■インドネシア国鉄首脳が“時限爆弾”と公言
東南アジア初となるインドネシアの高速鉄道「WHOOSH(ウーシュ)」は開業から約2年が経ち、財政面の重圧に直面している。
この高速鉄道をめぐっては日本と中国が熾烈な受注合戦を繰り広げ、破格の条件を提示した中国に軍配が上がったことが日本でも大きく報道された。
ただ、現在ではインドネシア国鉄首脳から「時限爆弾」と公言されるほど大幅な赤字に苦しんでいる。
インドネシア政府はさらなる延伸に向け、中国側に支援を求めているが、中国自身の財政難もあり、習近平政権は頭を抱えている。
実際にインドネシアの高速鉄道に乗ろうと、首都ジャカルタ市内のハリム駅に向かった。開業まもなくまだ新しいこの駅には、現在1日あたり三十数本の高速列車が停車する。約140キロ離れたバンドン――日本で言えば、東京駅から直線距離で軽井沢・日光・日立よりも少し先――との間を片道約50分で往来できる画期的な乗り物だ。
ホームで待っていると、赤と白に塗装された新幹線と似たスタイルの高速鉄道はほぼ時刻表通りに来た。早速乗り込むと、車内の設備や席の並びは日本の新幹線と非常によく似ている。出発から10分そこそこで時速350キロメートル近くに達するのはさすが高速鉄道だ。
■価格・利便性では「在来特急」や「バス」に軍配
乗り心地に関していうと、想像していた以上に静かで揺れがない。日本の新幹線の優秀性に異論を挟むつもりはないが、中国製の高速鉄道は大陸で積み重ねたノウハウが着実に生かされているという印象を受けた。
約50分が経過し、終点テガルアール駅に到着した。乗客としての感想は高速鉄道自体については一般的な乗客は快適さを覚えるだろうが、ネックとなるのは駅の立地と価格帯だとみられる。

まず、ジャカルタとバンドン側両方の終着駅がどちらも都心から外れており、正直言って不便だ。ジャカルタのひどい渋滞に巻き込まれたら駅に着くまでに気持ちが萎えてしまうだろう。
さらに、チケット価格が一番安いプレミアムエコノミーで30万ルピア(約2500円)程度かかる。メインの利用客と見られる、ジャカルタとバンドンの一人当たりの最低賃金が5万円程度のため、仮に家族4人で往復すると月給の半分程度も必要となる。
こうした料金をストレスなく払える市民の多くは自家用車を保有しているため、筆者が話を聞いたジャカルタ近郊在住の20代女性は「一度試したがバンドンに到着した後の足がなく、二度と使う気にならない」と話す。
自家用車を保有しない一般的な市民にとっては、在来特急や長距離バスが、数時間かかるとはいえ、費用が半額以下で抑えられる点ではまだまだ十分に高速鉄道の競合となっている現状は変わらなさそうだ。
総じていうと、バンドンが観光主体の街であること考えると、徐々に浸透しているとはいえ、観光の際に記念に乗ってみたいという乗客がまだまだ多い印象を受けた。
■“日本の新幹線方式”のはずが一転、白紙になった
この高速鉄道建設は当初、日本の新幹線方式が有力視されていた。
日本側は2000年代後半からインドネシア政府に働きかけを続け、実際に09年にはジャカルタ―スラバヤ間(約730km)の調査を実施した。10年代に入り、ジャカルタ―バンドン間を第一期とする計画が具体化すると、日本側は国際協力機構(JICA)の円借款(年0.2%)による低利融資案を提示して全面支援を表明した。
インドネシア国ジャワ高速鉄道開発事業準備調査(フェーズI)ファイナル・レポート【要約版】」など参考。
ところが、14年に就任したジョコ・ウィドド(通称ジョコウィ)大統領は「国家予算の負担が大きすぎる」と日本案に難色を示し、一転して国際競争入札に付す方針を決定。
15年8月に入札が行われると、ここで名乗りを上げた中国が「インドネシア政府に財政負担を一切求めず、高速鉄道を運営する事業会社の借入分(年利2%)についてもインドネシア側の保証を求めない」という破格の提案を提示し、中国案が採用されることになった。
この決定をめぐっては、日本側には大きな衝撃が走った。日本政府はそれまでの交渉の成果が覆されたことに強く反発し、当時官房長官だった菅義偉氏はインドネシア政府からの通告に「全く理解できない。極めて遺憾だ」と伝えたという。
また、中国案が提示した「政府保証なし・国家予算負担なし」の融資スキームについて、菅氏は「我が国では到底考えられない提案だ」と述べ、遺憾の念を示した。あるJICA関係者はこの際、「自国の公共鉄道を自分たちの金で作ろうともしない時点で論外の話」と憤りを感じたという。
■請け負った中国の“甘い見通し”
16年1月から建設が始まったこの高速鉄道だが、用地買収の難航や環境アセスメント手続きの遅れ、許認可を巡る問題、さらには20年からの世界的パンデミックとなったコロナ禍まで重なり、工期は大幅にずれ込んだ。「中国側は中国本土のように共産党が言えば計画通りに建設が進むと思い込んでいた」(日本政府関係者)。
当初19年の開業を目指していた計画は度重なる延期を余儀なくされ、最終的に商業運転開始は23年10月へと約4年も遅れた。その間に建設コストも膨み、当初、中国案提示時に約55億ドル(約6000億円)とされた総事業費は約73億ドル(約1兆1000億円、開業時)に跳ね上がった。

