戦前に生まれた黒柳徹子さんは多感な少女期に戦争を経験した。5歳のとき、結核性股関節炎で入院。
一生、松葉杖になるかという大病だったが、退院後に父の黒柳守綱(ヴァイオリニスト)に言われたことが忘れられないという――。
※本稿は、黒柳徹子『トットあした』(新潮社)の一部を再編集したものです。
■黒柳徹子は5歳のとき、関節炎で入院
「かくれていても、解決しないよ」
父にそう言われたのは、私が五歳過ぎ、まだ小学校に上がる前のことだ。
ある朝、幼稚園へ行く準備をしていた時、母にふと、
「ゆうべ、寝ている時に、右の足が痛かった」
と言うと、母は朝ご飯の支度をしていた手を止めて、
「夜、寝てる時に足が痛いのって、よくないって言うわ。すぐ病院に行きましょう」
きっぱりと、そう言った。幼稚園に行きたかった私は、病院へ行くのに乗り気じゃなかったけど、母のこの判断は正しくて、近所の昭和医専(昭和医学専門学校、いまの昭和大学)に連れていかれると、元気のいい男の先生が少し調べるなり、たちまち「結核性股関節炎(*1)です!」と診断を下された。
私はその場で、右足の甲や足首から、すね、膝、腰、そしてウエストまでを石膏のギブスで固められ、即入院、と決まった。右足で、ギブスから出ているのは、指先だけだった。実はこの時、父と母は、お医者さまから「お嬢さんは、治っても、松葉杖をつくことになるでしょう」と言われ、大きなショックを受けていた。
■「治っても松葉杖をつくことになる」と宣告
そんなこととは知らない私は、突然、ベッドから動けないままの生活になったけど、初めての入院を面白がっていた。読書にも夢中になったし、両手にお人形さんや、ぬいぐるみを持って、お話ごっこするのも楽しかったし、看護師さんはみんな親切だしで、ベッドの上だけの生活を、あまり退屈せずに過ごせたのだ。
私だけ呑気(のんき)に、入院生活を続けていた、ある日。
看護師さんが、隣りの病室に、私と同じくらいの年の女の子が同じ病気で入院した、と教えてくれた。どうせ、お互いにべッドから出られないのだから、きっと会うこともないだろうと、私は「ふーん」と思っただけだった。
ところが、その直後、私は猩紅熱(しょうこうねつ)(*2)と水疱瘡(みずぼうそう)に立て続けにかかって(共に伝染病だから隔離される)、病室を出たり入ったりすることになった。そんな時に、私はストレッチャーか何かで運ばれながら、(そう言えば、同じ病気の女の子がいるんだったわね)と、隣りの病室を覗(のぞ)いてみた。
確かに、そこには私と同じくらいの年齢の女の子が、上を向いて寝ていた。顔も見えた。細面で、きれいな、おかっぱの女の子だった。視線に気づいたか、その子も私を見た。二人とも無言のままだった。
編集部註

