■蔦重の時代、江戸城の女たちのリーダーは…
江戸時代後期の江戸城大奥において権勢を持っていた1人の女性がいました。筆頭老女であった高岳(たかおか)です。大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)ではこの高岳を女優でモデルの冨永愛さんが演じています。
高岳とはどのような女性だったのでしょうか。高岳は宝永6年(1709)の生まれで、寛政6年(1796)に亡くなっています。高岳は元は「ゆふ」と言い、利根姫(仙台藩主・伊達宗村の正室。紀州藩主・徳川宗直の娘)に仕える上﨟(じょうろう)でした。ところが利根姫は延享2年(1745)に死去。その後、「ゆふ」は「三室」と改めて将軍・家重の嫡男・家治付きの「上﨟年寄」となります。その後、将軍付き上臈「高岳」となるのでした。
■高岳より先に権勢を誇った筆頭老女・松島
高岳が権勢を持っていたのは、10代将軍・徳川家治(「べらぼう」では眞島秀和が演じた)の治世でした。
公家の桜井兼供の娘として生を受けた松島は、中御門天皇の女御・近衛尚子(近衛家熙の娘)に当初仕えることになります。尚子は中御門天皇に入内し、昭仁親王を産みますが(1720年)、その直後に亡くなります。松島は主を失った訳です。松島が次に仕えたのが、培子女王でした。培子は皇族・伏見宮邦永親王の娘です。培子が嫁ぐことになったのが、徳川家重です。家重は8代将軍・徳川吉宗の嫡男であり、後に9代将軍となる人物でした。
享保16年(1731)、江戸に下向する培子に松島も従います。都から江戸城大奥へ、松島の人生の大きな転機でした。その2年後(1733年)、培子は懐妊しますが、産後の肥立ちが悪く若くして亡くなります。松島はまたしても主人を失ったのです。元文2年(1737)、家重は側室お幸の方との間に家治(幼名・竹千代)をもうけます(お幸は培子の御側付として江戸に入っていた女性でした)。
この家治の乳母となったのが、前述のように松島です。しかし松島は結婚はしておらず、授乳する女性は別におりました。家治の正室・五十宮倫子女王(閑院宮直仁親王の娘)を出迎えるため寛延2年(1749)に上洛したのは、松島です。家重の時代に大奥の老女となった松島は、家治が将軍に就任(1760年)してからも老女を務めました。松島は、一橋治済(11代将軍・徳川家斉の実父)の正室となる在子女王(京極宮公仁親王の娘)を迎えるために上京していますが(1767年)、参内し後桜町天皇に拝謁。天盃を拝領しています。この時、局号を許され「松島局」が誕生するのでした。
■10代将軍・家治の乳母として大奥のトップに
筆頭老女となった松島には、その権勢を象徴するような話も伝わっています。それを載せるのが江戸時代後期の随筆『甲子夜話』です。同書の著者は肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清(号・静山)。では『甲子夜話』には松島のどのような姿が描かれているのでしょうか。
「大年寄」松島は権威を大奥に振るい、とがめる者もなかった頃のこと。松島は「素人狂言」する者らを女乗り物に乗せて、大奥に招き入れ劇場の真似をさせて楽しむことをしておりました。
ある日のこと、狂言する者らはいつものように「松島の親類」と称して、江戸城の御広敷御門を乗り物20挺で通行しようとします(もちろん、その中には松島の親類など1人もいません)。いつもならばそれで無事に通行できたのですが、その日はそうはいきませんでした。門衛の長官が依田豊前守政次という剛直な人物だったからです。政次は番の頭を呼び「松島の親類書」を持って来るように命じます。
■男子禁制の大奥に男たちを引き入れていた
親類書を見たら、松島と縁続きの女性は、わずか3人しかいないことが判明。よって政次は「女乗り物、3挺は通すべし。
さて宝暦年間(1751~1764)において、この松島に次ぐ大奥の実力者だったのが高岳です。そして明和期(1764~1772)には高岳が大奥一の実力者になったとされます。おそらく高岳はそれまでに松島の言動をよく見て、さまざまなことを学んでいたでしょう。高岳が目を付けて、関係を取り結んだのが、後に老中となる田沼意次(「べらぼう」では渡辺謙が演じた)でした。高岳は意次と手を組むことにより、大奥での権勢を保持しようとし、意次は高岳と結ぶことによって大奥の支持を獲得せんとしたのです。
意次は大奥での評判が良かったとされていますが、実力者・高岳と結んだこともその要因の1つと思われます。
