■「スパイ天国」の是正は失敗続き
2025年の参議院選挙で「スパイ防止法」の制定を公約に掲げた参政党や国民民主党が躍進したことを背景に、その必要性を訴える声が世論の中で大きくなりつつある。
日本は戦後、スパイを取り締まる組織を失い、冷戦期以来「スパイ天国」と呼ばれてきた。
だが、その是正を試みた歴代政権の努力は繰り返し挫折してきた。なぜスパイ防止法は成立しなかったのか。そして、いま本当に必要なのは「スパイ防止法」という法律そのものなのか。
結論として、「スパイ防止法」という名称にこだわった議論は生産的ではない。真に必要なのは、スパイを確実に防ぎ摘発できる体制と人材の整備である。スパイ防止法ができたからと、すぐにスパイを取り締まれるようになるわけではない。
本稿では、歴史的経緯や国内外のスパイ事件、そして経済安全保障の新たな脅威を踏まえ、日本に本当に必要な制度的対応を考えていく。
■死刑まで規定した40年前の法案
日本で最初に「スパイ防止法」が国会に提出されたのは1985年、中曽根康弘内閣のもとであり、正式名称は「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」だった。
国家機密の不正取得や漏洩を重罰化する内容であり、最高刑には死刑まで規定される「本格的」な法案だった。
その背景には、日本におけるソ連の諜報活動の活発化とともに、アメリカからの「日本の情報保全体制は甘すぎる」との警告があった。この時期、日本はバブル期に入るときであり、日本の強すぎる経済に対して、アメリカはかなり警戒するようになっていた。これまで安全保障をアメリカに任せていた日本は、アメリカに西側の要として責任を果たすべき立場になるように求められていた。
■日本中を敵に回した結果、最初の挫折
だが、世論は真っ二つに割れた。日本を代表する英文法学者でありながら、保守言論人として活躍していた渡部昇一氏らが「国家として当然」と主張する一方で、日弁連や本多勝一氏らは「知る権利を奪う」「戦前回帰」と批判した。
渡部氏は『週刊文春』を、本多氏は『朝日ジャーナル』を中心に論争を繰り広げていった。だが、主要メディアでスパイ防止法に賛成したのは文藝春秋の雑誌くらいで、産経新聞を含めた新聞各紙も否定的論調を展開し、結果として法案は審議未了・廃案となった。
中曽根政権の試みは、日本のスパイ防止法立法の最初の挑戦であり、最初の挫折だった。政権はまさに「日本中を敵に回す」という逆風の中での挑戦で、戦後平和主義が根強い日本でスパイ防止法を成立させることがいかに難事業であるかを示した出来事だった。
「スパイ防止法などとんでもない」という世論の空気の中で、渡部氏は孤軍奮闘を続けたものの、成立への土壌が醸成されることはなかった。
■国民に刻まれた「天下の悪法」の記憶
1985年の法案がここまで拒否された理由は、戦前の治安維持法へのトラウマにある。
治安維持法は共産主義運動の取り締まりを目的に制定されたが、戦争に入ると政府の意志決定がトップダウン方式に移行し、範囲が言論や学問にまで拡大解釈された。結果的に多くの思想犯検挙を生んでしまった。
戦後教育では治安維持法の負の歴史が強調され、天下の悪法として記憶されることになった。そのため、「国家権力の強化は自由の制限につながる」という意識が国民に深く刻まれた。
「国家秘密」や「スパイ防止」という言葉が出ただけで、感情的反発が噴出するは、まさに治安維持法の「戦後平和主義的解釈」がもたらしたものであった。それだけに、戦後平和主義を日本の安全保障において絶対的だと考える者は、強い拒否反応を起こすのだった。
だが、その反作用は大きかった。冷戦期に実際のスパイ事件が発覚しても、報道は控えめであり、日本でスパイが何をしているかの理解が広がらず、国民の危機感は醸成されなかった。
政治の現場にいる自民党が抱く問題意識と、マスコミや世論との乖離はあまりにも大きく、多くの保守政治家や言論人が「日本でスパイ防止法を成立させるのは不可能ではないか」と絶望的な空気さえ漂っていた。
■第二次安倍政権が「分散整備」で打開した
安倍晋三氏は日本の国益を守るために「スパイ防止法」が必要であることを痛切に理解する政治家だった。そのため、中曽根首相のように正面突破をねらった第一次政権では、基盤が弱く議論の余地はなかった。
