黒柳徹子さんが書き下ろしのエッセイ『トットあした』(新潮社)を刊行。これまでの人生で出会ったさまざまな人からかけられた大切な言葉があり、30代の頃にとても親しくしていた女性からは『禍福はあざなえる縄のごとし』と教わったという――。

※本稿は、黒柳徹子『トットあした』(新潮社)の一部を再編集したものです。
■食いしん坊のトットちゃんと名脚本家の交流
ものすごく早く食べるおかげなのかどうか、私は、食べる量のわりには、あまり太らない体質みたいだった。
向田邦子さんが亡くなる少し前に、彼女のおすすめの中華料理屋さんに一緒に行ったときも、テーブルに座るなり、「太らないわね」と言われた。知り合って15年くらいになっていたけど、向田さんの体形も変わったように見えなかったので、
「あなたも変わらないじゃない」
と言うと、向田さんは笑って、
「私、氷嚢(ひょうのう)みたいなの!」
と言った。
ひょうのう、は袋の上のほうでくくってあって、下に行くにしたがって、中に入れた氷水で、でっぷりと、ふくらんでいく。
顔が小さい向田さんが、自分の体形を愉快にたとえた表現だった。
向田さんは、おいしい店をたくさん知っていて、よく一緒に食べに出かけた。だけど、あらためて考えてみたら、どこかのお店に行くよりも、向田さんのお部屋で、ふるまわれた手料理をおいしくいただいた回数のほうが、はるかに多いに違いない。
「寺内貫太郎一家」「時間ですよ」など、数々の向田ドラマをつくった久世光彦さんは、『触れもせで 向田邦子との二十年』という本に(これは、向田さんへの久世さんの思いがたくさん、つまった本だ)、彼女の部屋で「寺内貫太郎一家」の打合せをしたときのことを書いている。
「行きづまると向田さんは台所に立って薩摩芋のレモン煮とか、顔を顰(しか)めるくらい酸っぱい梅干しとかを持ってくる。客人として訪ねて、あんなに居心地のいい部屋はなかった。肝心な話より、余談、雑談、無駄話の方が多くて能率の悪い部屋ではあったが、静かで楽しい部屋だった」
■向田の自宅兼仕事場に入り浸っていた
ここで久世さんが書いているのは、向田さんの終(つい)の棲家(すみか)になった、南青山のマンションの部屋のことだけど、その前に向田さんが住んでいた、霞町(かすみちょう)マンションのお部屋も、「客人として訪ねて、あんなに居心地のいい部屋はなかった」ことを私は知っている。
居心地が良すぎて、私はほとんど毎日、霞町マンションの「Bの二」号室に入り浸っていたくらいなのだから。
それは、木造モルタル三階建ての二階の、そんなに大きくない一室だった。玄関を入ってすぐ右手に、向田さんが仕事をしている机があって、私はその脇にあったソファに横になって、向田さんとたわいのないおしゃべりをしたものだった。ソファの向いに本棚があって、その上にはいつも伽俚伽(かりか)というシャム猫が乗っかっていた。私が、おなかがへったと言うと、向田さんは、頭にキリリとヘアバンドをして、台所に立ち、チャッチャッと、ごはんをつくってくれた。
■料理上手だった向田の手料理のおいしさ
久世さんは「薩摩芋のレモン煮とか、顔を顰めるくらい酸っぱい梅干し」をいただいたそうだけど、私が向田さんの手料理でおぼえているのは(あまりに数多くいただいたせいで、かえって、よくおぼえていないのだけど)、茄子の煮びたしとか、古漬けをきざんで覚弥(かくや)にしたものとか、長ネギのアツアツ油かけとか、サヤインゲンとおろした生姜を和(あ)えたものとか、凝(こ)ったところでは、トビウオのでんぶとかを出してもらった。
どうやら、そんな料理は、向田さんの『父の詫び状』に出て来る、あのお父さまの晩酌の肴(さかな)のために、手早く、珍しく、おいしいものをと、考案されたものが多かったようだけど、お酒を飲まない私はごはんのおかずとしていただいて、どれもこれも、おいしかった。「スプーン2杯入れたら、あら不思議、たちまちサッポロの名店の味に!」というフレコミの、ご自慢の自家製タレをたらしたインスタント・ラーメンもおいしくて、そのタレを少し、わけてもらったこともある。
そして、私が「おいしいわ」と言うと、「そうかしら?」なんて絶対に謙遜(けんそん)しないで、
「案外でしょう?」
なんて、チラッと自慢げに言うところも、私は好きだった。
■テレビの仕事で出会った向田と意気投合
向田さんが杉並の実家を出て、霞町に引っ越したのは、前の東京オリンピックの開会式の日だったというから1964年10月10日のこと。彼女が35歳になる前の月だ。そして霞町から南青山へ引っ越したのは6年後、1970年暮れだった。

