※本稿は、クリスティアン・リュック『人はなぜ自分を殺すのか』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
■「自ら命を絶った」と言われるイルカの真相
イルカが自ら命を絶ったとされる有名な話が、『わんぱくフリッパー』というテレビ番組でフリッパーを演じ人気を博したキャシーというイルカだ。
賢いフリッパーに視聴者は夢中になったが、番組が終わるとキャシーはマイアミの水族館で前よりも自由のない暮らしを余儀なくされた。キャシーは病気になり、調教師だったリック・オバリーが呼ばれた。ドキュメンタリー『ザ・コーヴ』の中で彼はこう語っている。
「ひどいうつ状態だというのがすぐにわかった。見ればわかる。そしてキャシーは私の腕の中で自殺した。(中略)彼女は私の胸の中へと泳いできて、じっと目を見つめ、大きく息を吸った。そして呼吸を止めた。私が手を離すと、そのままプールの底へと沈んでいったんです」
オバリーも医師、発明家、精神分析家であるジョン・C・リリーのようにイルカ保護活動家となり、イルカの飼育に反対するようになった。2人がイルカのために貢献したのは事実だが、実際にイルカたちに何が起きたのかは疑問が残る。
■本当に動物は自殺をするのか
レミングという北極に生息する長くやわらかい毛を持つネズミ科の動物も自殺をすると言われていた。しかも集団で自殺するという。
レミングの群れが高い崖から海に落ちていく光景がディズニー・プロダクション製作の有名なドキュメンタリー映画『白い荒野』で有名になった。レミングが集団自殺するという伝説を初めてカメラで捉えたとされたが、製作チームがレミングの群れを崖に追い詰めていたことが後に明らかになった。
レミングは確かに海に飛び込むことがあるがそれには単純な理由がある――レミングは泳げるのだ。約4年周期で数が激増し、そうすると一部が集団移住することがある。
神が存在しないという証拠がないように、動物が絶対に自殺しないということも証明はできない。しかし動物が人間と同じような頻度で自殺するとしたら、もっと報告が上がってきていていいはずだ。それも先述のイルカほど劇的ではないケースの報告が。
たとえばニワトリだけで200億羽を超えているし、アメリカだけで犬が8970万匹、猫は7380万匹いる。
■自殺をするのは発達した脳を持つ人間だけ
つまり動物は自殺という行動はしないし、人間の場合でも完全に発達した脳が必要になるようだ。なぜなら10歳以下の子供の自殺は非常に稀で、スウェーデンではここ25年で僅かな件数しか起きていない。重度の知的障害をもつ人々も自殺という行為から守られているようだ。
つまり人間だけが自殺をするという強い示唆がある。それはなぜだろうか。人間の脳の発達を紐解くと手がかりがつかめる。
地球上に生命が誕生したのは40億年前のことだ。それから30億年かけて進化した後、最初の多細胞生物が現れた。細胞はどれも同じ遺伝子コードを持っていて、成長するにつれて神経細胞が生まれた。
神経細胞には長い糸があって大きな有機物を制御することができる。自然選択により有機物の遺伝子に変化が起きたことで5億年前に最初の脊椎動物が日の目を見た。
ケニア北部にあるトゥルカナ湖畔で、1984年にトゥルカナ・ボーイと呼ばれる少年の全身の骨が発見された。およそ160万歳だと推定される。
■何世紀もかけて能力を身につけたホモ・サピエンス
骨盤が狭く手足も長いのは、他の大型類人猿とは違って完全に二足歩行をしていた証拠だ。しかしまだ複雑な社会構造はなかったようで、埋葬もされていなかった。
その後何世紀もかけて人間には様々な能力が追加されていった。たとえば火を使うことを学んだが、それには皆で協力しなければならなかったし、暖を取るためには社交の必要性も生じたはずだ。
食べ物を加熱するようになると栄養吸収率が高まり、半リットルほどだった脳が3倍も大きくなった。それまでは死肉を食べていたのが協力して狩りをするようになり、高度な意思伝達や社交が必須になった。農耕や家畜の飼育が始まると人間の能力はまたさらに一歩進んだ。
これまでに発見された初期のホモ・サピエンスの中でも非常に興味深いのがモスクワ郊外で発見された埋葬地のものだ。
成人男性と子供2人が埋葬されていたが、墓は黄土色に彩られ、マンモスの牙のビーズや何百個という数のホッキョクギツネの歯で装飾されていた。
おそらく高い地位にあった男性なのだろう。分析では装飾の製作には1万時間近くかかったとされる。手工芸のレベルが上がり、宗教的な儀式も行われていたようだ。
■高度な知能が「死」へと導いていく
人間はこのように進化を経て高度な知能を手に入れた。内省したり未来を想像したりできる能力だ。他の人と自分の将来を比べることができるし、そこに期待を込めることもできる。それが自己認識と呼ばれる意識で、映画や文学、演劇、これまでに口に出されてきたあらゆる嘘の基礎になっている。
意義を感じることもできるし、隣の立派な家に嫉妬したり、期待通りにならないと悔しさを覚えたりもする。自分が死ぬことも理解している。肉体的にも精神的にも痛みを感じるからこそ危険から守られ、生き延びられる。
しかし辛い痛みを感じる能力と死を理解する能力が組み合わさった時に自殺への扉が開かれてしまう。
