大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」に芸人・司会者の有吉弘行が演じる服部半蔵が登場。菊地浩之さんは「家康に仕えた伊賀忍者の頭目と同名だが、家康の直参になった服部家が改易されて越中・松平家の家臣になるまでには紆余曲折があった」という――。

■なぜ定信の家臣に服部半蔵がいるのか
8月31日放送のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で、松平定信(井上祐喜)の家臣に服部半蔵(はっとりはんぞう)(有吉弘行)が登場した。忍者の頭目として有名な、家康家臣のアノ服部半蔵と同名だが、その子孫なのだろうか? そして、なぜ定信の家臣なのだろうか?
結論から言ってしまうと、定信家臣の服部半蔵正礼(まさよし)(?~1824)は、アノ服部半蔵正成の直系の子孫である。ではなぜ、定信の家臣なのかというと……その前に先祖の正成について復習しておこう。
服部半蔵正成(まさなり)(1542~1596)は通称を半蔵(あるいは半三)、石見守(いわみのかみ)という(嫡男が「まさなり」なので、山田孝之が正成を演じた『どうする家康』では「まさしげ」と読んでいたが、『寛政重修諸家譜』のフリガナに従って、本稿では「まさなり」とする)。
■家康の「伊賀越え」に功績があったというが…
天正10(1582)年6月に本能寺の変が起こった時、家康は堺(大阪府堺市)を遊覧中だった。報せを聞いた家康一行は、堺から伊賀(三重県伊賀市)を経由して、命からがら三河岡崎(愛知県岡崎市)に舞い戻った。これを「神君伊賀越え」というのだが、半蔵正成はこの時、伊賀・甲賀の地侍に案内させて伊賀越えを主導し、大きな功績があったという伝説がある。
あえて「伝説」と書いたのは、公式記録には半蔵正成の活躍が一文字も残されていないからだ。昭和9(1934)年に岡崎市が『岡崎市史別巻 徳川家康と其周囲』という書籍を編纂し、古文書や幕府編纂史料を参照して家康の業績を記しているが、「家康の伊賀越」には服部半蔵の名前は出てこない。
伊賀越え伝説から、半蔵正成は伊賀に住んでいて、家康を助け、それを機に徳川家臣に編入されたとの誤解されているような気がするのだが、徳川(松平)家に仕えたのは父・服部半三保長(はんぞうやすなが)(正種(まさたね)ともいう)の時からだという。半蔵正成は六男二女の兄弟の五男として生まれ、7歳で大樹寺に修行に出されたが、10歳で寺から脱走したという。つまり、半蔵正成は7歳の時に三河に在住していた伊賀者二世なのだ。
だから、伊賀越えの時に、急に伊賀・甲賀の地侍を先導できたのかは非常に疑問だ。
■幕府が開かれたとき「半蔵門」エリアを拝領
そして、半蔵正成は16歳の時、「伊賀の忍びのもの六七十人を率ゐて城内に忍び入、戦功をはげます。これを賞されて御持槍(長七寸八分両鎬)を拝賜す」(『寛政重修諸家譜』)。という。この戦は永禄5(1562)年の三河西郡(さいごおり)上郷城攻めの話で、実際は21歳のことらしい。家康側の武将・松井忠次は早くから伊賀者・甲賀者を召し抱えていたという証言があり、忠次がその人脈を駆使して忍びの者を使ったという(ちなみに、松井忠次は一般に松平康親(やすちか)と呼ばれ、老中・松平康福(やすよし)(「べらぼう」の相島一之)の先祖にあたる)。
半蔵正成もその一人に過ぎなかったのかもしれない。ただし、家康から槍を拝領するくらい、その時の働きが抜群だったのだろう。その後の軍歴は伊賀者ではなく、一般の三河武士と変わらない。たとえていうなら、社長(家康)に認められ、専門職(忍び)から総合職(一般の三河武士)に転職したのではないか。
そして、半蔵正成は元亀3(1572)年に伊賀者150人、天正18(1590)年の関東入国の頃、与力30騎、伊賀同心200人を預けられ、8千石を領した。また、江戸城西側の城門近く――俗にいう「半蔵門」――に屋敷を与えられた。