そこで、第二次政権で戦術を大きく転換させた。
安倍政権は関連法制を分散的に整備した。
①特定秘密保護法(2013年)
②平和安全法制(2015年)
③外為法改正(2019年)
「特定秘密保護法」は、防衛・外交・テロ対策など秘匿性の高い情報を「特定秘密」に指定し、漏洩を厳罰化した。これにより公務員や関係者による流出を防ぐ仕組みができた。
この特定秘密保護法をめぐり、マスコミやリベラル政治家・言論人は、中曽根政権のスパイ防止法議論と同じレベルで報道の自由・言論の自由が奪われると主張した。また、「これで日本では反政府映画を作ると逮捕される」などといった誤った言論も流布した。
だが、そんな国内の反発とは打って変わって、同法は米国やファイブ・アイズ諸国との情報共有の前提とされ、国際的に高い評価を受けた。
「平和安全法制」は集団的自衛権の限定的行使や自衛隊活動の拡大を規定するもので、直接の秘密保全ではない。しかし国際協力の広がりに伴い、情報保全の厳格化は不可欠となった。
さらに、「外為法(外国為替及び外国貿易法)」を改正した。これによって、外国資本による日本企業への投資や技術取得を厳格に審査できる仕組みを導入して、機微技術の流出やスパイ活動への対抗策を整えた。
これらの法制は、直接的なスパイ防止法に代わる「安全保障と情報保護のための法的基盤」と機能した。安倍政権は「スパイ防止法」を成立させることはしなかったが、3つの法制を組み合わせることによって「実質的なスパイ防止法」を作り上げたといえる。
日本が西側における安全保障交渉の要となれたのは、この3つの法制の存在が大きかった。
■日米関係を揺るがした昭和のスパイ事件
日本国内外でもこれまで複数のスパイ事件が発覚している。最も有名なのは、「東芝機械ココム違反事件」だろう。
1987年、東芝機械とノルウェー企業がソ連向けに工作機械を不正輸出したことが発覚した。ソ連潜水艦の静音化技術が飛躍的に進み、米ソの軍事バランスを揺るがしたとされる。
日本はバブル期に入っており、圧倒的な製品力と金融力で世界を席巻し始めていた。経済停滞が続いていたアメリカからの「ジャパンバッシング」が起こり始めた頃だった。
日本製品によって閉鎖した工場を抱えた米議員の反発は特に大きく、アメリカ議会ではソ連に対する以上の激しい反発が起こり、日米関係に深刻な摩擦をもたらしている。
■技術を狙う中国に対して無防備すぎる
この事件は報道でも「アメリカ側の誤解があった」と強調されることもあり、日本政府やマスコミの機密情報漏洩に対する意識の低さを露呈させる結果となった。
実際、防衛装備庁関連のシステムや防衛産業企業は、繰り返しサイバー攻撃を受けてきた。図面や仕様書が流出した可能性が指摘され、警察庁も対応に追われた。
これらは軍事技術の保護という、国家にとって最重要政策についても日本は手薄で、文字どおり日本が「スパイ天国」であることを体現している。
1991年にソ連が崩壊するとスパイに対する警戒心はなくなっていったが、中国がソ連に代わるスパイ国家となっていった。実際、中国が技術面で日米にキャッチアップするようになると、日本においても「中国から日本の技術を守れ」をという機運が盛り上がり、安倍政権では3つの重要法制が成立した。
安倍政権からは、AIや量子技術などの基礎研究データが外国人研究者を通じて流出する事例が報告されるようになった。これは大きな進歩であるものの、摘発件数は極めて少なかった。
■スパイ摘発機関がないという最大の弱点
かたや、似た立場にあったドイツでは、2024年に欧州議会の補佐官が中国に情報を流した容疑で逮捕されている。イギリスやフランスでも同様の摘発が相次いでおり、欧州各国においてはスパイ行為を厳しく処罰していることがわかる。
これらの事例は、日本が「摘発体制の弱さ」によって危機にさらされていることあぶり出している。
日本は摘発権限が警察に限られており、他国のようなスパイ摘発機関を持っていないところに大きな弱点がある。スパイ摘発を進めるに必要なのは、それに対応できる組織と人材である。
両者はかなりのコストと時間がかかる。だが、それができなければ抜本的な対策にはならないのである。
■世界に誇る日本の半導体技術を守れるか
