■アメリカによって小麦消費は拡大したのか
「小麦の消費が増えて、コメの消費が減り、コメの減反を余儀なくされているのはアメリカのせいだ」という主張がある。
アメリカの小麦業界は1950年代後半から日清製粉をはじめとする日本の製粉業界と二人三脚で日本の小麦市場を開拓しようとした。本来畜産物の消費が増加すれば、穀物消費は減少するはずなのに、パンやスパゲティだけではなく、うどんやラーメンなどの小麦製品の消費も拡大した。半面コメの消費は減少した。
NHKの記者だった高嶋光雪氏は主としてアメリカの小麦業界に取材しNHK特集「食卓のかげの星条旗」を製作し、これをもとに『米と小麦の戦後史』を出版している。これを、コメ価格高騰の責任を回避するとともに国内農業の保護を高めたいJA農協系の新聞や学者が高く評価している。
しかし、米麦について起きたことはアメリカのせいなのだろうか? 確かに我が国はアメリカとの間にさまざまな問題を抱えているが、アメリカとの同盟関係は日本の政治・経済・外交・安全保障の基軸である。この主張は国民が抱えているある種の反米感情に付け込み、日米の同盟関係にクサビを入れようとしているに過ぎない。
結局のところ、日本人のコメ消費が減少し、値段が高騰したのは、アメリカのせいでもましてや製粉会社のせいでもない。本稿で、その事情と背景を述べたい。
■農家がコメを食べ始めたのは戦時中
アメリカの小麦戦略が始まったとされる1954年をはるかにさかのぼる戦時中から、配給制度によって日本人の食生活は大きく変更されていた。
現代人の通念と異なり、戦前まで、農家はコメを食べていなかった。コメを食べていたのは都市住民だった。小作人は収穫量の半分を小作料として地主に収めていた。残る半分も、自分で食べるのではなく売って現金を得て、肥料など農業資材の購入や生活費に充てていた。食べていたのは、水田の畦などに植えていたアワやヒエなどの雑穀だった。逆に、都会に出てきた住民は工業化による所得の増加でコメを食べるようになった。
しかし、戦時下で食料の供給が困難となり配給制度が始まった(集大成したのが1942年の食糧管理法である)。農家は生産量と自家消費米の差を政府に供出することが義務付けられた。自家消費米には翌年作のための種籾が含まれているとはいえ、農林省によって都市住民に対する一日一人当たり2合3勺の配給基準量を大きく上回る4合の配給基準が認められた。
また、農家の所得が上がるにつれて農家のコメ需要が高まった。このため、配給制度が始まってから、農民の間に米食が普及し始めた。
■都市住民のコメの消費量は減少
戦争で肥料等が入手困難となりコメの生産量が低下していくと、麦やイモなどのコメに代替する食糧の供給比率が高まっていった。
配給に占める代替食糧比率は、1942年度3.3%、1943年度5.7%、1944年度14.1%、1945年度17.7%と年々増加し、最も食料事情が厳しかった1946年度は30.0%となった。その後低下したものの、1950年度でも24.2%である。都市住民への配給量2合3勺はコメだけではなく、これら代替食糧が多く含まれていた。こうして都市住民のコメ消費は減少し麦等の消費が増加した。
農林省・食糧庁の食糧管理史は、「米食形態にあった都市には雑食形態を、雑食形態にあった農村には米食形態をという逆の形の消費規制が行われたわけである」と記している(食糧庁[1969]、175ページ)。都市人口の方が多いので、国民一人当たりの消費量の年率変化を見ると、コメは、1932~1942年までは-0.3%、1943~1952年までは、-2・9%と減少しているのに対し、小麦は、同じ期間、それぞれ+0.1%、+4.1%となっている。
■配給制度で米から麦に強制代替
さらに、麦は戦後1952年に配給制度から外された(統制解除、コメは1995年食糧管理法廃止まで法的には統制継続)。配給制度の下では量の確保が優先され、品質は後回しにされていたが、統制解除後、製粉メーカーは、パン、めん、てんぷらなどの用途に応じて適切な品質の小麦粉を提供するようになった。さらに、所得が向上するにつれ、魚介類や肉類の消費も増加し。これに合う形態としてパン食が普及していった。
日本国内の中にも食生活を変えようとする動きがあった。コメは副食がなくても食べられるが、パンは副食がなければ食べられないから、パン食を推進すれば、蛋白(たんぱく)、脂肪食品(肉類や乳製品など)の消費が高まり、栄養水準の改善につながるというものだった。