(*1) 肺結核などの結核菌が血液に乗って股関節に感染し、関節に炎症を起こす病気。股関節の痛みや腫れといった症状が出る。

(*2) A群溶血性連鎖球菌(溶連菌)による感染症で、主な症状は高熱、喉の痛み、いちごのように赤く腫れた舌(いちご舌)、赤い発疹。

■完治し走ってくる娘を見て、両親は号泣
その何週間かのち、ようやく私のギブスが取れる日が来た。
久しぶりに見た右足は、たった数カ月の間に、うんと細くなっていたし、成長を続けた左足のほうは、かなり長くなっていた。だから、立ってもバランスが取れず、うまく歩くことができなかった。というか、私は歩き方をすっかり忘れてしまっていた。
退院してからは、リハビリの毎日になった。専門の病院に通って、電気治療もしたし、マッサージもされた。湯河原の温泉へ、しばらく湯治(とうじ)にも出かけた。やがて、湯河原から当時人気の電気機関車で東京に戻るころには、右足も伸びて、太くなってきたのか、何の問題もなく、歩けるようになっていた。
父と母が、品川駅まで迎えに来てくれた。私が少しでも早く、電気機関車のことを話してあげようと走っていくと、二人がほとんど同時に泣き始めたので、びっくりした。何か悪いことでも、あったのだろうか。不安になった私を、父は抱き上げて、
「トット助、おめでとう!」
と泣き声で言った。
「松葉杖をつくことになる」とお医者さまから予告されていた両親にとって、走ってくる私の姿は、涙が出るくらい、うれしかったのだ。あとで、病院の先生は母に、
「ここまで治るのは奇跡に近いんです。一万人に一人くらいの確率ですよ」
と、おっしゃったそうだ。五歳だった私は、人がうれしい時も涙を流すことを、まだ知らなかった。あの朝、母が、すぐに病院へ連れて行ってくれたのが、きっとよかったのだろう。
■隣の病室にいた同じ病気の女の子と再会
それから少したった、小学生になる直前のころだ。
家の近くを、私が一人でぶらぶら散歩していたら、向こうから、赤い松葉杖をついた女の子が歩いて来た。赤い松葉杖は、かわいくて、目立っていた。何だろう、と思って近づいていくと、女の子と目が合った。隣りの病室にいた、あの女の子だった。彼女は私の顔を認めると、すぐ私の足を見た。私は、あとずさった。
きっと、その子も、私のことを「同じ病気の子」と聞かされていたに違いなかった。私は松葉杖なしで歩いている自分の足を見られたくなかった。どうにかして自分の足を隠したかった。何もできなかった。二人は黙って、すれ違った。
■松葉杖をつく少女と出会うたび、慌てて隠れた
どうやら、その子は、私の家の近くに住んでいるみたいで、いちど気がついてみると、ひんぱんに、赤い松葉杖を見かけることになった。私はそのたびに、大急ぎで横道へそれたり、誰かの家の庭にもぐり込んだりして、女の子と顔を合わせるのを避けた。そんなことをするうちに、あの赤い松葉杖は、女の子がほんの少しでも明るい気分になりますようにと、ご両親が塗ってあげたのかもしれない、と思うようにもなった。
父と散歩している時も、向こうのほうに、赤い松葉杖が見えた。私は慌てて、「かくれて! 早く、かくれなきゃ!」と、父を脇道へ引っ張っていった。驚いている父に、私は半泣きになって、説明した
「あの子に、足を見せられないの。あの子は同じ病気で、一緒に病院にいて、私は治ったのに、あの子は治らなかった。
足を見せたら、かわいそうだもの」
父は私の話を聞いて、ゆっくり、うなずくと、
「かくれていても、解決しないよ。行って、お話をしてあげればいいのに!」
と言った。でも、私は、どんなふうに話しかけたらいいのか、わからなくて、女の子の前に出ていくことはできなかった。私は、父の前で、ただ黙っていた。世の中には不公平というものがある、ということを、私はその時、初めて気づいたのかもしれなかった。
■転校した自由な校風の小学校で気づいたこと
小学校に入ると(そこはすぐ退学になるのだけど)、学区が違ったのか、その子を見かけることもなくなってしまった。とうとう、「こんにちは」も言えないままだった。トモエ学園に移ると、やはり足の悪かったポリオの泰明(やすあき)ちゃんとか、障害を持つ子どもが何人もいたけど、「いつも一緒だよ。みんな、一緒にやるんだよ」という小林校長先生の教えどおり、私は毎日、一緒に何でもやったし、かんたんに仲良くなれたのに、赤い松葉杖の子と出会ったころは、まだ、うまく気持ちを伝えることができなかった。
あの子だって、もしかしたら、私のことを、(いちど見かけたきりで、ずっと会えないなあ)と考えてくれていたかもしれないのだから、やっぱり、話しかけるべきだった、と後々まで、私は口惜しいような、悲しいような思いになった。
私が、ほかの子どもたちより、やさしかった、とか、繊細だった、とか、いうわけでは決してない。子どもたちは、みんな、そのくらいの気持ちを持っている。
ただ、しばしば、どうしたらよいか、迷ってしまって、うまく行動に移せないでいるだけなのだ。

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黒柳 徹子(くろやなぎ・てつこ)

俳優

東京・乃木坂生まれ。父はNHK交響楽団のコンサートマスター。香蘭女学校を経て東京音楽大学卒業後、NHK放送劇団に入団、日本初のテレビ専属女優として活躍。「徹子の部屋」は50年目を迎え、著書『窓ぎわのトットちゃん』は800万部超のベストセラーに。2023年に続篇とアニメ映画を発表。ユニセフ親善大使として世界各地を訪問。文化功労者、東京フィル副理事長など多数の役職を務める。

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(俳優 黒柳 徹子)
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