※本稿は、ドラマ「あんぱん」最終話のネタバレを含みます。
■「アンパンマン」テレビアニメ化の経緯は?
NHK連続テレビ小説「あんぱん」第25週「怪傑アンパンマン」では、絵本『あんぱんまん』が出版され、ミュージカル化が始動した。
ミュージカルではアンパンマン役を浜野謙太が演じ、いせたくや(大森元貴)が音楽を担当。観客には、のぶの茶道教室の生徒・中尾星子(古川琴音)もいた。アンパンマンの魅力に早くから惚れ込む星子は、やなせ夫妻の意志を受け継いでいく人物として描かれており、星子のモデルは、やなせの秘書を長年務めた、現在やなせスタジオ代表の越尾正子さんと見られる。
史実では絵本『あんぱんまん』は1973年に出版され、3年後(1976年)にミュージカル「怪傑アンパンマン」が初演、その12年後(1988年)にテレビアニメ「それいけ!アンパンマン」の放送がスタートする。
やなせの著書『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)によると、昭和59年(1984年)からアンパンマンのテレビアニメ化の話は進んでおり、NHK、日本テレビ、東京ムービー新社から話があった中、紆余曲折を経て、プロデューサーの武井英彦が粘り強く何度も企画を提出し、88年10月にとうとうテレビ放送が決定したという経緯がある。
■妻の暢は痩せてきて、頬にシミができていた
しかし、アニメ化の話が進む一方で、その頃、妻・暢が体調を崩し、乳がんだということが発覚。暢は1週間仕事の片づけをした後、東京女子医大に入院、即日手術を行ったが、手術後、やなせは担当医に呼ばれ、「お気の毒ですが、奥様の生命は長く保ってあと三カ月です」と宣告される。このときすでに癌は全身に転移し、第4期の終わりだった。
『アンパンマンの遺書』にはやなせが自身を責める言葉が綴られている。
「ぼくが悪かった。
■妻はやなせに「私、駄目かもしれない」
やなせは手術を受けて入院中の暢に、医師の言葉として「悪いところは全部切りとったから大丈夫」と嘘を伝えたが、暢には通用しなかった。
「私、駄目かもしれない。覚悟はできているから本当のことを教えてね。整理しておかないと、あなたじゃ解らないから」
暢がそう言っても、やなせはやはり「すぐ退院できるよ」と伝えた。だが、やなせの絶望は深く、漫画家仲間の会で一言も発言せずにいたとき、異変に気付いて声を掛けてくれたのが、『アリエスの乙女たち』『天上の虹』などで知られる漫画家の里中満智子だった。
里中は、自身もがんだったが民間療法の丸山ワクチンを打ち続けて完治したと言った(丸山ワクチンは1970年代から80年代にかけてがん治療薬として注目を集めたが、医学的根拠はないとされる)。丸山ワクチンは東京女子医大では効果がないと言われたが、ワラにもすがりたい思いのやなせは投与を頼み込み、1カ月もすると暢はいったん歩けるようになり、退院。病院から徒歩30分の自宅まで歩いて帰ったという。
そこから暢は正月の仕度をし、夫婦で正月を迎え、徐々に血色がよくなり、健康時には45kgがリミットだった体重が50kgまで増えた。
■アニメがヒットし、夫婦で園遊会に出席
一方、暢の闘病と時同じくして1988年10月3日にスタートしたアンパンマンのテレビアニメは、いきなり視聴率7%を獲得。ときには10%超えも記録するなど、快調な滑り出しを見せる。
1989年3月には文化庁優秀番組賞を受賞、すぐに全国放送となり、絵本の売り上げも急増。1990年6月には第19回日本漫画家協会大賞を受賞。翌1991年には勲四等瑞宝章を受章し、夫婦で園遊会に招かれ出席。当時の天皇・皇后と皇太子に対面している。
このとき、やなせが「勲章を観る会」を主催すると、日頃パーティ嫌いで出席しなかった暢も珍しく参加し、やなせの仕掛けた派手な演出に「こんなに面白いパーティだと思わなかった。私の友達を招待すれば良かった」と語ったと『アンパンマンの遺書』には記されている。
さらに読売新聞日曜版で「とべ! アンパンマン」がスタート。11月には天皇・皇后両陛下主催の園遊会に夫婦で出席。70代で仕事が絶好調となったやなせは、収入もいきなり10倍ぐらいに増えたが、妻・暢に月20万円ほど小遣いをもらう暮らしぶりは変わらなかった。
■いきなり収入が10倍に、妻は秘書をスカウト
当時の心境をやなせは次のように振り返っている。
「不安ながらもまずまず天下太平で、カミさんの老後の計画もこの分なら安心のようだし、銀行やデパートではチヤホヤされるし、お茶の方も順調で裏千家の参与になり、カミさんなりにいそがしい毎日を送っていた。このあたりが、今考えれば一番良かったかもしれない」
しかし、園遊会の後、暢は抗がん剤治療の副作用に苦しめられ、頭髪は抜け落ち、カツラなしではどこへも出られなくなり、食欲不振になった。
現在、同社取締役を務める越尾正子さんが「やなせスタジオ」に入社したのは、1992年、この頃のことだ。茶道の稽古場で20年近く前から暢と知り合っていた越尾さんに、暢は「うちに来ない?」と声をかけた。それまでやなせの仕事を手伝っていた暢の妹・瑛さんが高齢になり、後任を探していたタイミングだった。
