薬を飲んでも痛みがなかなか治らないのはなぜか。愛知医科大学医学部教授の牛田享宏さんは「痛みを訴えると家族が優しくなったり、医者が熱心に治療してくれたりすると、無意識のうちに『痛み行動』が強化されてしまう。
皮肉にも、周りの優しさや支えが症状を悪化させる場合がある」という――。
※本稿は、牛田享宏『「痛み」とは何か』(ハヤカワ新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
■幼児の「痛がり方」は母親次第
我々は子供の頃からさまざまな痛みを経験してきています。その人がどれだけ痛みに恐れおののくかについては、これら過去の「痛みの経験」から学んできたことが大きく関与すると考えられています。
このことに関連して、尊敬する丸田俊彦先生(元メイヨー・クリニック医科大学精神科教授)が書かれた『痛みの心理学(※1)』の中で「ソーシャル・リファレンシング」という概念が取り上げられていますので、その内容をかいつまんで紹介したいと思います。
よちよち歩きの幼児が遊びに調子に乗りすぎてテーブルに頭をぶつける。びっくりした幼児Aはそこで遊ぶのをやめ、母親を振り返る。あたかも「この頭の感じは何? 泣いたらいいの? それともママのところに駆けて行こうか?」とでも尋ねるようにふるまう。
その際、母親が大丈夫そうな顔をして微笑んでいれば、幼児Aは安心して遊びを続けるであろうし、母親が真っ青な顔をして駆け寄れば幼児Aは何事かと思って泣き出すかもしれないということである。

※1 丸田俊彦『痛みの心理学―疾患中心から思者中心へ』(中公新書、1989)
■人間も犬も痛みを「学習」する
すなわち、これらの一連の行動の中で、乳幼児は痛みの体験を社会・社交的現象としていかにとらえて行動するかを決定する際の参照先(=ソーシャル・リファレンス)として母親を利用していると考えられています。母親の反応によって「痛み」の持つ意味を初めて学習する、と言い換えてもよいかもしれません。
このことに関連しての動物実験も存在します。

生まれてから成熟期までオリに入れて育てることで、外傷やそれに関連するソーシャル・リファレンスを奪われたテリア犬は、炎を見るとその中に鼻を突っ込むことを繰り返したり、足を針で刺されてもされるがままになったりするとのことです(もちろん、普通に育てられたテリア犬は炎や針を見ると逃げ出す行動をとります)。
■子供のころの経験がずっと影響する
さて、少し別の観点から、乳幼児研究者のダニエル・スターンが報告している生後18カ月の乳児の母子交流研究を紹介しましょう(※2)。
大きめのソファーに母親がタバコをふかしながら座り、その隣で18カ月の男の子Bが哺乳瓶から何かを飲みながらジャンプを繰り返している。飲み終わると男の子はボトルを床に放り出し、母親の膝をめがけてジャンプしようと身構える。
その瞬間、母親は男の子の方を見ることもなく大きな声で「ソファーの上でジャンプするなって言ったでしょう」という。そうするとその直後、男の子Bはジャンプの姿勢を解き、ソファーから降りる。しばらくして母親の方に前方から近づきながら母親の膝に手を回すがすぐに引っ込める――というものです。

このようにして育てられた子は、将来、親密な身体接触を持つことに無意識のうちに葛藤を抱くようになることが想像されます。
このように、幼少期に起こった現象が、言葉にされたり意識に上ったりすることこそないものの、明らかにその時点での、そしてそれ以後における他人との関係の持ち方を規定することになることを「関係性をめぐる暗黙の知」と呼んでいます。

※2 D.N.スターン『乳児の対人世界理論編』小此木啓吾・丸田俊彦監訊、神庭靖子・神庭重信(岩崎学術出版社、1989)
■「愛情をもらう手段」になることも
親にさえ自然に甘えるのを許されないことを強要されれば、他の人との関係性の構築に変容をきたすことが考えられますが、ここにさらに家庭内の虐待などがある状況が加わったらどうでしょうか?
もしかしたら「痛い痛い」と子供が訴えたら、その時だけは親が許してくれる、といったこともあるかもしれません。そこでは痛みが、身の安全を担保してくれる「善きもの」になってしまうことすらあるのです。
このように僕たちは、これまでの人生で学んできたことを常に参照しながら、他人との関係に基づき自分の行動を選択します。