■大河ドラマで冨永愛が演じた高岳の「政治力」
しかし天明6年(1786)8月に10代将軍・家治が病死すると風向きが変わってきます。将軍の死に伴い、意次は老中を辞職。そして翌年(1787年)には白河藩主だった松平定信(「べらぼう」で井上祐貴が演じる)が老中首座になるのですが、高岳は定信の老中就任に反対の意向を示します。長く「田沼派」だった高岳が、意次を蛇蝎(だかつ)のごとく嫌う定信が権力の座に就くことに反対するのは当然と言えば当然です。
定信の実の妹の種姫(紀州藩主・徳川治宝の正室)が将軍・家治の養女になっていたこと、将軍の縁者が幕政に参与すべきではないとの考えから定信の老中就任に反対したのですが、何としても定信を老中にしたくない高岳の心中が分かります。
高岳と滝川(大奥老女)は11代将軍・家斉(「べらぼう」で城桧吏が演じる)から定信の老中登用について意見を求められた際、前述のような理由で反対したのでした。9代将軍・家重の代に「将軍の縁者を幕政に参与させてはならない」との上意があり、定信が老中に就任したら、家重の上意に反することになるとして高岳らは反対したのです。家重が言う「将軍の縁者」とは「母方の親類」の意味なのですが、高岳らはそれを押し広げて、定信の登用に反対したのでした。
■松平定信が老中に就任し、老女の大崎と対面
しかし、前述したように、高岳の意向に反して歴史は動いていきます。定信が老中に就任すると高岳の手から大奥の権力は離れていくのです。
大崎は一説によると、御三卿の一橋家で家斉付きの老女として頭角を表し、家斉の将軍就任により、大奥で権勢を誇るようになったとされます。大崎は田沼寄りではありましたが、家斉の父・一橋治済(「べらぼう」では生田斗真)が反田沼であったことから、反田沼派(例えば御三家)の会合にも出向くようになったのです。
一橋治済は田沼派の将軍側近・横田準松(のりとし)を追い落とそうと画策。大崎に「準松を解任するよう取り計らってもらいたい」と依頼しますが、大崎は「このたびはそれははなはだ難しく、私にはどうすることもできません」と返答しています。「このたびは」解任は難しいと言うことは、大崎始めとする大奥の実力者は、普段から幕府人事に深く介入していたことが分かるでしょう。さて定信は老中に就任した直後、大崎と面会します。
■同格だと言う大崎、定信は「女のくせに」と激怒
その際、大崎は定信に「老中と御年寄は御同役であるので、奥向きのことは申し合わせてください」と話したとされます。それに激怒したのが定信でした。そして「大崎よ、不届きなことを申す。老中に向かい同役とは何事ぞ。大奥には老中なし。其方は老女である。頭(ず)が高い。退がれ」と言い放ったのです。
普通ならばおびえてそこで引き退るかもしれませんが、大奥の実力者で老女にまでなった大崎は違いました。怒り出し「そのように、はしたなくあしらわれては、お役目を務めることはできません。ただいま、お暇を下されたく」と反抗したのです。すると定信はここぞとばかりに「望みをかなえてやろう」と大崎を解任したと言います。
定信は大奥の予算を削減し、大奥の風紀を厳しく取り締まっていきます。しかしその定信も寛政5年(1793)に老中を解任されるのです。その要因の1つに大奥が定信に大いなる反感を持っていたことを挙げる人もおります。田沼意次は大奥にすり寄り、松平定信は大奥の実力者と衝突したわけですが、どちらの事例を見ても大奥の中の女性がたいへんな力を持っていたことが分かるというものです。
参考文献
・相賀徹夫編『図説人物日本の女性史6』(小学館)
・藤田覚『松平定信』(中央公論社)、『田沼意次』(ミネルヴァ書房)
・高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館)
・林大樹「悪役令嬢 松島局」「高岳と松島は同い年」(researchmap)
・畑尚子『大奥の権力者松島』(ミネルヴァ書房)
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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
歴史研究者
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
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(歴史研究者 濱田 浩一郎)