■後を託された秘書は、やなせスタジオの代表に
越尾さんはプレジデントオンラインのインタビューで、入社早々に暢から会社の重要書類や金融関係の管理を一任されたことに驚いたと振り返る。
「あなたはうちの人に似ているから、きっと気が合うと思う。絶対に辞めないでね」(越尾正子『やなせたかし先生のしっぽ』小学館)
と言われるようになったという。
それほどまでに信用されていた越尾さんだが、暢は体調が悪化すると、最後には「子供のような二人が残されるのが気がかり」と、まるで自らの最期を予感しているかのような言葉を残した。
一方、やなせは暢の知人友人を全員招待するという暢との約束を果たすため、「アンパンマン20周年パーティ」を企画。しかし、残念ながら、パーティを最も楽しみにしていた“主役”の暢は脚の痛みから車椅子生活になっており、「車椅子で出席するのは嫌」という理由で欠席した。
さらに放射線治療で貧血が悪化すると、輸血のために1993年11月に女子医大に再入院。そして、ほどなくして暢は息を引き取った。
余命3カ月と宣告された暢は、闘病生活を送りながらやなせを限界まで支え、足かけ6年を生き延びた。『やなせたかし はじまりの物語:最愛の妻 暢さんとの歩み』(高知新聞社)によると、やなせの手を握ったまま安らかな最期を迎えたという。亡くなった日は1993年11月22日、いい夫婦の日だった。「葬式も告別式もしないでね。みんなに迷惑かけるから」という本人の希望もあり、お別れは身内だけで済ませたという。
■やなせを45年間支えてきた妻がいなくなった
やなせの故郷である高知県の香美市香北町で行われた分骨式に参加した暢の妹・瑛の息子(暢の甥)川上峻志さんは『やなせたかし はじまりの物語』の中で、こう語っている。
「やなせさんが靴を脱ぐと、両足の靴下に穴が開いていた。前に座るから目立つ。
不思議なことに、12月12日午前4時、暢の死から1カ月後の同じ日、同じ時刻に、暢が可愛がっていた愛犬・チャコも12歳で、暢と同じがんでこの世を去った。やなせは『アンパンマンの遺書』でこの奇妙な偶然について「カミさんが連れていった、とぼくは思った。十一月二十二日(編集部註:暢の命日)というのもおぼえ易い日で、カミさんが『あなたは忘れっぽいからこの日にしたわ』ということではないかと思う」と推察している。
■妻に先立たれ「何をして生きるのか」と自問
45年間連れ添った暢に先立たれたやなせは、しばらく呆然自失。夜は眠れず、精神安定剤を飲み、食欲もなくなった。越尾さんによると、やなせは暢の亡き後、隣のお茶室にお骨を1年間安置し、毎晩電気をつけ続けたという。生前の暢は電気のムダづかいに厳しい人だったが、やなせは「寂しいから、つけておいてあげよう」と言ったという。
暢の死をきっかけに、やなせが向き合い、改めてその意味を噛み締めたのが、自身が作詞したアンパンマンのテーマソングだ。
「何をして生きるのか、自分に問いかける時が来た。カミさんのための鎮魂。
■「アンパンマン」は国民的なアニメになった
1995年には第24回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞し、絵本は通算1000万部を突破、日本テレビの局長賞も二度受賞する。
やなせは『アンパンマンの遺書』で「ぼくの人生は既に四コマ目になった。四コマ漫画なら、なるべく見事なオチをつけたいところだ」と記している。
妻を亡くした後、子供のなかったやなせは「アンパンマン」を自分達の子として捉え、「子供に家を建ててやりたい」という思いから、1996年に高知県香北町にアンパンマンミュージアム(現・やなせたかし記念館)を作った。
一方、晩年のやなせ自身も多数の病気を抱えていた。歯の手術、眼の手術、帯状疱疹、腎盂ガンの手術、膀胱がんの手術などで入退院を繰り返しながらも、創作活動への情熱は衰えなかった。
暢を失った悲しみを抱えながらも、やなせは独り、2013年10月13日に94歳で亡くなるまで、創作活動を続け、人生をめいっぱい輝かせた。アンパンマンという「子供」を通して、多くの子供たちに夢と希望を与え続けたのである。
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田幸 和歌子(たこう・わかこ)
ライター
1973年長野県生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーライターに。ドラマコラム執筆や著名人インタビュー多数。エンタメ、医療、教育の取材も。著書に『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)など
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(ライター 田幸 和歌子)