動物も死の概念を理解できると思いたいのはやまやまだが、それを示す研究結果は存在しない。動物は死の知識がなくても充分にやっていける。危険や死につながる行為は避けるからだ。
しかし進化したホモ・サピエンスの脳は生きるか死ぬかを選べるようになってしまった。死の存在を認識し、死が自己の消滅を意味することや自殺の概念も理解できている。ある意味、自殺は脳が開発した素晴らしい能力――言語、シンボル、抽象化や仮説思考など――の代償のようなものだ。
■人間の脳は野生哺乳類の10倍の重量がある
生命の歴史を1日にたとえると、こういった知能を持つようになったのは最後の1分にすぎない。人間の脳の重さは体重の約2%に相当するが、エネルギーの20%、血糖の25%を消費している。新生児の頭が大きいせいで出産の危険度が上がったが、その価値はあった。おかげでこれまでにないレベルの知性を得たのだ。
しかしネアンデルタール人も大きな脳を持っていたし、『人はなぜ自分を殺すのか』の第5章に出てくるジョン・C・リリーのイルカ実験の失敗の話にもあったようにイルカは現生人類よりさらに大きな脳を持っていたが、脳のサイズだけが問題ではないということが示されている。
人間が得た能力には大きな前頭葉を含む大脳葉、新しい種類の神経細胞が必要であり、イルカとは別の形で脳内を組織立てなければいけない。
遺伝子的に親戚であるチンパンジーは何十万頭という単位で生息するが、人間は数十億頭だ。チンパンジーは人間によって片隅に押しやられ、絶滅危惧種としてアフリカの一部に暮らすのみとなった。人間の方がずっと適応力が高く、氷に覆われたグリーンランドでも灼熱の砂漠でも生きていける。人間を脅かす種は人間しかいないのだ。
■「自死=進化上のメリット」にはならない
自殺という行為は明らかに進化のロジックに反する。細胞1つ1つの遺伝コードは次の世代へと受け継がれるために自然選択によって精鋭化されていくはずなのだ。進化の見地から考えると普通に死ぬことさえ問題だ。遺伝子を受け継ぐという望みが完全に断たれてしまうのだから。そう考えると自殺はもっと問題だ。
歴史的に、いやその土地や地域によっては現在でも、生き残った家族には様々な制裁が科され、そのため家族まで子孫を残せる可能性が下がってしまう。にもかかわらずなぜ進化はそれほどダメージになる自殺という概念を人間に与えたのだろうか。
直感的に思いつく仮説が、自殺したい人がしばしば考えるように「お荷物になる人間を排除するため」、つまりその人がいなくなることが全体の利益につながるというものだ。
チャールズ・ダーウィンは『人間の由来』の中でこのように書いている。
道徳的資質に関しては文明国においてさえ、最も悪い性質の排除は常にある程度進行している。犯罪者は処刑されるか長期間投獄され、その劣悪な資質を次の世代に自由に伝えることはできない。憂鬱な人や精神異常の人は監禁されるか自殺する。
自分がいない方が皆のためになる――重いうつの人はそう考えることがある。しかしその説には明らかな弱点がある。自殺が多いのは若くてリソースの豊かな層で、彼らがダーウィンの言うように「排除」されてしまうことに進化上の利はない。
■自殺は人類が進化して生まれた“おまけ”
進化の見地からすると、他の人のために死ぬことも非常に大きなデメリットだ。自殺により確実に1人の人間が死に、その人はもう二度と他の人を助けられないわけだから、自殺が他の人のためになるのかはさらに怪しい。純粋に進化の面から言うと“悪い取引”なのだ。そもそも自殺で仲間の負担が減るなら、なぜ動物は自殺しないのか。
自殺的な行動はある種の交渉だという説もある。「自殺するぞ」と脅したり自殺を試みたりすることでリソースの交渉で有利になり、結果として死んでしまうのはその副産物という考え方だ。
しかしこれでは「自傷行為をするのは注目されたいから」という偏見を認めてしまうことになる。しかもこの説にもすぐに逆風が吹きつける。自殺は歴史的にも何のメリットもなかったし、自殺から生き延びた人もその家族も社会的に締め出されてしまうという極めて深刻な悪影響がある。
つまり自分の命を絶つという能力に、進化が選んで与えたと思えるような大きな生存メリットがあるという説はない。しかしその副産物として生まれた能力はいくつもあるから、自殺という行為そのものが選ばれて残ったのではなく、他の能力が生まれた時におまけとしてついてきたということだ。
人間が立ち上がったことで腰痛というおまけがついてきたように。それでも四つん這いで歩かなくなったことにはデメリットを大きく上回るメリットがあったのは周知の事実だ。
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クリスティアン・リュック
精神科医
1971年スウェーデン生まれ。ノーベル生理学・医学賞を選定する名門医学研究教育機関、スウェーデンのカロリンスカ研究所で長年、精神科教授として診療に携わった自殺研究の第一人者。スウェーデンで最も影響力のある文学賞The August Prizeを『人はなぜ自分を殺すのか』で受賞。撮影=Yoon S. Byun(著者近影)
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(精神科医 クリスティアン・リュック)