余命いくばくもない人と接する際には何に気を付ければいいのか。咽頭がんで47歳でこの世を去ったサイモン・ボアスさんが終末期の過ごし方について書いた本『死ぬとき後悔するのは「しなかった」こと』(KADOKAWA)より、一部を紹介する――。

■「がんの国」を訪れた者からのアドバイス
死にゆく人は一人ひとり違う。だから、その人の望みに合わせて行動することが基本になる。聖書の言葉や新しい治療法を求めている人もいるかもしれないし、大勢の人にお見舞いに来てほしいと思っている人もいるかもしれない。もしそうなら、できる限りその要望に応えてあげよう。
そのことを踏まえたうえで、僕は自分と同じように「がんの国」を片道切符で訪れた仲間たちとの会話を通して得た、いくつかのアドバイスを紹介したい。他に情報がないのなら、まずはこれらを参考にしてみるのも悪くないと思う。
僕たちのような境遇にある人たちは、あなたに自分の望みを伝える余力がない場合もあるし、望みを伝えることであなたを怒らせたくないとも思っているかもしれない。そのことを覚えておいてほしい。
これから紹介するアドバイスには、「すべきこと」よりも「すべきではないこと」のほうが少し多くなっている。その中には、少し厳しいものもあるかもしれない。「すべきではないこと」のどれかをしたことがあるという人がいても(僕自身も、何度かしてしまったことがある)、あまり気にしないでほしい。死を迎えようとしている人は、相手に悪意がないことを知っているはずだから。

■連絡を取ることをためらう必要はない
連絡を取る
これが一番のアドバイスだ。手遅れになるまで待ったり、何か悪いことをしてしまわないかと心配したりしないでほしい。死を迎えようとしている者にとって、誰かが自分のことを想ってくれていると知るのは素晴らしいことだ。僕は、自分のがんが発見された後も、いつまで経っても連絡をしてきてくれない何人かの知り合いのことを頭に浮かべて「なんでだろう?」と悲しい気分になったことがある。
そんなときは、その人は死を恐れているのかもしれないし、どんな言葉をかけていいのかわからないのかもしれないと自分に言い聞かせた。僕の差し迫った死が、その人にとってのトラウマを呼び起こしたのかもしれない。
あるいは、その人自身が僕に連絡する余裕もないほど辛い時期を過ごしていたのかもしれない(だから、末期患者の人には、「誰が連絡をくれたか、くれなかったか」についてあまり気にしないようにすることをアドバイスしたい)。それでも、連絡をもらえるのはやはり嬉しいものだ。僕は、親しい人であれ、30年間連絡を取っていなかった人であれ、メッセージをもらうのが大好きだった。
ただし、連絡するときは、相手にそれをどう受け取られるかを少し考えてみよう(それから、突然電話をかけるのではなく、まずはメールやメッセージ、手紙を送ってほしい。その理由は、次に説明するように、突然相手のいる場所を訪れるべきではないのと同じだ)。以下に、いくつかのヒントを紹介する。
もちろん、これは直接会う場合にも当てはまる。
■予期せぬ訪問は患者の貴重な時間を奪ってしまう
突然相手のいる場所を訪問してはいけない
僕は幸運にも、とても大切にしている人たちがたくさんいる。けれども、人は死期を迎えているとわかったとき、物事にシビアに優先順位をつけ、健康状態や面倒な治療が許す限り、残された時間をどう使うかを考えなければならなくなる。
そんなとき、予期せぬ訪問(あるいは、ごく手短な知らせがあるだけで、実際には突然現れるのと同じような訪問)をされると、死にゆく者とその身内にとって、大きな迷惑になりかねない。
しかも、その相手が感慨に耽ったり(「あなたには、以前から伝えたいことがあったんだ……」)、病気の話題を避けるために世間話に終始したり(死を間近に控えている者にとって、誰かの子どものテストの結果や、最近行ったばかりのモロッコ旅行の話を聞かされるのは、簡単なことではない)するのに長々と付き合わなければならない場合もある。
概して、死にゆく者を見舞うのは難しいものだ。死を控えた人の中には、大勢がお見舞いに来てくれること(もちろん、事前にきちんと準備をしたうえで)を望む者もいれば、お見舞いは少なくてもいい、あるいは誰にも来てほしくないと思う者もいる。
僕自身は、会いに来たいという人にはぜひ会いたいけれど、基本的には大勢と会うのは大変だと思っている。大切な人が会いに来てくれるのは嬉しいし、できれば一緒に紅茶やお酒を飲みたい。でも、その数が100人にもなると、そうも言っていられなくなる。
だから僕は、せっかく会いに来たいと言ってきてくれた人を遠ざけるという、失礼なことをしてしまったケースもあるかもしれない。でも、どうかそれはあなたに会いたくないわけでも、あなたのことを大切に思っていないわけでも、愛していないわけでもないことを理解してほしい。