ロイター「Indonesia, China agree $1.2 bln cost overrun for high-speed train – official

ロイター「中国支援のインドネシア高速鉄道、利益生むまで40年かかる可能性
インドネシア政府は「国家予算の投入なし」を当初掲げていたものの、さすがにこの巨額のコスト超過を前に方針転換を余儀なくされた。最終的には政府が追加融資に保証を付与したり、国営企業に増資させる形で一部公的資金の投入を行ったりして、事実上の政府支援によって23年10月の開業にこぎつけた。


■“年間500億円規模の赤字”を垂れ流す
開業後もジャカルタ―バンドン間の収支は赤字続きだ。高速鉄道の運営主体のインドネシアと中国企業の国営企業が共同出資するPT Kereta Cepat Indonesia-China(KCIC)は、24年通年では4.2兆ルピア(約400億円)の損失を計上、うちインドネシア側の中核国営企業インドネシア国鉄(KAI)が2.23兆ルピア(約200億円)を負担した。
25年前半には利用客増加もあって損失幅は若干改善したものの、それでもKCICは同上半期に1.6兆ルピア(約160億円)の赤字を出し、こちらも過半をKAIが肩代わりしている。
インドネシア国会の試算では26年に6兆ルピア規模(約580億)の赤字に膨らむ可能性があるとされている。年間に約数百億円規模の赤字を垂れ流し続けるというのは尋常ではない。
detikFinance「Bos KAI Angkat Bicara soal Utang Kereta Cepat
高速鉄道の収益改善には利用者数の拡大が不可欠だ。開業当初の利用は目標を下回ったが、キャンペーンや運行本数増加により、24年時点では1日平均2.4万人にまで伸び、通年では1年で530万人を超えた。今後さらに運行本数を増やすなどして利用者増を目指すが、採算が取れるのは40年かかると言われるため、短期間の企業努力だけでこの規模の赤字をカバーするのは事実上不可能だ。
インドネシア国鉄に今年8月から就任したラシディン総裁は国会で「高速鉄道の財務問題は時限爆弾だ」と危機感を示し、インドネシア政府も中国側との融資条件見直しなど対応策に乗り出す構えを見せている。

detikFinance「Dirut KAI soal Utang Kereta Cepat: Ini Bom Waktu

TEMPO ENGLISH「KAI CEO on High-Speed Train Debt:”A Time Bomb”
■インドネシア政府は「延伸」に前のめり
ジャカルタ―バンドン間はひとまず完成したばかりだが、インドネシア政府は早くもこの高速鉄道をジャワ島東部の大都市スラバヤまで延伸する野心的な構想を掲げている。ジャカルタ―スラバヤ間(約730km)――日本で言えば、直線距離で東京~広島くらいの距離――を高速鉄道で直結する計画で、実現すれば所要時間は約3時間半と見込まれる(現在は在来線特急で約10~11時間、航空機なら約1時間半)。
この延伸計画が実現すれば、首都ジャカルタ・中部ジャワ・東部スラバヤという三大経済圏が高速鉄道で結ばれ、人や物流の流れが飛躍的に活発化し、沿線開発も進む可能性がある。

