■11代将軍・家斉「余は子づくりに秀でておる」
このところNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、自信家で厳格な松平定信(井上祐貴)が、文武と倹約の奨励で知られる寛政の改革を推し進める様子が頻繁に描かれている。
第36回「鸚鵡のけりは鴨」(9月21日放送)では、側用人に取り立てられた本多忠籌(ただかず)(矢島健一)を自邸に呼びつけ、次のように恫喝した。「そなたが賄賂を受けとっておるという報告があった。そなたは黒ごまむすびの会よりの私の信友であり腹心。範たるべき本多の者がなんたることか」。
続いて、恋川春町(岡倉天音)が書いた『鸚鵡返文武二道』など、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)が刊行し、定信の政治を揶揄する内容の黄表紙が取り締まられるのだが、上に挙げた場面には、風紀の乱れを許さない定信の姿勢がよく表されていた。そういう姿勢は、第35回「間違凧文武二道」(9月14日放送)で流された、次の場面からも伝わった。
腹心である水野為長(園田祥太)からの報告書で、まだ正室を娶っていない将軍家斉(城桧吏)が、大奥の女中とのあいだに子をもうけたと知って衝撃を受けた定信は、あわてて登城した。「大事な務めを成しえ、安堵している」と暢気な家斉に定信は、「上様には、仁政を為すため学を修める務めもまたございます。聞くところによりますと、大奥に入り浸り、栗山博士のご講義もご不調にてお休みがちとのことで」と諭した。
だが、家斉にはまるで響かない。
そして、この将軍は今後も終始こんな感じだったから、そもそも定信と話がかみ合うはずもなかった。
■16人の側室とのあいだに53人の子をもうける
家斉が薩摩藩主の島津重豪の娘、近衛寔子(ただこ)(輿入れにあたって近衛家の養子にした)を正室に迎えたのは寛政元年(1789)2月のこと。実際、この時点で、側室のお万の方は家斉の子を身ごもっており、3月には、のちに尾張徳川家に嫁ぐ長女の淑子が生まれた。
このお万の方は、その後も二女、長男の竹千代、三女の綾姫を産むが、いずれも夭折している(次女は命名前に死去した)。とりわけ世継ぎと期待された竹千代の死去には、周囲の女中たちの落胆は激しかったという。
だが、家斉は正室および側室16人とのあいだに53人の子をもうける。その意味では、お万の方が生んだ子たちが早世しても、世継ぎ云々の点では大勢に影響はなかった。ちなみに53人のうち成人したのは28人だった。
そして、家斉の数多い側室のなかでも最大の力を誇ったのが、松平定信が失脚して数年後に家斉が手をつけたお美代の方だった。
■お美代の方の養父の正体
大奥の女中で、将軍に直接お目通りできる「御目見得以上」は、公家出身者が多く将軍の側近くに仕える「上臈御年寄」を筆頭に、大奥の一切を取り仕切る「御年寄」、御年寄の指示で実働する「中年寄」、大奥に来た将軍を接待する「御客会釈」、御台所や将軍の側に仕える「御中臈(おちゅうろう)」、タバコや手水などを給仕する「御小姓」などが続いた。
このうちで将軍の側室になる可能性が高かったのが、将軍付の御中臈だった。寛政9年(1797)生まれのお美代の方が大奥に奉公に上がったのは、文化7年(1810)ごろのことで、すぐに家斉の目に留まったようだ。
お美代の方は文化10年(1813)に溶姫、同12年(1815)に仲姫、同14年(1817)に末姫を産んだ。溶姫は加賀藩主の前田斉泰(なりやす)に嫁ぎ、仲姫は早世したが、末姫は広島藩主の浅野斉粛(なりたか)に輿入れした。東京大学の敷地はかつての加賀藩上屋敷で、東大に残る赤門は、この溶姫を迎える御殿の御守殿門だった。当時、将軍の娘を受け入れる際、門を赤く塗る慣習があった。
