■毎日パチンコ店で無為の時間を過ごす日々
「“雌伏の時”をいかに生きるか」、は人にとって大きなテーマだろう。
鈴木修はUSスズキ社長を1966年1月から務めたが、同社は10億円を超える赤字に陥ってしまう。1968年春に帰国の辞令を受け、浜松に戻る。赤字の責任をとるため、叔父でもある鈴木實二郎専務に鈴木修は辞表を提出。最終的に、辞表は専務の「預り」となり、退職には至らなかった。それでも、東京支店への転勤を命じられ、蟄居(ちっきょ)の身となる。仕事は与えられず、支店がある新橋のパチンコ店に昼から入り浸る。時間をひたすら消費するためだった。
昼間の店内には、サボリの営業マン、パチプロ、学生、水商売風の女性、恐ろしい筋と見られる方、革命を思案する活動家、主婦……と、雑多な人種が思い思いに球を弾いていた。そうしたなか、まだ38歳ながら、鈴木自動車工業(1990年からスズキ)常務取締役という肩書きの男もいたのだ。
ザ・テンプターズの『エメラルドの伝説』、ピンキーとキラーズの『恋の季節』などの流行歌が次々と流れる、乾いた喧噪が飽和した店で、鈴木修は無為に時を過ごしていた。
だが、パチンコをしながら待ってもいた。逆境を洗い流してくれる“雨”が降るのを。
何しろ、この男はじっとしていることが出来ない。「修さんは鮫と一緒。いつも動いていないと死んでしまう」(石黒寿佐夫・秋田スズキ会長)性分なのだ。なので、停滞の長期化は、彼の焦燥感を募らせるだけでマイナスでしかなかった。
■恵みの雨を降らせる人との出会い
鈴木修が、ホープ自動車社長の小野定良と初めて会ったのは、東京支店に異動した68年の年末。日本小型自動車工業会のパーティーの席でだった。
ホープ自動車は、昭和30年代に軽三輪車で名を馳せたメーカー。同社の商品ブランド「ホープスター」は、軽三輪の代名詞だった。ゼロックスやホチキスのように。
戦時中に自動車整備兵だった小野が、終戦後に上野で自動車整備工場として創業。やがて三輪と四輪のメーカーに変わっていった。
小野はスズキ社長で鈴木修の岳父である鈴木俊三と知古があり、68年末のパーティーの席でも、俊三の話から2人は近づいていく。
もっとも、この頃のホープ自動車は、遊園地で子供が乗るバッテリー駆動のマメ自動車など遊具を主に製作していた。社名にある自動車は、もう本業ではなかった。というのも、他社から供与されていたエンジンに不具合が発生。エンジンそのものを無償で交換せざるを得なくなり、経営危機に陥ったからだ。ホープ自動車は、自社でエンジンを作ってはいなかった。
果たして小野は、鈴木修にとって恵みの雨を降らせてくれる“特別な人”になるのか。
小野は64年に一度、自動車生産からの撤退を決断する。リストラを行い、700人いた社員は100人にまで減った。
同書によれば、撤退するまでホープスター・シリーズとして、三輪10車種、四輪6車種を世に出していた。
■ジムニーの前身は「ホープスター・ON型4WD」
リストラが一段落した頃、「自動車に再参入を」という機運が社内で沸々と湧き上がる。そこで、小野は「量産化で失敗したのだから、受注生産で行こう。特殊車なら可能なはずだ。農林用の平和な軽四輪ジープ」(同書)と発想した。
こうして開発された軽四輪駆動車「ホープスター・ON型4WD」が、やがてはスズキに渡り「ジムニー」になっていく。しかし、ジムニーのDNAはもっと深い。
「ホープスター・ON型4WD」は、戦前に軍用車両として試作された小型四輪駆動乗用車「ホヤ」が源流なのだ。開発したのは、戦前の国策企業だった東京瓦斯(がす)電気工業(東京ガスとは無関係)。戦闘機や軍事車両のエネルギー源としてのガス、電気を研究する会社として1810年に設立された。航空機部、自動車部、兵器部、火薬部などがあったそうだ。
ホヤは1934年(昭和9年)に陸軍の秘密兵器として試作された。が、アルミニウムを多用していたため、富士山山麓の原野を試走中にアルミにひびが入ってしまう。最終的に陸軍に採用はされなかった。
同社自動車部にいた技術者が戦後、ホープ自動車に転職。ホヤの開発に従事した技術と経験とをホープスターON型に全注入する。30年以上も眠り続けていた旧日本陸軍の秘密兵器が、平和利用の特殊な軽自動車として光を浴びる運びとなったのだ。
エンジンは、三菱重工業自動車事業部(現在の三菱自動車工業)から供与を受ける。軽自動車「ミニカ」に搭載されていた排気量360ccエンジン(空冷2サイクル)だった。1967年12月には運輸省(現在は国土交通省)から型式認定を受ける。手作りによる受注生産であり、市販一号車を買ったのは熊本の山間部で地域医療に従事する医師。58万円で納入された。