■最後の訪問は訪問する側のためにある
そして「お別れ」については、個人的に、ごく少数の近親者を除いて、最後のお別れをする必要も望みも感じていない。
友人たちには、病魔に襲われて弱っている状態での数時間のことではなく、若い頃に一緒に過ごした週末や、花火で遊んでいて近所の納屋を燃やしてしまったときのことなんかを思い出してほしい(僕が入院しているジャージー・ホスピスは、実際には面会時間の規定などはないにもかかわらず、規定があるように見せかけて、僕たち患者が必要なときに静かに過ごせるようにしてくれる)。
あえて言うなら(こう言ってしまうことには罪悪感も覚えるのだが)、最後の訪問はたいてい、訪問される側よりもする側のためのものだ。だから、最期の時を迎えようとしている者のところに無理をして訪れる必要はない。ましてや、病気の知らせを聞いて一目散にかけつけるなんてことをしなくてもいい。できることなら会いたいけど、やっぱりやめておくね、と伝えるだけでも十分だ。
■どうでもいい話より、楽しい思い出話
死の話題を避けない
物事をどれくらい単刀直入に話すか、婉曲的な表現を用いるか、その許容範囲は人それぞれだ(僕は個人的には「亡くなった」というよりも、「死んだ」というストレートな言い方のほうが好きだ)。
それでもあなたは相手に対して、最期の時が近づいていることや、残された時間がわずかしかないかもしれないという事実について、そっと切り出すことはできる。もう、死ぬこととはまったく違う話題について気楽なメールを送っている状況ではないのだ(もちろん、ちょっとした近況報告をしてくれるのはとても嬉しいけれど)。
メールやメッセージを送るとき、話題を逸らそうとして無関係な話をしようとするくらいなら、相手との過去の楽しい思い出について触れるのがいいと思う。対面の場合や電話とは違って、書き言葉のコミュニケーションをするときは、「いつか伝えたいと思っていたことがあった……」という話を切り出しやすい(「実は、数年前に君の妻と寝たことがあるんだ」といった話ではない限り)。
■ブラックユーモアは死を迎える側だけのもの
死を矮小化しない
僕が自分の運命についてどんなに軽薄なことを言ったとしても、それを真似するときは注意してほしい。
ある言葉が、かつてその言葉を使われていた側の人しか使えなくなることがあるのと同じように、死に関するブラックユーモアは死を迎える側のものであり、慰める側のものではない。
僕はまた、スイスの自殺幇助団体「ディグニタス」をもじった「インディグニタス」(道化師の恰好をした人を窓から突き落とす安楽死クリニック)や、自分の遺灰はサイクリスト集団の目の中に投げ込んでほしいというジョークを言ったりもする。でも、たとえ僕のことをよく知っていても、同じようなジョークを僕の目の前で言うのはやめてもらいたい。
また、「(死ぬことで)少なくとも~しなくてよくなる」といった面白おかしい表現をするのも避けてほしい。僕は何度かこの手の表現で傑作なものを耳にしたことがあり、そのときは笑うことができた。
それでも、死を迎えている人は、「少なくとも惨めな老後を送らなくてもいい」「少なくとも天国という今より良い場所に行ける」「少なくとも住宅ローンをこれ以上払わなくてもいい」「少なくとも次の選挙で投票しなくてもいい」などといったジョークは聞きたくない。
■「きっと病気を克服できる」という声掛けはいらない
死の話題を避けることや、死を矮小化することとはまた少し違うが、「どんなに病状が悪くても、それでも君はがんを克服できる」と言い張る人もいる。
僕は、イギリス国王のジョージ5世についての(おそらくは脚色された)逸話を思い出す。ジョージ5世は病気で療養中、海辺の町ボグナーで療養することになった。周りから、「あなたはすぐに病気を克服できます。つきましては、この町の名前に“王”を意味するリージスというお言葉を付してもいいですか?」と尋ねられ、「ボグナーなんてどうでもいい(Bugger Bognor)」と答えたという。
周りの人は、善意から「放射線療法はきっとうまくいくよ」とか「いとこの犬のトリマーが医者の予想に反して一晩で寛解した」などと言うけれど、そういう人は、僕の話を聞いていないように思える。

