生涯、記憶力を維持するには何をすればいいか。医師の和田秀樹さんは「年配者でも20代でも『昔は簡単に記憶できた』といったような“美しい錯覚”に陥り、マイナスの自己暗示をかけると記憶力は落ちていく」という――。

※本稿は、和田秀樹『70歳からの老けないボケない記憶術』(ワン・パブリッシング)の一部を再編集したものです。
■記銘力低下を回避するたった2つの方法とは
認知症が疑われるような記銘力低下があったときは、専門医を受診する必要もあるかもしれません。
でも、一過性の低下であれば回避するための、じつにシンプルな方法があります。それが何だかわかりますか?
・メモする

・誰かに伝える
この2つをやるだけです。
自分の脳に浮かんだり、閃いたりした入力(インプット)情報を、文字化や発語によって出力(アウトプット)することで、確かなものとして定着させるのです。
知人の出版プロデューサーはこれまで数々のミリオンセラーを世に出してきました。85歳を過ぎた今も現役で、メモする習慣はハンパではありません。雑談中や食事中であっても、閃くとすぐにメモをします。
時には街を歩いているときにも立ち止まってメモすることもあるといいます。そればかりか、家でもその習慣は徹底していて、リビング、寝室はもちろん、浴室、トイレにもメモ帳を置いているとのことでした。
なんでも、30年ほどの前のこと、あるプランが閃いたのに忘れてしまったことがあり、しばらくして同じコンセプトの本が出版され、大ヒットになったことがあったとか。「あの悔しさは忘れない」と、以来“メモ魔”になったのだそうです。

彼はいまだに手書きのメモですが、スマホにメモ機能やボイスレコーダーがあるので、その機能を活用するのもいいかもしれません。メモは忘れないための有力なメソッドです。
とくに、人生の終着駅がチラチラと見えているような70代、80代の高齢者では、「あれ、なんだっけ?」の時間はもったいない以外の何物でもありません。「脳は忘れっぽい」と肝に銘じておくべきでしょう。
■四の五の言わずに覚えなければならないこともある
これまで言ってきたことと矛盾するかもしれませんが、「覚悟」という意味では、これからお話しする2つの項目も頭に片隅に置いていただけたらと思います。
勉強でなんらかの成果を得るためには、楽なことばかりしていてはいけません。時には脳を悩ませるプログラムもこなさなければなりません。それは70歳になっても同様です。
とくに必要なのが、自分がトライするジャンルの基礎的知識を、四の五の言わずに身につける覚悟です。
たとえば、趣味の将棋においての勉強を例にとりましょう。
将棋の実力を本当にアップさせたいと考えるなら、「居飛車(いびしゃ)」「振り飛車」をベースとした“定跡”をできるだけ覚えなければなりません。
私自身、将棋にはそれほどくわしいわけではありません。
それでも、「居飛車」なら、「矢倉(やぐら)」「角換(かくが)わり」「横歩取(よこふど)り」、「振り飛車」なら、「四間(しけん)飛車」「三間(さんけん)飛車」「向かい飛車」など、いくつもの戦法があることは知っています。
将棋のセンスを持っているような人でも、これらの基本的戦法を、プロ棋士たちの対局記録である「棋譜」を見ながら覚えなければなりません。
こうしたプロセスにおいては、楽しいだけではすまされないそれなりの基礎学習が必要です。とりわけ大切なのが必要な知識を「詰め込む」こと。つまり、「暗記」です。
■「暗記なんて本当の勉強じゃない」は間違い
趣味のことですから、それほど苦にならないことかもしれませんが、人によってはこの段階で嫌になって上達の道を閉ざしてしまうこともあるでしょう。
これは、囲碁、将棋、麻雀はもとより、音楽、料理、家庭菜園、盆栽など、他の趣味のすべてにも共通することです。
「暗記なんて本当の勉強じゃない」
よく、したり顔でそんなことを口にする人がいますが、その人は本当の勉強をしたことのない人だと思います。勉強は、まず暗記から始まるのです。
数学でいえば、九九のできない人は微分・積分などはもちろんのこと、因数分解さえできません。スポーツも同様です。野球でキャッチボールや素振りをいいかげんにやっていたら、うまい選手になれるはずもありません。

暗記で基礎知識を定着させる。反復練習で基本動作を体に覚えさせる……。こういったことが、あらゆる勉強の必須条件です。
もちろんそこには「記憶術」も含まれます。
そしてそれは60歳になろうが70歳になろうが同様です。例外はありません。
■「基礎知識の詰め込み」のどこがいけないのか
1980年代、日本では「ゆとり教育」が脚光を浴びていました。
当時の文部省(現文部科学省)が「知識量偏重型を是正し、思考力を鍛えることに重点を置く」という教育方針に舵を切ったのです。それまでの「詰め込み教育」は間違っていたとの判断のもとでの決定でした。
「詰め込み教育」は、「現代化カリキュラム」という学習指導要領が実施された1970年代前半から始まりましたが、いわゆる落ちこぼれの増加などで徐々に批判されるようになりました。その改革案として登場したのが学習指導要領でいうところの「ゆとりカリキュラム」です。
「現代化カリキュラム」では小学校6年間で5821コマ、中学3年間で3535コマだったのに対して、2002年の「ゆとりカリキュラム」では小学校6年間で5367コマ、中学3年間で2940コマと、学習時間が大幅に削減されたのです。