型式認定から1年ほど経過したとき、小野は鈴木修と出会う。
■「うちならハンコは3つあれば十分です」
自著『俺は中小企業のおやじ』(鈴木修著・日本経済新聞出版)には、「恥を忍んで打ち明けますと、当時の私には、2輪駆動と4輪駆動との区別がつきませんでした」とある。いわゆる事務屋である鈴木修は、自動車の知識が豊富にあるわけではない。それでも、売れる商品かどうかを見分ける”嗅覚”をもっていた。自身が頻繁に使った"カンピューター”が、AI(人工知能)となって指示を与えたのかもしれない。
鈴木修の“人たらし”の才が発揮されていくのは、ここからだ。小野と何度か飲食を重ね、人間関係をつくっていく。小野はやがて心を開き、エンジンを作る三菱に対する愚痴も鈴木修にこぼすようになった。新しいエンジンを供与してもらうとき、社内稟議でハンコが50個も必要になる、という内容だった。
鈴木修はすかさず、「じゃあ、うちのエンジンに換えませんか。うちならハンコは3つあれば十分です」と。
こうして、最初はエンジンを三菱からスズキに換えてもらう。スズキはエンジン5基をホープ自動車に納入する。その後、鈴木修は車両の製造権買い取りを、小野に提案する。
「うちに4駆を作らせてもらえれば、30万円ぐらいで作れます」などと説得し、小野はこれに応じた。しぶしぶ応じた、とも言われている。
鈴木修は蟄居の身ではあったが、浜松の本社に出向いて、「面白いクルマがあります。買い取って、商品化すれば必ず当たります」とプレゼン。本社はすぐに承認してくれた。
当時のスズキは軽乗用車「フロンテ」(1967年4月発売)がヒットするなど、第一次黄金期を迎えていて、新しいことに挑戦できる余裕があった。
■「こんなクルマは売れるわけがない」
1960年代後半は、急速にモータリゼーションが進む。こうした中で、受注生産による特殊車両をクラフト的に作って売るのには、どうしても限界があった。量産車には、販売価格で敵わなかったのだ。フェラーリやランボルギーニとは違う。
車両の製造権をスズキに譲渡したホープ自動車は、社名をホープに変えて遊園地のメーリーゴーランドをはじめ、子供向けの遊具メーカーへと事業転換していった。しかし、最終的には倒産してしまう。
スズキは68年夏には試作車を作り、開発を本格化させていく。初代ジムニーを発売したのは1970年4月。価格は47.8万円。鈴木修は40歳を迎えていた。
発売するジムニーに対して、本社は懐疑的だった。「こんなクルマは売れるわけがない」、と。スズキのエンジニアたちがスズキ流の改良を重ねたものの、「技術部門の人間にしてみれば、よその会社の車を買ってくること自体が、非常におもしろくないのです」(『俺は中小企業のおやじ』)。
営業部隊も冷ややかで、売ろうとする本気度は薄かった。「『年に300台ぐらいは売れるんじゃないですか』という返事です。私は『バカヤロー、月に500台は売ってやる』と言いました」(同著)とある。
■ジムニーは市場創造型の商品
現実には、ジムニーはヒットする。発売3カ月目には580台が売れる。「四輪駆動の軽自動車」という、従来には存在しなかった新しい市場を立ち上げたのである。
経営者ではなく、マーケッター鈴木修として捉えると、ジムニーにはじまり、社長になった翌年(79年)に発売した「アルト」、93年発売の「ワゴンR」と、いずれも市場創造型の商品という点で共通する。つまりは、新しい顧客をつくり出したのである。
ジムニーが売れたため、ホープ自動車に支払ったライセンス料はすぐに元が取れ、USスズキでつくった大赤字も取り戻すことができた。
鈴木修にとって、小野との出会いはまさに福音となった。
オイルショックが発生したのは1973年秋だが、その最中の同年11月、鈴木修は専務になる。75年5月、スズキはパキスタンで「ジムニー」の生産を開始する。四輪車としては初の海外生産だった。
だが、連載第2回で触れたが、米マスキー法をベースにした国の排ガス規制をクリアーできず、スズキは窮地に陥る。スズキだけが2サイクルエンジンを搭載していたため炭化水素(HC)の処理が、技術的にできなかったのだ。
専務だった鈴木修は国会で答弁に立ち、一方で田中角栄をはじめとする政治家、各省庁をまわり規制を緩和してくれるよう、ロビー活動を展開した。
最後は、トヨタからダイハツ製550cc4サイクルエンジンの供与を受けて、急場を凌いでいく。
実はこの局面でも、ジムニーは不可欠の存在となる。
■中山峠だろうと、いろは坂だろうとぐんぐん走る