現在、ジャカルタ―スラバヤ間は主に航空機が使用されているが、高速鉄道の運賃をより低廉に設定できれば多数の乗客を獲得できるとの見方もあり、長期的には全体の旅客収入の拡大につながるとの期待も根強い。
ジョコウィ前大統領も当初からこの延伸計画に意欲的だったが、24年に就任したプラボウォ・スビアント大統領はさらに積極的に推進する姿勢を示し、関係閣僚に高速鉄道延伸を最優先で進めるよう特別指示を出しており、ルートや資金調達の検討が進められている。
■日本は「慎重」、中国は「前向き」
この延伸工事をめぐって、日本と中国が再び関与を競う構図となっている。日本はコスト抑制と採算性を重視する在来線を活用した準高速鉄道案を提示したのに対し、中国はジャカルタ―バンドン間と同じ規格でスラバヤまで高速鉄道を延伸する案を示している。
日本政府側は終始慎重姿勢を崩していない。その理由としてまず、ジャカルタ―バンドン間はすでに中国規格で建設・運用されており、それ以降を日本規格にする場合、複雑な調整が必要となり不具合が生じるリスクが高まる。
さらに、万一トラブルが発生した場合、異なる国の技術が混在していることで責任の所在が曖昧になる恐れもあり、日本ブランドが傷つく恐れが高いことも懸念される。
結局、インドネシア政府は日本の消極姿勢を踏まえ、延伸計画でも中国を主なパートナーとする方向に舵を切りつつある。23年9月、ジャカルタを訪問した中国の李強首相(当時)が高速鉄道に試乗した際、インドネシア側はスラバヤまでの延伸について中国側と協議を行い、李首相から「支持する」との前向きな回答を引き出し、中国側も技術・資金協力に前向きな姿勢を示したという。
ANN「Indonesia seeks China’s support to extend first high speed railway to Surabaya
今年9月には、プラボウォ大統領が北京の抗日戦勝80周年記念式典に出席し、習近平国家主席との首脳会談で高速鉄道延伸計画も議題に上った。両首脳は巨額のジャワ島北岸の防潮堤プロジェクトとともに高速鉄道延伸への協力推進で合意したと報じられている。
ANTARA「Indonesia, China discuss sea wall, high-speed rail in Beijing talks
■不況下の中国、“巨額案件”に投資する余裕はない
一方で、インドネシアの国内外で巨額の投資回収は容易ではないとの慎重論も強い。
現在のジャカルタ―バンドン高速鉄道ですら、年間数百万人規模の乗客を確保できたとしても建設費回収に数十年かかるとの試算がある。
実際、KCIC幹部は2022年の議会証言で「投資額の回収に40年を要する」との見通しを示している。延伸部分の建設距離は現在の約5倍に及び、トンネル・橋梁の建設や用地取得も飛躍的に増える見通しで、総工費は数兆円規模に達するとみられる。
インドネシアがスポンサーとして当てこんでいる中国自体、近年の不動産不況に端を発する景気減速に伴い対外インフラ投資に慎重姿勢が見られ、一帯一路案件の投資を抑制する流れとなっている。今回の延伸計画についてはジャカルタ―バンドン間のように「政府保証なし・国家予算負担なし」という大盤振る舞いは国内からの強い反発が予想される。
先の日本政府関係者は「前回の受注は2015年でまだまだ中国経済が元気だった時代だから可能だった。下手をすれば数兆円単位で全額貸し倒れになるような海外への巨額投資案件に今更投資できない」と分析する。
こうした事情から、インドネシア財務当局には「まず現在の路線の債務問題を解決し、黒字化の道筋を付けるのが先決」との声が根強い。
延伸による地域経済への波及効果や環境面でのメリット(航空機から鉄道への転移によるCO2削減等)は無視できないものの、巨額の投資が回収不能に陥れば最終的に国民負担となる。高速鉄道延伸はインドネシアにとって「夢の超特急」か、それとも「財政を圧迫する巨大装置」か。その評価は、今後の事業採算性と便益のバランス如何(いかん)にかかっている。
■日本は“泥沼に踏み込まずに済んだ”
インドネシア高速鉄道計画は日本にとって大きな外交案件であり、受注競争に敗れた経緯は今なお痛手として記憶されている。