その結果、どうなったでしょう。
日本の児童・生徒に著しい学力低下が生じたのです。ですから2011年以降、その方針は見直されました。
しかし、残念なことにその内容は「詰め込み教育」時代の水準には戻されていません。
国際的に見ても、日本の児童・生徒の学力は低下傾向のままです。思考力の上昇を裏づけるデータもまったくありません。
こうしたことから考えてみても、勉強にとって「四の五の言わずに暗記する」というプロセスがいかに重要であるかが見えてくるのではないでしょうか。
高齢者と呼ばれる年齢になっても、プライベートな趣味のシーンであれ、仕事のシーンであれ、怠けず、よけいなことは考えずに覚えなければならない知識、セオリーがあることを忘れてはなりません。
「型があるから型破りができる」

「型がなければ単なる形無し」
十八代目中村勘三郎さんの言葉です。
どんな世界でも、基本的知識を「詰め込むこと」の大切さは共通するのではないでしょうか。この考えこそが豊かな70代を生きるための必須課題だと思っています。
■記憶力が落ちていく3つの原因
認知症にならなくても、記憶力が落ちていくことはあります。
それにはおおむね、次の3つの原因や理由が挙げられます。
ひとつ目は、自分で「記憶力が落ちた」と決めつけ、記憶する意欲をなくしてしまう場合です。若い頃は誰しもそれなりに努力するものです。
ところが、中高年になると、大半の人はそうした努力をしなくなってしまいます。それなのに、「昔は簡単に記憶できた」といったような“美しい錯覚”に陥り、「記憶力が落ちた」と慨嘆する……。
こうした「マイナスの自己暗示」は、百害あって一利なしです。これは年配者に限った現象ではなく、たとえば20代の若い人でも、「高校時代と比べると、記憶力が落ちた」といったマイナス暗示をかけると、記憶力は落ちていきます。
記憶力が落ちる2つ目の原因は、強すぎるストレスです。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉を耳にしたことがあると思います。強度のストレスにより海馬などに異常が現れる障害で、もとはベトナム戦争や湾岸戦争の帰還兵に多く見られた症状でした。戦場での恐怖や死に対する極度のストレスにより、妄想や幻覚にも悩まされ、復員後も普通の生活が送れなくなる元兵士が続出したのです。
彼らの脳内をMRI(磁気共鳴画像)という装置で調べたところ、記憶の入力を司る海馬がかなり萎縮していることがわかりました。
幼児期に虐待を受けた人も、同様な症状が起きることがわかっています。
■男性ホルモンの減少が記憶力の低下につながる
なぜ、強すぎるストレスは、脳に悪影響を与えるのでしょうか?
ストレスにさらされると、副腎皮質(腎臓の近くにある内分泌器官)からコルチゾンという物質が分泌されます。コルチゾンは、脳内のさまざまな部位に悪影響を与えるのですが、海馬はその攻撃を真っ先に受けて、記憶の入力機能が低下してしまいます。
これは、「昔の苦しい体験を思い出したくない」「悲しいことは忘れたい」という脳の自己防衛的な働きでもあります。逆にいうと、脳を活性化させ、記憶力をよくするには、まずは落ち着いた精神状態を保てる環境づくりが必要なのです。
「定年退職して、今はストレスとは無縁」という人もいるかもしれませんが、じつは老後は人生最大級のストレスにさらされる時期です。
その原因は、配偶者の死、自らの病気、失業などです。とりわけ、私は、最愛の妻を亡くした高齢男性が一気にボケてしまうケースを多数見てきました。人生最大級のストレスによって、海馬が傷ついたことが原因というケースが多かったのだと見ています。
記憶力が落ちる理由の最後のひとつは、生物学的な理由です。
中高年以降、男性ホルモンが減少していきますが、それが記憶力の低下につながることは意外に知られていません。
男性ホルモンの減少は、記憶に影響する神経伝達物質のアセチルコリンを減らすことにつながっていると考えられているのです。
また、“幸せホルモン”とも呼ばれるセロトニンなどが減ると、精神的に不安定になり、うつ病を発症させることもあります。
そうなってしまうと、周囲に対する関心や注意が減るため、記憶力が急激に衰えます。とくに老年性のうつ病では、記憶力低下が著しく、認知症と誤診されることも珍しくありません。

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和田 秀樹(わだ・ひでき)

精神科医

1960年、大阪府生まれ。東京大学医学部卒業。精神科医。東京大学医学部附属病院精神神経科助手、アメリカ・カール・メニンガー精神医学校国際フェローを経て、現在、和田秀樹こころと体のクリニック院長。国際医療福祉大学教授(医療福祉学研究科臨床心理学専攻)。一橋大学経済学部非常勤講師(医療経済学)。川崎幸病院精神科顧問。高齢者専門の精神科医として、30年以上にわたって高齢者医療の現場に携わっている。2022年総合ベストセラーに輝いた『80歳の壁』(幻冬舎新書)をはじめ、『70歳が老化の分かれ道』(詩想社新書)、『老いの品格』(PHP新書)、『老後は要領』(幻冬舎)、『不安に負けない気持ちの整理術』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『どうせ死ぬんだから 好きなことだけやって寿命を使いきる』(SBクリエイティブ)、『60歳を過ぎたらやめるが勝ち 年をとるほどに幸せになる「しなくていい」暮らし』(主婦と生活社)など著書多数。

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(精神科医 和田 秀樹)
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