26歳の時に同い年の男性と結婚した現在50代の女性は6年後、実家の隣に新居を建てた。実家に母親とともに住む父親は、自分が興した運送会社を57歳で定年退職したのち、60代前半で肺炎により死線をさまよった。
あわてて禁煙したが、その後の人生はずっと病との闘いに苦しむことに――。(前編/全2回)
この連載では、「ダブルケア」の事例を紹介していく。「ダブルケア」とは、子育てと介護が同時期に発生する状態をいう。子育てはその両親、介護はその親族が行うのが一般的だが、両方の負担がたった1人に集中していることが少なくない。そのたった1人の生活は、肉体的にも精神的にも過酷だ。しかもそれは、誰にでも起こり得ることである。取材事例を通じて、ダブルケアに備える方法や、乗り越えるヒントを探っていきたい。
■再婚の父親と初婚の母親、ひと回り上の姉
九州在住の上村七香さん(仮名・50代)は、父方の祖父母と両親、姉の6人家族で育った。両親は共通の知り合いの紹介で出会い、父親が31歳、母親が29歳の時に結婚。父親は23歳の時に22歳の女性と最初の結婚をしており、女性は23歳の時に娘を出産したが、まもなく卵巣がんが判明。入退院を繰り返し、娘が小学校の低学年の頃に死去。幼い娘を抱えた父親と結婚したのが、上村さんの母親だった。

入退院を繰り返していたため、実母との生活がほとんどなかった娘は、すぐに新しい母親に懐き、12歳差の妹である上村さんをかわいがった。
「田舎の小さな運送会社を経営していた父は、従業員に慕われ、どんな場面でも中心的な役割を担い、頼りになる自慢の父でした。専業主婦の母はクールな人で、今思うと決して愛されていなかったわけではないのですが、子どもの頃は自分が愛されていないと感じるほど愛情表現が薄く、冷静で芯が強い人だったと思います」
父親の最初の妻ががんで入退院を繰り返していた頃は、祖父母が家事や姉の育児を担っていた。その後父親が再婚し、上村さんの母親が家に入ってくれたおかげで、祖父母は家事や育児から解放された。そのため、祖父母は上村さんの母親にとても感謝したという。
「私が小学校3年生の時に祖父母が立て続けに入院して、祖父が82歳で、その翌年に祖母が83歳で亡くなりましたが、当時は同級生の祖父母と比べて、『どうしてこんなに弱っているのだろう』と不思議に思っていました。でも後で、私と姉が、一回り年齢が離れているように、『祖父母も両親も、同級生より年上なんだ』ということに気がつきました」
上村さんが小2~3年の頃、仕事が忙しい父親は、夜遅くに帰宅して、朝早くに出勤してしまう。自宅ではよくタバコをくゆらせていた。母親は、入院していた祖父母に泊まり込みで付き添うことが多く、ほとんど上村さんと一緒にいられなかった。そのため、上村さんは寂しい思いをしていた。
姉は、上村さんが3歳の時に高校の寮に入っていた。上村さんにとって姉は、「夏休みや冬休みに帰ってくるお姉ちゃん」だった。