少し違う角度から見ると、痛がったり泣いたりする行動はしばしば周囲の行動を変容させる手段として使われている側面もあるわけで、周囲の人の反応が、痛みを訴える患者さんの行動を助長することもあります。
前述の丸田先生はご講演のなかでいつも「医療者は痛み行動に対してニュートラルにふるまうようにしないといけない」と説いておられました。全くその通りで、痛み行動に医療者が必要以上に振り回されて、誤った判断や過剰な治療をしないことは大切だと思います。
一方で僕自身は、医療者などがうまく患者さんとの関係性を築いていくことで、慢性化した痛みに苦しんでいる患者さんが再び歩み出していくために背中を押すことができるはずであると考えています。
■「痛み行動」が症状を悪化させる
痛みは自分が経験する不快な感覚と情動の体験であり、他人からはわからない主観的なものです。一方で、我々は痛いと必ず何らかの反応を起こします。ある人は“痛い”ことを医療者や家族に訴えることもあるでしょう。また痛いので動かずにじっとしてしまうこともあるでしょう。
このような反応(=行動)のことを「痛み行動(疼痛行動)」と呼びます。疼痛行動は周囲に自分が痛みを持っていることを知らせるためのサインとして使われますが、本人たち自身も気がつかないところで悪循環を助長し症状が悪化してしまうケースもあります。
40代後半の女性Cさんは看護職で働いています。数年前から更年期が始まり、同時に首と腰の痛みが出てきています。
調べてみると首・腰には加齢に伴う関節変形があることがわかりました。
職場の病院の仲間も気を遣ってくれて、週に数回は仕事を早めに切り上げさせてもらい、リハビリで温熱療法とマッサージを受けています。家族はとても優しく、特に夫はCさんの代わりに食事や家事を一手に引き受けています。
大学病院の整形外科の専門医に通っており、痛みが少しでも改善するようにと、モルヒネ系の薬などを使っているのですが、痛みの改善はほとんどみられないということです。とうとう杖(つえ)まで使わないといけないようになってきたため、僕のところに紹介されてきました。
■良いことがあると無意識に痛みが増す
50代中頃の女性Dさんは、背中から腰にかけての強い痛みが1年ほど前から出てきたとのことです。原因のわからない痛みの患者さんがいるからということで県内の病院の先生から紹介されましたが、受診日はストレッチャーで夫に付き添われて来院されました。
念のために診察と画像検査を改めて行ないましたが、年齢相応の変化以外の所見を見つけることはできませんでした。聞いてみると年上の夫が今年で定年で、食事や身の回りの世話はすべてやってくれるようになったとのことです。
最近では、腰の痛いDさんがベッドにいる時でも上向きでテレビを観ることができるよう、天井からテレビを吊り下げる工夫まで自ら手掛けているとのことでした。しかし、痛みはいよいよ悪化してほぼ寝たきりになってしまったのです。
このようなケースを診るに際して、僕たち医師は「痛みのオペラント条件づけ」というものを考える必要があります。

痛みのオペラント条件づけとは、「痛み刺激」が体に加えられた患者さんに、反応として「疼痛行動」が出現した際、それへの報酬が与えられると余計に「疼痛行動」が強化されてしまう、というものです。
■献身的な夫が妻の痛みを悪化させていた
繰り返しになりますが「疼痛行動」は「痛み」とイコールではありません。痛いと訴えるとその“報酬”として周囲の人が優しくなったり、金銭的な補償が出たりといったことがあると、痛みの悪循環から抜け出せなくなる場合があるのです。
CさんとDさんの共通点は何でしょうか? 明確な原因が見つけられず困っている患者さんと、優しい家族・周囲の人たちとの組み合わせですよね。
もちろん本人たちにはそんなつもりは微塵(みじん)もないでしょうが、見方によっては、皮肉にも優しい夫が病気を作っているようにも見えなくはないですし、一生懸命に話を聞いて寄り添ってあげようとしている病院の仲間たちも加担しているようにすら見えてきます。
ほかにも、手首を捻挫した妙齢の色白の女性に、若い男性の医師が何度も手術し、いろいろな薬を出し、それでも良くならなくて、どんどん症状が悪くなってとうとう手が使えない状態になって紹介されてきたこともあります。
前述の丸田俊彦先生はこうもおっしゃっていました。ある研修医が「患者さんに薬を出しておきました」と報告に来たら、先生は「それは誰のために出したのですか?」と訊くことにしている、と。
我々医療者は患者を助けたいという思いをもって医療の世界に入った(ある意味その思いにとらわれた)者たちですから、この丸田先生の精神を守るのは、わかっていても難しいことだと今も考えています。

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牛田 享宏(うしだ・たかひろ)

愛知医科大学医学部教授

愛知医科大学医学部教授。慢性痛に対し集学的な治療・研究を行なう日本初の施設「愛知医科大学疼痛緩和外科・いたみセンター」で陣頭指揮を執る。1966年生まれ。
高知医科大学(現高知大学医学部)を卒業後、テキサス大学客員研究員、ノースウエスタン大学客員研究員などを経て現職。国際疼痛学会の痛みの定義作成メンバーであり、厚生労働研究班の班長として「慢性疼痛治療ガイドライン」を作成するなど日本の痛み治療をリードする存在である。

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( 愛知医科大学医学部教授 牛田 享宏)
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