僕が苦しんでいるという事実を否定しようとするのは、親切なことではない。問題から目を逸らしているように感じる(しかも、僕のためにというよりも、その人自身のために)。死を迎えようとしている人が根っからの楽観主義者なのだとしたら、それでもいいだろう。でもそうでない場合は、そんな話は「どうでもいい」としか思えない。
■「奇跡の治療法」のアドバイスは最悪
返事の負担をかけすぎない
「返信は不要です」というメッセージを受け取るのは嬉しい。なぜなら、返信するには体力や気力が必要になるからだ。
だから、死にゆく人に連絡するときは、メッセージの中に質問は書かないほうがいい。そうすると、こちらは答えなくてもいい。これはメールや手紙だけでなく、Facebook やWhatsAppなどのSNSでも同じだ。「化学療法はどうだった?」と尋ねるよりも、「今日、君のことを想ってた」と書くほうがずっといい。「ありがとう」やハートの絵文字だけで返信できるメッセージは、相手に負担をかけずに愛や支えを伝えられる。
医学的なアドバイスをしない
死にゆく人たちの健康の状態について、具体的に質問しないでほしい。
治療法を勧めるのもお願いだから避けてほしい。骨転移の詳細や、現在の治療の詳細(たいていひどい痛みを伴い、惨めな思いをすることも多い)について尋ねられるのは気持ちのいいものではない。最悪なのは、アドバイスされたり、奇跡の治療法を勧められたりすることだ。
■「ポジティブでいよう」で前向きにはなれない
僕はがんのことしか言えないが、周りから、実に様々な治療や薬を勧められた。ブラックシードオイルやアプリコット、チェリー、ターメリック、はちみつ、重曹、無糖食、適応外薬、ナミビアにしかないハーブの調合など。
その中にはいつか効果があると証明される、今はまだあまり知られていないものがあるのかもしれない。けれども、世界の大手製薬会社による陰謀で、これらが世の人々の手に入ることが阻まれているというわけではないはずだ(もし、これらにがん治療の効果があると証明できたら、それはノーベル賞級の発見になるはずだ)。
こうした怪しげな治療法や薬に対する僕の反応は、コメディアンのティム・ミンチンの「効果のある代替医療が何と呼ばれているか知ってる? 薬だ!」という気の利いたジョークと同じだ。
また、前向きでいることの大切さを患者に思い出させようとする人も多い(これも、僕自身がやったことがある)。実際には、そうすることが病状を上向かせるという科学的根拠はない(ただし、それは生活の質を高めるのには役立つ)。
だけど一番重要なのは、体のあちこちをチューブでつながれ、先立つ子どもについて親がどう考えているかについて思いを馳せているときに、そう簡単に前向きになれるものではないということだ。よくても空しさを感じるし、最悪の場合は、何か悪いことをしているのではないかという罪悪感に苛まれたりする。それに、そもそも誰かに「ポジティブでいよう」と言われただけで、前向きな気持ちになれたりはしない。
■医者でもない人からの治療法アドバイスは不要
新しい科学的な治療法に期待するのは、おそらくもっと難しいだろう。知り合いの姉妹に効果があったという治療法を誰かに教えたくなる気持ちはわかるし、数年後には主流になるはずの薬の臨床試験が様々な病気に対して行われていることも確かだ。
また僕は、ハンブルクの新しい陽子線治療からエストニアの先駆的な免疫学者まで、可能性のあるあらゆる治療を試したいと切望しているがん患者もたくさん知っている。だけど、こうした治療法を誰かに勧める際には(特に医師ではなく、新聞で読んだだけという人は)、慎重になるべきだ。
僕の場合、最初は医学的に不安定なスタートを切ったが、その後は信頼できる医師のチームを得ることができてとても幸せだった。僕にとっての大きなメリットは、治療を彼らに任せられることだ。僕は自分の命を数カ月長持ちさせてくれる臨床試験や薬を彼らが探し出してくれると確信している。そのおかげで、「最善の治療法を自分で探さなければならない」という精神的な負担から解放されている。
周りの人が善意で治療法や薬を勧めると、死を間近に控えた患者の心の重荷になることもある(「スーザンが教えてくれたイスタンブールでの新しい化学療法を試してみるべきだったのかもしれない」)。それに、そのような推奨をしてくるということは、その人は患者が死を迎えようとしているのを認めていないことにもなる。

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サイモン・ボアス
1977年生まれ。幼少期をロンドンとウィンチェスターで過ごした。1993年、16歳でボスニアに初めて救援隊として派遣されたのをきっかけに海外援助に目覚め、開発慈善団体や国連でキャリアを積む。アフリカで長年働き、ベトナム、エジプト、トルコ、ネパール、インド、パレスチナ自治区で暮らした。最後の8年間はジャージー島に住み、最愛の妻オレリーとフレンチ・シープドッグのピピンを伴って、島の海外援助機関を運営していた。2024年死去。

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(サイモン・ボアス)
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