秋田スズキ副会長の石黒光二が駒澤大学文学部歴史学科を卒業し、研修制度からスズキに入社したのは76年4月。札幌市の販社に配属されて営業マンになった。
石黒光二は言う。
「77年に発売された、ダイハツのエンジンを積んだクルマを、私は一台も売らなかった。売りたくなかったのです。他社のエンジンでしたから。それと、(排ガス)規制値に適合したエンジンでしたから、どうしてもパワー不足でした。あのクルマは、中山峠を登るのが難しかったのです。とてもじゃないけど、お客様には勧められなかった」
マスキー法をそのままコピーして国が作った規制と、最終ユーザーの使われ方の間には、明らかなギャップがあった。規制の適合車は、地域によっては使いものにならなかったのだ。
では何を売ったのか。「ジムニーをたくさん売りました」と石黒光二は話す。
鈴木修がホープ自動車から導入したジムニーは、乗用ではなく商用だった。2サイクルエンジンを搭載する軽自動車の排ガス規制で、乗用に比べて商用の規制値は緩かった。簡単な改良だけでクリアーできて、販売継続が許されたのだ。
ジムニーの国内販売台数は、1970年は4926台だったが、76年6832台、ダイハツエンジン車が売り出された77年は1万1706台、昭和53年規制の78年は1万3568台と大きく伸張していく。ジムニー1台あたりの利益は、他の軽自動車3台から4台分に相当した。
北海道の中山峠だろうと、日光いろは坂だろうと、ジムニーは難なく登坂(とうはん)できたのだ。
倒産しても不思議ではない状況にあって、ジムニーはスズキの生き残りを支えた"救世主”となった。
■「おお! そうか。ケーキを食べるか?」
せっかくなのでもう一つ、ジムニーと鈴木修に関する秘話を明かそう。
2001年秋だったが、浜松のスズキ本社で鈴木修を取材した。経営的なことではなくて、「働き方」といった緩いテーマだった。こちらは、筆者に編集者、カメラマンと若い助手の4人だったが、部屋に入ってきた鈴木修はいきなり怒り出す。編集者からテーマの説明が終わるやいなやに。
「そんなつまらんことを俺に聴くために、お前たちは東京から新幹線を使って浜松までやってきたのか。しかも、1、2、3と、4人もいるじゃないか! 一体いくら金を使ってるんだ」
筆者と編集者は、何とかなだめようとするのだが、なかなかどうして機嫌が悪く、ブツブツ言って落ち着かない(広報を通し事前にテーマは伝えてあったのだが、こちらの知らないところで何か調子の悪いことが発生していたのかもしれない)。
席を蹴って、部屋を出ていってしまうかとも思えた。
と、そのとき、20代だった助手君がポツリと言った。
「僕、ジムニーに乗ってます」
この一言で、鈴木修は豹変する。
「おお! そうか。ケーキを食べるか? 山岳写真家を目指していて山道を走るのにジムニーを使っているって、それはいい選択だ。……何、(中古で購入したため走行距離が)10万キロを超えているって、それはいけない、いますぐ新車に換えなさい。安くしておくよ……」
以降、鈴木修は終始上機嫌となる。無邪気な子供のように。
「そんなつまらんこと」に対しても、真摯に答えてくれた。
「日本のビジネスマン、特にホワイトカラーが競争力を失ってしまった原因は「時間を切り売りする」というアメリカの発想を取り入れてしまったことだと、僕は思っている。時間で給料を貰うんじゃない、成果で貰うんだ。役職が上がるほど、たとえ休日であっても自分の仕事について、強い意識を持ち続けていくことが必要なんだ。責任はより求められることを自覚してほしい……」
予定の取材時間をオーバーしても付き合ってくれ、さらに会長室に招いてくれた。飾られていた若い頃を含めた自身や家族の写真について、丁寧な説明までしてくれた。
強烈な怖さと、飾り気のない親しみやすさとをもつ、稀代の経営者。
そんな鈴木修にとって、ジムニーはかけがえのない一台だったのは、間違いない。
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永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社/新潮文庫)、『日本のビールは世界一うまい!』(筑摩書房)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『EVウォーズ』『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。
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(ジャーナリスト 永井 隆)