■半蔵正成が死ぬと、伊賀者は空中分解し改易
ここで勘違いしやすいのは、服部半蔵が並外れた能力を持った忍びだったから、伊賀者を束ねていたという認識だ。たとえばである。日本の企業が国際部門を立ち上げた場合、その部長に外国人を据えたりするだろうか。国際感覚の豊富な日本人を部長にする方が圧倒的に多いだろう。
その部長の役割は、経営層や他部門の考えを咀嚼(そしゃく)して部下に指示することであって、部下の外国人の考えを集約して経営層に伝えることではないからだ。そう考えるに至ったのは、半蔵正成の死後、伊賀者の間に不満が鬱積して御家騒動が勃発。服部家が改易されてしまったからだ。
慶長元(1596)年に半蔵正成が死去すると、長男・服部石見守正就(まさなり)(1576?~1615)に5千石、次男・服部伊豆守正重に3千石が与えられた。
しかし、正就は慶長9(1604)年に不行状により改易されてしまう。幕藩体制に移行するにあたって、家康に仕えていた伊賀者は、服部家臣団に組み込まれていった。これに対して伊賀者は家康の臣下の礼を取ったが、服部家の家臣になった覚えはないと不満を漏らして反抗。正就はその動きを抑えられなかったのだ。

■長男の正就は大坂夏の陣で奮戦し、討ち死
ただし、同様の事例はその時期にはそこかしこにあった。たとえば、本多忠勝家中の重臣は、元々家康の直臣だった者が永禄9(1566)年頃に忠勝の与力にされ、忠勝が大名となるに際してその家臣になった。では、本多家中では不満が出ずに、服部家中で不満が出るのだろうか。これは野球選手出身でないと野球団の監督になれない論理(選手が監督に敬意を払わず、言うことを聞かない)と同じであろう。本多家中は忠勝の武人としての才能を評価していたが、伊賀者は服部半蔵の忍びとしての才能を評価していなかったのだろう。
正就の妻は、家康の異父弟・久松松平定勝の長女である。そのため、正就は定勝に預けられたが、その罪をそそがんがため、元和元(1615)年に大坂夏の陣で奮戦して討ち死にした。
半蔵正成の次男・正重は慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦で抜け駆けして家康の怒りを買い、結城秀康(家康の次男)の取りなしで赦された。
■半蔵の孫たちはどう生き延びたのか?
正重の妻は大久保長安(ちょうあん)の娘である。長安は甲斐武田旧臣で、金採掘に敏腕を振るい、佐渡金山開発などに従事。正重も佐渡に赴任した。しかし、慶長18(1613)年に長安の不正蓄財が露見し、その遺児が失脚・改易されてしまう。
正重は無関係であると連座を免れたが、その命令書を越前(福井県)で受け取ったため、無断出国が違法として改易された。
正就・正重ともに改易されてしまったため、半蔵正成の子孫は幕臣として永らえることはなかった。
正就の長男・服部式部正幸は、11歳の時に父が討ち死にし、久松松平定勝の嫡男・久松定行に養われ、その家臣となった。また、次男・服部源右衛門正辰(げんえもんまさとき)も、定行の弟・久松松平定綱に養われ、その家臣となった。
正重は改易され、村上義明、堀直寄(ほりなおより)に預けられたが、寛永19(1642)年に堀家が無嗣断絶になったため、各地を流浪した後、久松松平定綱に仕え、2千石の家老となった(おそらく甥・服部正辰の手引きがあったのだろう)。子孫は代々家老を務め、「半蔵」を襲名した。
■松平定信が半蔵の子孫を重用していたワケ
松平定信はこの定綱の子孫の婿養子であり、冒頭の服部半蔵正礼は正重の子孫である。
松平定信が諸大名の人望が高く「黒ごまむすびの会」を主宰するに至ったのは、天明の飢饉(ききん)での対処が適切で、白河藩内に飢餓者が出なかったことであるが、江戸在府の定信に代わって、正礼が白河で飢饉対応に尽力していたのである。きっと有吉弘行のように抜け目なく、それでいて堅実な人物だったに違いない。
ちなみに、なぜ「服部」と書いて「はっとり」と読むのかといえば、もともとは機(はた)を織って服を作っていたことから、服をつくっていた部民(ぶのたみ)を服部=機織部(はたおりべ)といい、それが略されて「はっとり」と読むようになったようだ。

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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)

経営史学者・系図研究者

1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。
勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。

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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)
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