このような見地から、民間団体の日本食糧協会は1952年6月「食生活改善に関する件」という意見書を出している。日本政府も、後述するコメと小麦の価格関係から小麦消費を奨励した。これは“粉食奨励”と言われた。
このように、アメリカの小麦戦略と言われるものが始まる相当前から日本の食生活は変化していたのである。
経済史家の馬場啓之助・元一橋大学学長らは次のようにまとめている。
「もし、米食を7割に減らして麦食を三倍にするという大幅な変革を自然の食習慣の変化にまっていたならば数十年かかってもできないことであったろう。食糧統制のわずか15年間でこれだけの構造的変化を与えたことは、配給制度の著しい効果とみなければならない。いまや配給制度を通じての米から麦への強制的代替は、日本人の食習慣を改変しえたと考える。」(食糧庁[1969]217ページ参照)
■戦後アメリカは日本に小麦を売るつもりはなかった
終戦直後の厳しい食糧難を乗り切るため、吉田総理以下日本政府は、マッカーサーなど連合国側に食料援助を繰り返し懇請した。しかし、世界全体で食料不足が深刻化している中で、アメリカ、イギリス、カナダなどの戦勝国は交戦国であった日本へは食料を援助すべきではないという厳しい態度をとり続けた。これに逆らってアメリカ政府に日本への食料援助を繰り返し要求し実現したのはマッカーサーだった。
1946年のNHKニュースによれば、「マッカーサー司令部の厚意により、食糧危機にあえぐ日本に1000トンの小麦粉が送られてきました。突然もたらされたこの報道は、最近とかく暗い気持ちになりがちな全国民に大きな喜びと希望を与えたのでした」。アメリカからの援助がなければ、多くの日本人が餓死した。
実際には、1945年産のコメはかなりの不作だったのは事実だが農林省が予想したほどではなかったので、要望した量より少ない輸入ですんだ。これをマッカーサーからなじられた吉田は、「日本の統計がしっかりしていたら貴国と戦争なんかしなかった」と切り返した。今でも農水省の統計の精度は変わらないようだ。
■小麦輸入を望んだのは日本だった
戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)やアメリカ政府に、日本人の食生活を変えようとする意思はなかった。そもそも日本に回す小麦がなかったのだ。
しばらくしてアメリカ産農産物が過剰になり、アメリカはその処理のために援助輸出を増加させた。ところが、このときアメリカ政府は日本への輸出として小麦以外の農産物を考えていた。余剰農産物交渉において、アメリカ政府は脱脂粉乳(学校給食)と綿花(学童服用)を提案したのに、小麦を輸入したいと主張したのは日本政府だ。
この時、農業予算が不足していた農林省は、アメリカから余剰農産物を購入する際日本が用意する代金の7割を日本が経済開発に使えるという学校給食とは別の仕組みを利用して、愛知用水の開発を行った。
穀物ならアメリカ農務省はコメを輸出したかったが、日本は高いコメよりも多く輸入できる安い小麦を選んだ。当時、輸入のコメや小麦は国産よりも価格が高かったため、政府は価格差補給金を出して安く国民に供給していた。
国内価格に対し国際価格は、コメで2倍、小麦で1.5倍高かった。外米を輸入するときは小麦よりも多くの価格差補給金が必要だった。
■アメリカに日本市場開拓という意思はなかった
他方、1953年頃から増産によって小麦の国際価格が低下し輸入麦の方が国産よりも安くなると、食管制度の輸入食糧損益は、1953年に297億円の赤字だったものが、1954年59億円、1955年166億円の黒字となった。また、タイなどから輸入される外米はナンキン米と呼ばれ、日本人の味覚に合わないうえ、劣悪な輸送の過程で生じるカビなどの安全性にも問題があった。こうして日本政府は外米輸入に代えて小麦の輸入を推進した。
要するに、アメリカ政府は同国産小麦の日本市場開拓という意志を全く持っていなかった。国際収支の制限の下で、小麦による粉食奨励を行ったのは日本政府だったのだ。
■高価格政策がコメ消費を減少させた
麦の生産が減少したのは、アメリカのせいではない。
1950年代まで、裏作の麦を6月に収穫した後に田植えをしていた。二毛作である。
田植えの時期が6月から5月初めになったので、6月に収穫期を迎える麦の生産ができなくなった。こうして二毛作と麦秋は消えた。国産麦の生産は、1960年の383万トンから、わずか15年後の75年に46万トンへと、8分の1まで減少した(その後1973年の穀物危機以降の麦作奨励により120万トン程度に回復)。