現代のスパイ活動は、国家安全保障(≒軍事)とともに、経済安全保障が重要なテーマになっている。
現在の先端産業において最も需要なのが、半導体製造技術であることに異論はないだろう。現在は、米中が半導体生産技術について激しい攻防を繰り広げているが、その中核には、アメリカの特許技術と台湾TSMCなどの微細化技術がある。
日本はそれらでは後れを取っているものの、半導体製造装置や素材ではトップクラスの技術を持ち、中国への技術流出については両国に準じる重要性がある。
現在の諜報活動の重心は、このような先端産業の技術流出をいかに守るかにシフトしつつある。
■サイバー攻撃に対する備えも甘い
2010年、中国が尖閣諸島の漁船衝突事件後にレアアース輸出を事実上停止し、日本の製造業を混乱させたことがあるが、先端産業を支える資源戦略も諜報活動の要の一つとなっている。
問題は日本企業が中国などの監視対象にあることで、中国が日本企業の従業員を拘束した場合に、それに反論する情報も、取引材料もほとんど持っていないことにある。
また、防衛関連企業や大学へのサイバー攻撃についても、まだまだ備えができていない。重要データ流出はAI、量子技術、バイオなどの先端分野に及び、日本の競争力を根底から脅かしかねない。
アメリカが中国ファーウェイやTikTokを規制するのも、経済安全保障の一環である。
情報戦に勝つための政策とともに、外国の不当な検挙から国民を守るという視点も必要になっている。
こうした現代的脅威に対し、日本が取るべき道は単純な「スパイ防止法」の制定ではない。いくらスパイ防止法を作ろうが、実際にスパイを取り締まれる機関が警察以外にないのである。
まず、情報機関の権限分担を整理し、国内防諜を担う専門組織を整備するために、米FBIやイギリスMI5のような役割を担う機関が必要だ。それに対応できる機関がなければ始まらない。
■司令塔以外に「実行部隊」が不可欠
安倍政権は2013年、内閣のもとで安全保障政策の企画立案・調整を担う国家安全保障局(NSS)を設立した。これはアメリカの国家安全保障局(NSC)を参考にした組織で、「日本版NSC」と呼ばれ、日本の安全保障政策を大きく前進させる要の1つとなっている。
ただし、NSSは政策司令塔であって、FBIのように捜査権や諜報活動の「実行部隊」ではない。国家安全保障の観点で、諜報活動を取り締まる権限を持つ「実行部隊」ができない限り、本格的な検挙はできない。
安倍首相は、2014年からイスラエルとの意見交換を活発化させて、国防とサイバーについてイスラエルに学ぶ体制作りをしている。これは、モサドを抱えて世界水準の諜報活動をおこなっているイスラエルから学ぼうとしたからではないだろうか。
■報道や学問の自由との両立も検討を
スパイ防止には、それに対応できる高度人材の育成が不可欠である。まず、国民の理解を得るために透明な監督制度を設け、報道や学問の自由と両立させる組織設計をすべきだ。
スパイ取り締まりの法律は、体制と人材を整備したうえで、その活動を裏付けるものとして制定すべきである。実際にスパイを検挙できる制度を築くことが最重要課題だ。
スパイ防止法の制定を公約に掲げた政党の台頭で、再び国会での焦点となりつつある。この機会に、まず安倍政権が築いた対諜報活動体制を理解し、それを強化するには何が必要かを考えて、実効性のある政策を立案していただきたい。
日本が真の意味で「スパイ天国」から脱するには、先に法律の体裁を整えるだけでなく、人材と組織作りを優先させて、その能力を最大限に引き上げる法的根拠作りを進めることが必要だ。
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白川 司(しらかわ・つかさ)
評論家・千代田区議会議員
国際政治からアイドル論まで幅広いフィールドで活躍。『月刊WiLL』にて「Non-Fake News」を連載、YouTubeチャンネル「デイリーWiLL」のレギュラーコメンテーター。メルマガ「マスコミに騙されないための国際政治入門」が好評。著書に『14歳からのアイドル論』(青林堂)、『日本学術会議の研究』『議論の掟』(ワック)ほか。
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(評論家・千代田区議会議員 白川 司)