しかし、結果として、現在の高速鉄道事業を取り巻く状況は、ろくな計画も自国の財政負担もなしでインフラを整備したいインドネシア政府のご都合主義と、とにかく自国製インフラを海外に輸出して国威発揚したい中国政府のダボハゼぶりが合わさり、打開策が非常に取りづらいものとなっている。
この事態は日本側に幾つかの教訓をもたらしたように見える。
まず、第一に、巨額赤字が続く公共インフラプロジェクトのリスクである。今回の高速鉄道は黒字化まで数十年単位でかかるとみられており、当面は赤字が積み上がる見通しだ。公共性の高い鉄道インフラでは長期赤字は必ずしも不自然ではなく、日本の新幹線網も採算確保に数十年を要した路線がある。
しかし、もし日本がこのプロジェクトを受注していた場合、土地収用やコスト超過のリスクを全面的に背負い込み、現在の中国同様に巨額の持ち出しを強いられていた恐れが非常に高い。
受注競争を担った安倍晋三政権期であれば政治的判断で支援も可能だったかもしれないが、財政余力が限られる現在の日本で、果たして国民がそれだけの負担を許容できただろうか。受注できなかったことは残念ではあるものの、日本が泥沼に踏み込まずに済んだ側面もあるという冷静な見方も必要だろう。
■日本も中国も“ビジネスパートナー”に過ぎない
第二に、インドネシア側の交渉スタンスに対する認識だ。同国は「独立自主の外交」を標榜し、1945年の独立以来、特定の大国に偏らない多角的な国家戦略を取っている。高速鉄道受注を中国に任せる一方で、同じ時期に日本や米国、欧州諸国との防衛協力も進めるなど、どちらか一方に肩入れする姿勢は見せない。
日本国内では高速鉄道案件をめぐり「親日」「反日」「裏切り」など感情的な論調も多く聞かれるが、インドネシアにとって日本も中国も等しく「有力なパートナー」であり、必要に応じて利用する相手に過ぎないという現実が浮き彫りになったと言える。
実際、この高速鉄道に筆者が乗った際、中国色はあまり感じられなかった。車中で流れる鉄道の解説動画に習近平主席が登場したが、それはジョコウィ前大統領と握手をする場面であくまで脇役だった。
駅舎も同様だ。ラオスなど大陸側にある一帯一路の高速鉄道駅では駅名が現地語と中国語で併記されているが、インドネシアではインドネシア語のみ。「投資は歓迎するが、あくまで鉄道は自国のもの」という強いスタンスを示している。
日本のJICAがジャカルタに建設支援した、通勤などに使われている都市部の鉄道(都市高速鉄道=Mass Rapid Transit・MRT)にしても日本色は全くなく、中国製と勘違いしている市民も少なくない。MRTプロジェクトに関わった関係者は「建設中にだけ日の丸が現場で掲げられるが、建設が終わると全く知らんぷりされるのはいつものこと」と話す。
■「インフラ輸出」は冷徹な判断が必要
このように、インドネシアが中国案を選んだからといって日本を敵視しているわけではなく、また日本案を採用したからといって永遠の友邦になるわけでもない。インドネシアにとって重要なのは自国に最大の利益をもたらす選択肢であり、その意味で今回日本に示されたのは「ビジネスライクな割り切り」の重要性であろう。
そして第三の教訓は、日本の今後のインフラ輸出戦略に関わる。高度成長期とは異なり、現代の日本は財政制約や国内世論もあり、途上国の公共インフラを丸ごと支えるような援助スキームには限界がある。日本は今後、自らの得意分野である高品質の技術を武器にしつつも、相手国の財政事情やプロジェクトの実現可能性を見極め、受注すべき案件と撤退すべき案件を冷徹に選別する必要があるだろう。
石破茂首相がインドに10兆円の投資を決め、新幹線の輸出も計画しているが、インドネシアで中国が味わったような苦労をインドで味わわないか大いに懸念される。
国際社会では、日本人的な「感謝」や「恩」といった感覚が通用しない場面が多い。また、日本は20世紀後半のようにアジアで圧倒的に裕福で強い国家ではもはやなくなっている。自国を「オンリーワンの特別な存在」と位置付けるような思い上がりを戒め、相手国の独立外交を尊重しつつ現実的なビジネス戦略で臨むべきだろう。それこそが、インドネシア高速鉄道計画が日本にもたらした最大の教訓ではないだろうか。

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赤井 俊文(あかい・としふみ)

「ジャカルタ日報」編集長・共同創業者

業界紙、時事通信社記者を経て独立。フリージャーナリストとしてネットメディア、週刊誌に寄稿実績を積んだ後、インドネシアを起点にASEANのニュースを日本の読者に伝える。

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(「ジャカルタ日報」編集長・共同創業者 赤井 俊文)
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