジャイアンツの9連覇(1965~1973年)と、ほぼそれはかさなっている。
阪神もいいところまでいくが、最後は読売の軍門に下る。そんなペナントレースが、毎年のようにくりひろげられた。ただ、そのおかげで、阪神は読売の対抗馬めいた存在としてながめられやすくなる。
■南海は弱くなり、阪急は観客が集まらない
1950年代に、読売のライバルとみなされた球団の代表は、なんといっても南海である。日本シリーズで両者は、しばしばあいまみえ、激闘をくりひろげた。そして、1959年以外の南海読売戦は、みな後者に凱歌があがっている。けっきょく、読売に名をなさしめる二番手の役目は、南海がになってきた。
ただ、1960年代後半から、南海は戦力を低下させていく。日本シリーズへ出場して、読売と対決することが、かなわなくなっていった。かわって、パ・リーグで台頭しだしたのは、阪急ブレーブスである。しかし、当時の阪急もまた、9連覇の読売には歯がたたなかった。日本一をきめる舞台では、ジャイアンツに苦汁をなめさせられつづけている。
対読売という日本シリーズでの役割は、南海から阪急へひきつがれた。読売にしりぞけられるというポジションまで、継承している。
■「読売のライバル」は阪神のポジションに
そのいっぽうで、同じ時期の阪神は甲子園球場への動員をふやしている。リーグ戦は2位におわっても、ジャイアンツとせりあえば客がくる。球団の経営陣も、そんな認識をもちだした。
優勝なんかされると、選手のサラリーをあげなければならなくなるから、こまる。1位は読売にゆずり、うちは2位というあたりがいい。経営側が、公然とそういうことを言いだすのは、このころである。
ジャイアンツの好敵手としてむきあい、最後の花は相手にもたせつづける。この役目は、日本シリーズに関するかぎり、南海から阪急へバトンがわたされた。だが、リーグ戦では、阪神をにない手とするようになっている。
これは、プロ野球観戦のありかたがかわってきたことを、おそらく物語る。かつて、野球好きは日本シリーズという最終決戦に、最大の興味をよせてきた。しかし、時代が下るとともに、通常のリーグ戦へむかう関心も高まりだす。とりわけ、読売が所属するセ・リーグに、その傾向ははっきりあらわれた。
だから、読売のライバルとみなされる位置も、阪神がせしめるようになる。リーグ戦では、月に2度ほど対読売の3連戦がくめる。しかも、せりあって最後は敗退する。そんな阪神に、読売のひきたて役めいた光があたりだす。日本シリーズでしか対戦できなかった阪急は、その脚光をあびられない。かつての南海は、同じ条件でももてはやされたのに。
■サンテレビが完全生中継をスタート
今のべているこの時期に、テレビ放送の世界が、少しばかり変動した。
この新しいテレビ局は、地元の球団である阪神タイガースをとりあげだす。セ・リーグにおける阪神の試合を、対読売戦以外は、みな中継しはじめた。しかも、試合がはじまってからおわるまでのすべてを、つたえるようになっている。いわゆる完全生中継にのりだした。
読売戦をながしづらかったのは、ほかでもない。この球団がテレビ局にもとめる放映権料が、高かったからである。日本テレビをはじめとするキイ局には、それが買えた。また、キイ局とネットワーク関係をむすぶ放送局も、それをうつしだすことができる。そして、新興の弱小UHF局は、高価な読売戦の放映権料に、手がでなかった。
■格安で放送枠を埋められるメリット
だが、セ・リーグの他球団に、それほど高い商品価値はない。
くりかえすが、サンテレビは新参のUHF局であった。自前の放映ソフトを、それほど多くもっていたわけではない。また、自社で番組を制作する力も弱かった。にもかかわらず、開局した以上は、朝から晩までの放送枠をうめなければならない。初期の同局が、古い映画などの再放送で対処しがちであったことを、思いだす。
そんなサンテレビにとって、野球の試合はかっこうの放映ソフトとなった。とにかく、完全生中継だから、3時間くらいは枠をとる。試合によっては、4時間以上におよぶ場合もある。
■「阪神は人気が出る」と予見していた
阪神球団にたいしては、ずいぶんひややかな書きっぷりになってしまった。少し、言葉をおぎなっておこう。
なるほど、当時の阪神はテレビの世界で、さほどの力をもっていなかった。少なくとも、21世紀の今日とくらべれば、ずいぶん非力である。しかし、まったく力がなかったのかというと、そんなこともない。
サンテレビが放送を開始したころは、阪急がめざましい活躍ぶりをしめしていた。パ・リーグの常勝球団となっている。だが、そんな阪急に食指をうごかそうと、この新興テレビ局はしていない。阪急も兵庫の球団である。しかし、サンテレビが目をつけたのは阪神だった。同局が阪神のほうに、より強い訴求力を見ていたのは、まちがいない。
また、さきほどものべたとおり、阪神は1960年代後半に観客動員力を高めていた。これからは、もっと人気のひろがっていきそうな気配を、かもしだしていたのである。サンテレビは、いかほどかそこにも期待をしていたろう。
関西圏では、阪神と阪急以外に、南海と近鉄も球団をかかえていた。そして、1960年代後半には、多くの地方UHF局が産声をあげている。たとえば、大阪ではテレビ大阪も、同じころに開局した。しかし、同局は大阪を本拠とする南海や近鉄に、くいこもうとしていない。関西の地方局がとびついたのは、サンテレビの阪神だけなのである。
■阪神戦が減った原因は値上がりか?
