アメリカのトランプ大統領やNHK党の立花孝志氏には、その言動に証拠や確証がなくても呼応する「支持者」がいる。なぜなのか。
戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏は「どんなに優秀な人でも、確たる証拠がなくてもあっさりとその言動を信じてしまう簡単なトリックがある」という――。
※本稿は、山崎雅弘『ウソが勝者となる時代』(祥伝社)の一部を再編集したものです。
■19世紀末に社会心理学者が分析した群衆心理
アメリカのドナルド・トランプやNHK党の立花孝志。
その思考形態や言動には、似通った点が多々あるように思いますが、彼らを取り巻いて応援する支持者の存在も、大きな共通点であろうと思います。
トランプや立花の支持者は、政治家の支持者というよりは熱狂的なファンあるいは崇拝者であり、乱暴な口調で攻撃を煽る「笛」を吹かれると、あたかも最高指導者から命令を受けた兵隊のように、その手が指し示す方角にいる「敵」に集団で襲いかかります。
こうした大衆扇動の恐ろしい光景は、近現代史で幾度も繰り返されてきました。
「群衆は、どんなに不偏不党と想像されるものであっても、多くの場合、何かを期待して注意の集中状態にあるために、暗示にはかかりやすいのである。一度暗示が与えられると、それは、感染によって、ただちにあらゆる頭脳にきざみこまれて、即座に感情の転換を起こすのである。暗示を与えられた者にあっては、固定観念が行為に変化しがちである。宮殿に放火する場合にせよ、あるいは献身的な事業を遂行する場合にせよ、群衆は、同一の無造作をもって、それにうちこむ」
これは、19世紀末にフランスの社会心理学者ギュスターヴ・ル・ボンが、社会や歴史をしばしば動かす力を持つ「群衆(同一方向へ向かう感情や観念を共有する人間集団)」の心理構造を分析した名著『群衆心理』(櫻井成夫訳 講談社学術文庫)の一節です。
■群衆と個人では「同じ人でも行動が変わる」
ル・ボンは、歴史上のさまざまな社会的事例を踏まえ、群衆の性質として「衝動的で、動揺しやすく、昂奮しやすい」「暗示を受けやすく、物事を軽々しく信ずる」「感情が誇張的で、単純である」「偏狭さと横暴さと保守的偏向」「推理する力のないこと、判断力および批判精神を欠いている」などを挙げた上で、一人の人間が「群衆を構成する者」となった時、個人でいる時とは異質な思考と行動の原理に突き動かされるという現象を指摘しました。
「心理的群衆の示す最もきわだった事実は、次のようなことである。
すなわち、それを構成する個人の如何を問わず、その生活様式、職業、性格あるいは知力の類似や相違を問わず、単にその個人が群衆になり変わったという事実だけで、その個人に一種の集団精神が与えられるようになる。この精神のために、その個人の感じ方、考え方、行動の仕方が、各自孤立しているときの感じ方、考え方、行動の仕方とは全く異なってくるのである」
■群衆に宿る「宗教的感情」
アメリカの場合、トランプを支持して「MAGA」の帽子をかぶる人たちも、テレビの街頭インタビューや家庭を訪問する取材の内容を見る限り、皆がトランプのように自己中心的であるわけではなく、「プラウド・ボーイズ」のような極端な集団を別にすれば、普段はごく普通の市民として暮らし、周囲の人にも親切だったりするようです。
けれども、トランプを支持する集団という一つの「群衆」となった時、その考え方や行動は、個人としてのそれとはまったく別のものに変化してしまう。一人の個人であれば、鵜呑みにしないような「ウソに基づく言いがかり」でも、「群衆」に埋没した瞬間から、それを「事実」だと確信し、それに準じた行動をとってしまう。そんな確信の背景には、特定の指導者に対する「宗教的感情」があると、ル・ボンは指摘します。
「この感情は、極めて単純な特徴を具えている。すなわち、優越者と目される人物に対する崇拝心、その人物が有すると思われる権力に対する畏敬の念、彼の命令に対する盲目的服従、彼の説く教義を論議することの不可能なこと、その教義を流布しようとする欲望、それの認容を拒む者をすべて敵対者と見なす傾向、などである」
■群衆は献身的行動を取るときもある
ル・ボンは、「群衆」という概念を否定的な文脈のみで捉えてはおらず、時にはこうした人々が立派な献身的行動をとる場合もあると書いています。
しかし、多くの場合、人が「群衆」となった時に思考や行動が粗暴になり、倫理面で社会にダメージを与えることがしばしば起きると、警鐘を鳴らします。
「人間は群衆の一員となるという事実だけで、文明の段階を幾つもくだってしまうのである。それは、孤立していたときには、恐らく教養のある人であったろうが、群衆に加わると、本能的な人間、従って野蛮人と化してしまうのだ」
彼は、人が「群衆」となった時に起きる内面的な変化について、一時的な責任感の喪失と、集団が持つ力への過信という現象を指摘します。
「群衆の強烈な感情は、特に、異なった分子から成る異質の群衆において、責任観念を欠いているために、さらに極端となる。罰をまぬかれるという確信、群衆が多人数になればなるほど強まるこの確信、また多数のために生ずる一時的ではあるが強大な力の観念、それらが、単独の個人にはあり得ない感情や行為をも、集団には可能ならしめるのである」
■群衆を操るのは指導者の「断言」
その上で、ある種の指導者がどのようにして「群衆」を自分の手足のように操り、特定の目的を実現するための道具として利用するのかを、こう分析します。