コメと麦の消費には代替性がある。本来ならば、過剰となったコメの価格を下げて、コメの生産を抑制しながら需要を拡大し、不足している麦の価格を上げて、麦の生産を増加させながら需要を抑制するという政策が、採用されるべきだった。
しかし、その逆の高米価・低麦価政策により、コメはさらに過剰となり、麦生産は激減した。1942年からの食糧管理制度によって政府は米麦を農家から買い入れて卸売業者または製粉業者に売り渡していた。
二毛作がなくなったのでJA農協は麦価に関心を持たなくなった。その代わり、政府が生産者から買う米価(生産者米価)を引き上げるための大政治運動を展開した。政府は生産者米価が上がると、赤字が拡大しないように卸売業者に売る価格(消費者米価)も引き上げた。これはコメの消費減少に拍車をかけた。
1995年に食糧管理制度が廃止された後も、需給均衡価格よりも高い米価は、農家に補助金を払って供給量を減少させるという減反政策で維持されている。コメ生産は1967年時の半分以下に低下した。
■外国産愛用政策で食料自給率は低下
コメに比べ消費者麦価が低い水準に抑えられたことで、麦(大・裸麦を含む)の消費量は1960年の600万トンから今では900万トンに増加した。
しかも、国産麦の生産減少により、麦供給の9割はアメリカ、カナダ、オーストラリアからの輸入麦となっている。1960年当時コメの消費量は小麦の3倍以上もあったのに、ほぼ同じ消費量まで接近している。今ではコメを500万トン減産して、麦を800万トン輸入している。国産主体のコメの需要を減少させ、輸入麦主体の麦の需要を拡大させる外国品愛用政策を採ったのだから、食料自給率低下は当然だ。
■アメリカの輸出戦略に対抗できなかった日本の農業界
アメリカがキッチンカーを使って小麦の消費拡大を行ったのは1956年ころだし、コメを食べると頭が悪くなるという大学教授の本が出版されたのは1958年である。この時までに、日本政府の施策によって食生活のパターンは変化していた。その後も農政トライアングルの価格政策がこれを助長した。
日本の自動車業界がアメリカ市場で販路を開拓したように、アメリカの小麦業界が日本で販路拡大の努力を行うのは当然だろう。問題は、アメリカの輸出戦略に対抗できなかった日本の農業界である。
食生活を変え、1960年の79%から食料自給率を38%まで下げたのは、アメリカではなく、JA農協、農水省、農林族議員の農政トライアングルだ。国内の消費が減少しても、減反するのではなくEUのように輸出していれば、自給率を下げなくてもよかった。
米価を上げ減反を推進してきたのはJA農協である。アメリカ悪玉論は、コメの消費減少と減反、コメ価格の高騰の責任をアメリカに転嫁しようとする意図を感じさせる。
(参考文献)
伊藤淳史[2020] “PL480タイトルIIをめぐる日米交渉” 『農業経済研究』第92巻第2号
食糧庁[1969]『食糧管理史・総論第1』
日本農業研究所編纂[1981]『農林水産省百年史』下
山下一仁[2022]『国民のための「食と農」の授業─ファクツとロジックで考える』日本経済新聞出版
山下一仁『食料安全保障の研究 襲い来る食料途絶にどう備えるか』日本経済新聞出版社, 2024年
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山下 一仁(やました・かずひと)
キヤノングローバル戦略研究所研究主幹
1955年岡山県生まれ。77年東京大学法学部卒業後、農林省入省。82年ミシガン大学にて応用経済学修士、行政学修士。2005年東京大学農学博士。農林水産省ガット室長、欧州連合日本政府代表部参事官、農林水産省地域振興課長、農村振興局整備部長、同局次長などを歴任。08年農林水産省退職。同年経済産業研究所上席研究員、2010年キヤノングローバル戦略研究所研究主幹。著書に『バターが買えない不都合な真実』(幻冬舎新書)、『農協の大罪』(宝島社新書)、『農業ビッグバンの経済学』『国民のための「食と農」の授業』(ともに日本経済新聞出版社)、『日本が飢える! 世界食料危機の真実』(幻冬舎新書)、『食料安全保障の研究 襲い来る食料途絶にどう備える』(日本経済新聞出版)など多数。近刊に『コメ高騰の深層 JA農協の圧力に屈した減反の大罪』(宝島社新書)がある。
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(キヤノングローバル戦略研究所研究主幹 山下 一仁)