サンテレビがはじめた阪神の中継は、やがて兵庫以外の地域へもひろがっていく。たとえば、私が見ていた京都の近畿放送(現KBS京都)も、これをながしはじめた。やがては、大阪の準キイ局も、阪神戦の中継へのりだすようになる。この経緯を見れば、阪神にテレビ的な価値を発見したのはサンテレビだったと言ってよい。
今、在阪の準キイ局は、どこも阪神の試合をうつすことに、力をいれている。NHKもふくめ、たいそう積極的である。阪神がしめす放映権料も、そうとう高くなっているだろう。そう言えば、サンテレビで中継される阪神戦の数は、ずいぶんへってきた。阪神の売り手市場になっているせいか。サンテレビでは買いづらくなっているのだと、想像する。
そんな今日の情勢とくらべれば、やはり往時の阪神は存在感がうすい。それこそ、サンテレビでも、読売戦以外は全試合の放映権を買うことができた。そのていどの放映権料しか要求できない球団だったのだなと、かみしめる。
■苦労を分かち合った「糟糠の妻」のよう
くりかえすが、1960年代後半から、阪神はブレイクの予感をただよわせだしていた。その潜在的な力に、サンテレビは目をつけたのだと、言って言えなくもない。将来の有望株を見ぬく眼力が、あったかどうかは不明である。ただ、結果からさかのぼってながめれば、同局は成長株をひろっていたことになる。
1960年代の阪神ファンは、今ほど肥大化していなかった。ただ、拡大への可能性は見せている。神戸の新興地方局は、そんな球団に目をつけ、放映ソフトとして採用した。この下ざさえもあって、阪神ファンの数は1970年代以後、ますますふくらんでいく。
おかげで、阪神の放映権料は高騰した。もう、サンテレビに、全試合が買いきれる金額ではなくなっている。おのずと、同局は身をひき、試合の中継をほかの在阪テレビ局へゆずるようになる。あるいは、BS各局へ。その姿が、すてられた糟糠(そうこう)の妻めいて見える。いずれにせよ、サンテレビがはたした役目は小さくない。
■「中継はジャイアンツだけ」に歯止め
じっさい、ある時期まで民放各局は、ほぼジャイアンツの試合しかうつさなかった。読売対どこそこというセ・リーグのカードばかりを、特権的にながしていたのである。だから、テレビでプロ野球をたのしむ人びとは、たいてい読売を応援した。そもそも、他球団の選手は、対読売戦でしかテレビに登場しなかったのである。
この状況に歯止めをかけたのは、サンテレビであった。とにかく、この局は阪神の選手を、ほぼ毎試合うつしつづけたのである。その画面がとどく範囲は、当初兵庫にかぎられた。やがては、大阪、京都へとひろがりだす。このテレビ局は、近畿地方で阪神ファンを拡大する大きなはたらきを、はたしてきた。
関西圏だけの話ではない。中京圏でも、地元のテレビは中日ドラゴンズを応援するようになったろう。広島でも、カープは同じようなテレビ事情にささえられたはずである。時代が下れば、このうごきはパ・リーグに飛び火する。北海道、東北、九州でも似たようなからくりが作動し、地元チームのひいき筋が成長した。あるいは、千葉や埼玉でも。
■結果的に「地方の反乱」につながった
テレビがジャイアンツの試合ばかりをながし、野球好きの多くをそのファンにしてしまう。この東京読売一極集中体制は、地方新興局の参入によりくずれていった。これらの地方局は野球愛好家を、地元球団の支持者へと、変容させたのである。
以前は、読売を軸とする野球中継のありかたが、テレビの世界に形成されていた。日本テレビをはじめとする東京のキイ局が、その体制を維持してきたのである。
新興の地方UHF局に、これをくつがえそうとする意図があったわけではない。読売の試合には手がでないから、安あがりの地元球団と連携しだしたまでである。しかし、これが結果的に、地方の反乱めいた事態をもたらした。野球放送の世界を地方の時代へむかわせる。そのひきがねめいた役目をつとめたのである。
■地上波テレビの野球中継が激減した背景
おかげで、読売をひいきする野球好きは、ずいぶんへっている。全国のジャイアンツファンは、応援する球団を地元のそれへのりかえた。今でも読売にこだわる人が多いのは、てきとうな地元球団が見いだせない地域であろう。あとは、首都東京のひいき筋ぐらいか。
ただ、そのせいで全国ネットにたえうる地上波テレビの野球中継は、激減した。考えてもみてほしい。テレビの野球中継をたのしみにしている人の多数が読売びいきだったら、どうなるか。その場合は、読売対どこそこの中継が、全国で高い視聴率をとる優良ソフトになるだろう。じじつ、20世紀のなかばすぎごろまでは、その状態がたもたれた。
しかし、ファンの地方分散がすすめば、そういうわけにもいかなくなる。今の読売ファンは圧倒的な多数派たりえないから、高い視聴率がかせげない。たとえば、中日広島戦あたりの訴求力を、読売の試合は大きく上まわれなくなっている。全国ネットの番組として通用しづらくなったのは、そのためである。
ただ、国別対抗戦になると日本の視聴者は、たいてい日本のナショナルチームを応援する。WBCやオリンピックの試合は、そのため視聴率のとれるカードとなる。そちらには、今のテレビ局、東京のキイ局も大きな期待をよせていると考える。
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井上 章一(いのうえ・しょういち)
国際日本文化研究センター所長
1955年、京都府生まれ。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。京都大学人文科学研究所助手、国際日本文化研究センター教授などを経て、現職。専門の建築史、意匠論の他、日本文化や美人論など研究分野は多岐にわたる。『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞、『南蛮幻想』で芸術選奨文部大臣賞、『京都ぎらい』で新書大賞2016を受賞。著書に『ふんどしニッポン』『ヤマトタケルの日本史』『関西人の正体〈増補版〉』など。
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(国際日本文化研究センター所長 井上 章一)