私が出会った時、向田さんは30代半ばだった記憶があるから(私は4歳年下)、霞町に引っ越した翌年あたりのことだと思う。私と向田さんが出会ってから、わりとすぐ、向田さんの書くものによく出演していた加藤治子さんが霞町マンションへ連れていってくれた。
そもそもの出会いは、赤坂のTBSのスタジオだった(私はまだNHKをやめていなかったけど、他の局の番組に出始めていた)。向田さんの書いた、連続もののラジオドラマに出たはずだけど、犬が出てきたこと以外、内容もタイトルも残念ながら、おぼえていない。
いま「向田さんの書いた」と書いたけど、正確には、私がスタジオに行ったとき、いつも筆が遅い向田さんのシナリオは、まだ書きあがっていなかった。こういうとき、作家は、お尻に火がついた状態の番組スタッフにせつつかれ、ペンと原稿用紙を持って、現場にやってくることになる。私たちがスタジオで収録を始めたとき、ガラスの向こうで、向田さんは次の回の原稿を必死に書いていた。つまり、私たちは、向田さんの筆が遅かったおかげで、会うことができたのだ。
■おしゃれで洗練され、ユーモアもあった女性
ようやくシナリオを書き終えて、ホッとした感じでいる向田さんは、きれいだった。初対面のあいさつをすませた私は、向田さんが髪の毛をきちんとセットされているのを見て、「すごく髪の毛きれい」と言ったら、「どんなときでも頭だけはね。ほかはともかく」と笑った。その言い方や笑い方が、素敵だった。

確かに向田さんは、化粧水をぬって、濃いめの口紅をチョンとつけておしまい、みたいなさっぱりしたメイクをしていた。服装も、後から思えば「いかにも向田邦子!」という感じの、黒がベースのシンプルなものだったし、声も気持ちのいい、少し低音で、少し早口の、それでいて、やわらかいしゃべり方をした。総じて、落ち着いた、知的なお姉さん、という雰囲気だった。私たちは初対面のときから、どこか通じ合うもの、似通ったものを、お互い感じ合っていたと思う。
(このとき以降も、いつだって、「頭だけはね!」の言葉どおり、向田さんの髪は、本当に、手入れが行き届いていた。人としゃべっているとき、しょっちゅう無造作にかき上げていたから、よく手入れされているとは、あまり、気づかれなかったかもしれないけど、きちんと美容院に通っている髮だった。真ん中から分けた黒い髪を、耳の下できれいに切りそろえた、いつものヘアスタイルは、向田さんの小さな顔と、知的な額と、ときおりキリリと吊り上がる美しい目に、とても似合っていた。)
■「幸せと災いは、かわりばんこに来るの」
その初対面のときか、二度目に会ったときのことだ。とにかく、やはりTBSのスタジオでのことで、書きあがったばかりの向田さんのシナリオを読むと、「禍福(かふく)はあざなえる縄のごとし、って言うでしょ?」みたいなセリフが出てきた。だいたいの意味はわかっていると思ったけど、念のため、向田さんに訊ねてみた。
向田さんは、
「人生では、幸せと災いは、かわりばんこに来るの。いいことがあると、必ず、そのすぐ後に、よくないことがあって、でも、その逆もある。
つまり、幸福の縄と不幸の縄とを縒(よ)ってできているのが人生だ、ということじゃないかしら」
と答えてくれた。
根っから楽天的な私が、ほとんど反射的に、
「あら、でも私は、幸せの縄二本で編んでいる人生がいいな。そういうことって、ないの?」
と質問したら、向田さんは、
「ないの! ないのよ」
と笑って答えた。
■向田が直木賞を受賞したときの感動スピーチ
その後、長いあいだ、このやり取りを、私が深く考えることは、なかった。やがて、はっきり思い出すことになったのは、向田さんが直木賞を受賞した時の、お祝いのパーティ会場でのことだった。私は、向田さんから頼まれて、そのパーティの司会をしていた。
乾杯の前に、私が「向田さんから、まず、ひとこと」と言うと、向田さんがマイクの前に立って、こう述べた。
「私は長いこと、男運の悪い女だと思い続けてきました。この年で定まる夫も子どももいません。でも、今日、こうやってたくさんの方に、お祝いをして頂きまして、男運が、そう悪い方じゃない、ということが、やっとわかりました。私は欲がなくて、ぼんやりしておりまして、節目節目で、思いがけない方に、めぐり逢って、その方が、私の中に眠っている、ある種のものを引き出してくださったり、肩を叩いて下さらなかったら、いまごろは、ぼんやり猫を抱いて、売れ残っていたと思います。ほかに、とりえはありませんけど、人運だけは、よかったと、本当に感じています。

