■「最近の若者は」と自分が言うときが来るなんて
“最近の若者には「質の低下」を感じる。まともに挨拶できなかったり、報連相をいくら教えてもできないのは当たり前で、少し厳しめにフィードバックされるとすぐに欠勤したり退職代行を使って辞めていく。どんどん幼稚になっている。「最近の若いもんは」なんて老害が言う言葉だ、そう思って自分のなかでは禁句にしていたのに、いまではもうその言葉を使わずにはいられない”
――これは自分の周囲にいる経営者もしばしば口をそろえて言うことで、しかもここ数年見聞きする頻度が急激に増えてきた。どうしたらいいのかわからず、多くの人が頭を抱えている。
しかしながら、はっきり言っておきたい。これはもうどうしようもないと。
若者たちが悪いのではなく、経営者側が「そういう時代になったのだ」と弁えないといけない。そういう時代になったのだと。
■挨拶もしない、報連相もしない、ミスは隠す…
これからますます深刻化することが確定している苛烈な人手不足の時代には優秀な人はいままで以上に取り合いになることは言うまでもなく、ひと昔前までなら「ふつう」くらいの評価水準だった人でさえ、いくら望んでも採用選考の場にはなかなか来てくれなくなる。
語弊をおそれずいえば、ひと昔前の「人余り」の時代なら確実にどこからも“撥ねられ”て労働市場からご退場いただいていたようなタイプの人であっても、もはやえり好みしていられなくなり、とにかく労働市場に戻ってきていただくフェーズにすでに入っている。
昨年のプレジデントオンラインでは「挨拶のできない新入社員」「あいさつ不要論を唱える新卒社員」の話題が大きな波紋を呼んでいた。
「なんでわざわざ知らない人に、あいさつをしなければいけないのですか」
昨今では、新入社員から真顔でこんな質問をされると耳にします。若い世代を中心に広まっているとされる、いわゆる「あいさつ不要論」です。
親しい間柄でもないのに、なぜ頭を下げたり、わざわざ自分からコミュニケーションを図ったりしなければいけないのか納得がいかないのでしょう。
上司や先輩からあいさつを強要されるのに反発をする向きもあるようです。こうした風潮は、コロナ禍がより促進させたこともあるでしょう。人と人とが直接的に関わらない状況下で学んだ結果かもしれません。
プレジデントオンライン「なぜイマドキの新入社員は『おはようございます』が言えないのか…SNSに広がる『あいさつ不要論』への違和感」(2024年11月2日)より
これも結局のところ、コロナがどうのというよりも「人手不足で『いい人材』は大手企業にほとんどが採られてしまい、これまでならサヨナラしていたレベルの人材ですら取り合わざるを得ない」ということで説明がつく。
挨拶もしないし、報連相もしないし、ミスは報告せず隠すし、物品を壊しても黙ったままだし、厳しめのフィードバックをするとすぐ飛ぶしで、本当に採用してもろくなことがないのかもしれない。だが、それでも替えはいないから、使っていくしかない。
■経営者側が「頭を下げる」時代
残念ながら、これからの時代は経営者が「偉い立場だ」という、ちょっと前までの感覚でいると、痛い目を見ることになる。
「人余り」の時代には当たり前だった「採用してやる側」というマインドはもう捨てて、採用通知を受諾してくださってありがとうございますというマインドに切り替えていくほかない。「使ってやる」という感覚は古く「ありがたく使わせていただきます」と、経営者側が頭を下げる時代が始まりつつある。グロテスクな現実に打ちのめされて心が壊れないうちに、そういう時代感覚をアップデートしておくことをおすすめしたい。
経営者からすれば絶望的な状況でも、これは働く側からすればある意味では朗報かもしれない。というのも、この状況を言い換えればこれまで社会で青天井に高まってきた「ちゃんと働くこと」というゲームの難度が相対的に下がる時代がもうすぐやってくるということでもあるからだ。
■人手不足時代に起きる「逆回転」の現象
この社会において「それなりの身分を固めてしっかり働くこと」の難度がここ最近やたら高まっていたのは、社会の高度化や複雑化やコミュニケーション能力化やITの急激な発展といった要因はもちろんあるが、それ以上に「人余り」だったこともその要因としてあった。人がダブついているからそれを選別するために、やれコミュ力だのやれ動作性IQだの非認知能力だのと、こじつけたような高尚な概念を持ち出してフィルタリングの網目を細かくしてきたことは否めない。
しかしここまで人手不足が深刻化すると、かつての時代にダブついた人員の選別のために課していた高いハードルや要求水準がかえって「別にもっと楽に稼げる場所はあるし」と忌避される理由になってしまう、いわば逆回転が起こっていく。
コミュ力がどうのとか、接遇がどうのとか、ホスピタリティがどうのとか、レジリエンスがどうのとか、社会人たるもの……と、もっともらしい「資質」を次々と掲げ、一介の平社員がサイボーグのような仕上がりを求められていた時代は終わる。挨拶も報連相もあんまりできないタイプの人でもそれなりに「社会人」として迎える(迎えざるを得ない)時代がやってくるだろう。
■いままでの「ふつう」の期待水準が高すぎた
断言しておこう。
もっともそれは必ずしも悲劇ではない。いままでの日本社会で「ふつう」のサラリーマンをやるための期待水準が高すぎただけで、ある種の揺り戻しといえるのかもしれない。
先進国を含む諸外国にくらべて異様なほど高品質だった日本のサービス水準も、社会に供給される平均的人材のラインの低下にともなって、いずれ諸外国並みの水準に落ち着いてくるはずだ。だが、それが当たり前なのだ。数百円~数千円しか払わない飲食店ですらまるで一流レストラン並みに愛想のいいきめ細やかな接客をしていたいままでの時代が異常なのであって、日本もようやくグローバル水準に落ち着くだけだといえる。
経営者目線でいえば、たしかに辛いことも多い。だが働く側の立場では、社会から「社会人」として認められるための要求ハードルが下がり、これまでなら「グズ」の烙印を押されて排除されていた人にだって再浮上のチャンスが巡り、いままで偉そうにしていた経営者たちも下手に出てきて、世の中全体ではそれほど悪い事ばかりではないのかもしれない。
■犠牲の上に成り立っていた「安価で高品質なサービス」
客として街を訪れたとき、安価で高品質なサービスをどこに行っても受けられる「おもてなし」と呼ばれたマインドセットは、資源を持たない日本という国にとっての最大の強みのひとつだったのかもしれない。しかしそれは多くの労働者の苦痛や犠牲の上に成り立っていたものでもあった。
それらが人手不足とインフレの波で一掃され、新しい形の労働社会・労働規範を再構築するのだろう。私たちはいまその過渡期に立っている。
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御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』(イースト・プレス)を2018年11月に刊行。近著に『ただしさに殺されないために』(大和書房)。「白饅頭note」はこちら。
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(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)