お美代の方を大奥に奉公させたのは、駿河台に屋敷があった旗本の中野清茂(別名は硯翁)で、彼女はもともと中野家に奉公に上がっていた。この清茂、10歳まで大奥ですごして家斉の遊び相手だったといわれ、それだけに大奥を熟知していたという。お美代の美貌と才知に目をつけ、大奥に奉公させて大当たりしたというわけだ。
■養父に届けられた莫大なワイロ
お美代の方の実父は、中野家の菩提寺だった日蓮宗仏性寺で住職を務めていた日啓だとされる。そして、家斉のお美代の方への寵愛が厚くなるにつれ、養父の中野清茂も実父の日啓も、まさに「栄華を極める」こととなった。
清茂はもともと家斉の話し相手だったから、小納戸、小姓、小姓頭取、小納戸頭取と一貫して家斉の身の回りの世話をする役を務めてはいた。加えてお美代の方の養父となったため、何事も清茂に依頼すれば、お美代の方を通じて、あるいは直接、家斉に進言してもらえて、叶ったも同然だといわれた。
このため諸大名から幕臣、商人にいたるまで、みな莫大な賄賂を携えて清茂のもとに陳情したという。結果として、清茂は本所向島に豪奢な別邸を構え、贅沢な暮らしをすることになった。
漢学者の五弓久文が記した『文恭公実録』には、「先憂後楽」の逆で、のっけから楽しんでばかりいる3人の人物として、家斉の実父の一橋治済、家斉の義理の父の島津重豪と並んで、中野清茂を挙げているほどである。清茂は隠居して硯翁と称してからも、家斉の話し相手としていつでも登城できる資格をもち、賄賂も届けられ続けたという。
■お美代の方の“実父”の大出世
お美代の方の実父とされる日啓も負けてはいなかった。仏性寺から移って中山法華経寺の支院、智泉院の住職を務めていた。
お美代の方はその日啓を江戸城に呼び入れ、将軍への祈祷を行わせた。そして日啓は、家斉が故家基の霊を気にしていることから、家基の死霊に呪われているので、霊を祭る社を建立するように進言した。
結局、中山法華経寺の境内に若宮八幡という社殿を建て、そこに家基の霊を祀ることになった。日啓の野望は大胆だった。小さな智泉院を、芝の増上寺と上野の寛永寺と同様、将軍が祈祷する寺にしようとたくらんだのである。さすがにそれは無理でも、中山法華経寺を将軍の祈祷所にし、智泉院を将軍家御祈祷所取扱とし、将軍が中山法華経寺に赴く際、まず立ち寄る寺という格式を獲得してしまう。
それ以降、大奥の女中たちが息抜きを兼ねて、智泉院と若宮八幡を頻繁に参詣するようになり、しまいにはそこで大奥の女中たちと若い僧たちが密会するようになった。これはのちに大きな問題に発展する。
■家斉のやりたい放題
こんな状況を許す将軍のもとで、松平定信が長く改革を続けられるはずもなかった。だが、改革基調は、定信の失脚とともに途絶えたわけではなかった。定信が取り立て、「寛政の遺老」と呼ばれた老中たちが、引き続き幕政を担ったからだ。
しかし、その中心人物の松平信明が文化14年(1817)に死去すると、あとは家斉のやりたい放題となった。すなわちお美代の方と中野清茂、日啓の暗躍し、綱紀は乱れ、放漫財政が黙認された。
だが、さすがにその状況は、長く続いたとはいえ永遠ではなかった。将軍職に50年間とどまり、退位後も大御所として君臨した家斉が天保12年(1841)に死去すると、12代将軍家慶は処分を断行した。
中野清茂は登城を禁止されたうえ、加増地は没収され、別邸は取り壊しの処分となり、翌年死去した。また、智泉院が摘発され、日啓は女犯の罪で遠島に処され、執行される前に獄死した。家基を祀った若宮八幡も撤去された。ただし、お美代の方は処分を免れたが、それは将軍に寵愛された愛妾への恩情措置であった。
いずれにせよ、のちの放埓な世を見ると、松平定信が唱えた文武や倹約がいかに虚しかったことかと、痛感せざるをえない。そして寛政の遺老がいなくなった綱紀が乱れた世にこそ、絢爛たる化政文化が花開いたのである。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)