それと、今日は10月13日ですが、この日は、私の中に感慨がございます。5年前のいまごろ、私は手術(乳ガン)で酸素テントの中におりました。目を開けると、妹と澤地久枝さんがビニール越しに私を見ていたので、『大丈夫』と言ったつもりが、麻酔でロレツがまわりませんでした。そして、明るく人生を過ごすことができるのか、人さまを笑わすものが書けるのか、どれだけ生きられるかも、自信がありませんでした。頼りない気持ちでした。でも、たくさんの方のあと押しで、賞も頂き、5年ぶりに、いま『大丈夫!』とご報告できるように思えます。そんなわけで、お祝いして頂くことは、私にとって感慨無量です。ありがとうございました」
ステージの横で、笑ったり、胸を打たれたりしながら、このスピーチを聞いていた私は、10何年ぶりかで、向田さんから聞いた「幸せと災いは、かわりばんこに来るの」という話を思い出していた。そして、(本当に、向田さんが言ったとおりだったわ。でも、私ったら、幸せの縄2本の人生はないの、なんてバカなことを言ったものね)と司会席で、こっそり、おかしがっていた。
■受賞してすぐ事故死した向田への追慕
このパーティから1年も経たないうちに、向田さんは、家族や友だちやファンや猫を残して、卒然と、台湾の空で消えてしまった。
向田さんの最後の6年間に起きたことは――大きな手術があり、そして「冬の運動会」「家族熱」「阿修羅のごとく」「あ・うん」といったドラマや、「突然あらわれてほとんど名人」と山本夏彦さんに激賞された数々のエッセイの執筆、さらに『思い出トランプ』の短篇小説で直木賞受賞、そして翌年の飛行機事故、だった。

向田さんが亡くなった1981年には、私がトモエ学園の小林校長先生や、泰明ちゃんをはじめとする仲間たちや、そこでの教育の風景みたいなものを残しておきたくて『窓ぎわのトットちゃん』を書き、思いもかけないほど、たくさんの方々に読んでもらうことができた。それはとても幸せな出来事だったけど、本が出た、わずか5カ月後に、最愛の友だちである向田さんを亡くしてしまった。
いくら楽天的で、呑気者の私でも、「禍福はあざなえる縄のごとし」という言葉が重く、胸に響いてきた。

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黒柳 徹子(くろやなぎ・てつこ)

俳優

東京・乃木坂生まれ。父はNHK交響楽団のコンサートマスター。香蘭女学校を経て東京音楽大学卒業後、NHK放送劇団に入団、日本初のテレビ専属女優として活躍。「徹子の部屋」は50年目を迎え、著書『窓ぎわのトットちゃん』は800万部超のベストセラーに。2023年に続篇とアニメ映画を発表。ユニセフ親善大使として世界各地を訪問。文化功労者、東京フィル副理事長など多数の役職を務める。

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(俳優 黒柳 徹子)
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