「群衆の精神に、思想や信念――例えば、近代の社会理論のような――を沁みこませる場合、指導者たちの用いる方法は、種々様々である。指導者たちは、主として、次の三つの手段にたよる。すなわち、断言と反復と感染である。これらの作用は、かなり緩慢ではあるが、その効果には、永続性がある」

「ある断言が、十分に反覆されて、その反覆によって全体の意見が一致したときには、いわゆる意見の趨勢なるものが形づくられて、強力な感染作用が、そのあいだに働くのである」
■証拠や論証がなくても「断言」を信じてしまう
ル・ボンがとりわけ重視したのが、大衆的アピールとしての「断言」の効果でした。
「およそ推理や論証をまぬかれた無条件的な断言こそ、群衆の精神にある思想を沁みこませる確実な手段となる。断言は、証拠や論証を伴わない、簡潔なものであればあるほど、ますます威力を持つ」
断言は、証拠や論証を伴わない、簡潔なものであればあるほど、ますます威力を持つ、という指摘は、トランプや立花孝志の支持者がどうしてあっさりと、根拠のない「ウソに基づく言いがかり」を信じ込み、それを事実であると確信するのかについてのヒントを、我々に示してくれていると言えます。
一人の個人として物事を観察していれば、ある種の決めつけに事実の裏付けが添付されていないなら、人は「これは本当なのかウソなのか、すぐに判断できない」として「話半分」に聞き流します。
しかし、何らかの理由で個人を捨てて「群衆」に加わった時、同じ人が「ウソに基づく言いがかり」を疑うことなくスポンジのように頭に吸収し、そこで示された「敵」に対してむやみに攻撃的になり、ダメージを与える動きに加担してしまいます。
■だから人は「盲目的な支持者」に変貌する
「群衆の感情が単純で、誇張的であることが、群衆に疑惑や不確実の念を抱かせないのである。それは、ただちに極端から極端へ走る。疑いも口に出されると、それが、たちまち異論の余地ない明白な事実に化してしまうのである。反感や不服の念がきざしても、単独の個人の場合ならばさして強くはならないであろうが、群衆中の個人にあっては、それは、たちまちはげしい憎悪となるのである」
こうして、人は特定の指導者を崇拝する「群衆」の構成員となった瞬間から、事実かウソかを自分の頭で判断しない「盲目的な支持者」に変化します。
そうなると、指導者が教える「真実」を絶対的な指針として、それを守るために他者を踏みつけにしたり傷つけても何も感じないという、危険な心理状態に陥ってしまうことが少なくないようです。

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山崎 雅弘(やまざき・まさひろ)

戦史・紛争史研究家

1967年大阪府生まれ。軍事面に加えて政治や民族、文化、宗教など、様々な角度から過去の戦争や紛争を分析・執筆。同様の手法で現代日本の政治問題を分析する原稿を、新聞、雑誌、ネット媒体に寄稿。著書に『[新版]中東戦争全史』『1937年の日本人』『中国共産党と人民解放軍』『「天皇機関説」事件』『歴史戦と思想戦』『沈黙の子どもたち』など多数。

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(戦史・紛争史研究家 山崎 雅弘)
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