「姉と暮らした記憶が私にはなく、帰ってくるのは楽しみにしていましたが、年齢が一回りも違うと共通の話題もなく、一般的な『姉妹感』が、私にはわかりませんでした。私にとって姉は、美人で、大人で、自慢の人でした。姉のことは大好きでしたが、遠い存在だった気がします」
家族仲は悪くなかったが、父親の仕事が忙しかったため、家族で出かける先は母親の実家くらいだった。
「私が小学校低学年の時、友達の親御さんに、『お姉さんとあなたは血が繋がっていないんだよ』と言われたのですが、私はショックを受け、泣きながら母に確認した記憶があります。その時初めて腹違いの姉であることを知りました」
高校を卒業後、福岡市内で一人暮らしをしながら短大を出た姉は、会社の受付の仕事に就くと、上村さんが小6の時に結婚。父親は相変わらず仕事が忙しく、母親は姉の第1子出産後のサポートのために、福岡市内の姉の家に行ってしまったため、上村さんの中学校の入学式は1人だった。
■20歳の反発
上村さんは高校卒業後、事務系の専門学校進学のため、福岡市内で一人暮らしを始めた。やがて2歳年下の彼氏との交際が始まると、「同棲して結婚しよう!」と盛り上がる。それを知った母親は猛反対した。
「田舎の地元を離れ、誰も知っている人がいない土地での暮らしでタガが外れた私は、ずっと不足に感じていた親からの愛情を彼氏に求めました。クールだった母は、20歳そこそこで年下の彼氏と『同棲して結婚する』と騒ぐ私に、生まれて初めて声を荒らげて反論してきました。我を忘れ、体当たりで阻止しようとする母の姿に、『今さらだよ』と白けた気持ちになりました」
携帯電話のない時代。
母親が送ってきた手紙には、「自分を大切にするように」と書かれていた。その言葉は、ずっと「大切にされていない」と感じていた上村さんには響かなかった。
「私なんか必要ないでしょ? 好きにしていいでしょ? 私だってあんたたちなんか必要ないよ!」
そんな心ない言葉をぶつけた。
一方、父親は冷静に「同棲はしてみたらいいが、結婚は現時点では絶対に認めない」と猶予を与える形をとった。
上村さんは専門学校を卒業すると、定職には就かず、アルバイトで生活をする。もともとアルバイト先のお客さんとして知り合った年下の彼氏は、複数のアルバイトを掛け持ちするフリーターだった。
「考え方が幼い二人は、愛情をはき違え、結婚に憧れを抱いていただけでした。彼はギャンブル癖や借金癖があり、彼の友達から別れを勧められるほどでした」
両親への反発心からなかなか別れることができなかった上村さんだが、2年の同棲で、ようやく2人に未来がないことを認めることができた。別れを決意した上村さんが実家に電話すると、珍しく父が出た。
「もう無理だわ。別れる」
と泣きながら伝えると、
「帰ってくるか?」
と言った。
「この2年の同棲で、両親は私に興味がないわけではない、愛情がないわけではない、大切にされている……そんな当然のことを知ることができました。
同棲の2年間を経て、地元に戻った4年間。これは私の感情だけの問題なのですが、両親と3人で暮らす時間が作れたおかげで、疑うことのない家族になれたような気がします」
実家に戻った上村さんは専門学校で学んだことを活かし、父親の運送会社の事務を担当することになった。
■スープの冷めない距離
上村さんが実家に戻る少し前、父親は自身が経営していた運送会社を57歳で退職し、別の人に社長の職を譲っていた。だが、もともと人に慕われる性格の父親は、退職後も会長的な立場で仕事を続けていた。
22歳で実家に戻った上村さんは、25歳の時、友達に誘われて飲み会に参加する。
そこにいたのが将来の夫になる同い年の男性だった。2人は26歳の時に結婚し、アパートを借りて暮らし始めた。
結婚から3年後、夫は清掃管理系の会社に転職。上村さんは27歳で長男を出産。転勤のある会社だったため、長男が2歳の時に一家で地元から3時間ほどの福岡市内に移る。
実家から離れても、上村さんは元父親の会社の事務の仕事を遠隔で続け、頻繁に実家に顔を出した。
31歳の時には、次男を出産。
お盆や年末年始には、姉家族と交流した。
そんななか上村さん夫婦は、「自分たちの家を持ちたいね」という話をたびたびしていた。
何度目かの転勤で地元に戻っていたある時、家族で実家に遊びにきていた上村さんが母親や夫と家の話をしていると、父親が入ってきて、「うちの隣の土地に家を建てていいよ」と言う。
これがきっかけで新居の建築が始まり、2011年完成。実家の隣に引っ越した。
■父親を襲う肺炎
ところが、上村さんが実家の隣に引っ越した2011年の冬、71歳の父親が肺炎を起こして入院した。
「父が吸っていたタバコはタール1mgの軽いものでしたが、1日に4箱も吸うヘビースモーカーでした。60代前半で初めて肺炎で入院し、生死の境をさまよったことがきっかけで禁煙しましたが、すでに遅かったようです。67歳の頃に肺気腫と診断されたことを機に、完全退職を決めたみたいです」
父親は69歳で完全退職すると、まもなく自宅用と携帯用の酸素ボンベを使用するようになり、月に一度の通院が必要となった。その頃は、父親が自分で運転して通院していたが、71歳で再び肺炎を起こした後は、上村さんが仕事を休んで両親と共に通院した。
「子どもの頃から、家族で出かけたことがほとんどなかったので、この頃の月に一度の通院は、両親とのお出かけという、私にとっては楽しいイベントのようでした。子どもの頃は、3人で外食さえしたことがなかったので、診察が終わった後に近くのお蕎麦屋さんに行くのも楽しみの一つでした」
ところが7年後の2018年2月。

年明けから調子が悪かった78歳の父親は、日中はほとんど眠っていた。
月に一度の通院の日。車いす専用車を予約していたところ、「体調が悪すぎて病院に行きたくないから、キャンセルしてほしい」と父親。
すると車いす専用車のドライバーは、「動きたくないくらい体調が悪いなら、なおさら病院へ行くべきです」と父親を迎えに来た。
病院で主治医から、「ちょっと、数日入院して行こうか。だいぶつらいでしょう?」と声をかけられると、父親は、「お願いします」と答えた。
「あれほど入院を嫌がり、『自宅で亡くなりたい』と言っていた父が入院を受け入れたのは驚きでした。父はたぶん、『退院はできない』と覚悟を決めたのでしょう。もしかしたらこの日、病院に行かなかったら、自宅で最期を迎えていたかもしれないと、今になって思います」
父親はCOPD(慢性閉塞性肺疾患)だった。COPDとは、たばこの煙などによる慢性的な炎症で気管支が狭くなったり、肺胞が破壊されたりする病気で、息を吐き出しにくくなる「肺気腫」や「慢性気管支炎」の総称だ。
「父は、何度も肺炎になって命が危険な状態になりましたが、亡くなった原因も肺炎でした。入院するまでは何とか自分で歩いてトイレに行ったり、自分でご飯を食べたりしていました。『次、退院したら介護が始まる』と思っていましたが、余命数日と宣告され、5日後に亡くなりました」
■突然の紹介状
父親が亡くなった年の秋。血圧の薬の処方で通院していた母親(76歳)が、突然紹介状をもらってきた。
「当時はまだ母1人で通院していましたし、私から見て母に不調はなかったので、『なんでだろう?』と思いました」
後日、紹介された循環器内科を上村さんと共に受診すると、母親はペースメーカーを入れる手術を受けることになった。
12月。母親は手術入院し、10日後に退院。
そして2019年1月。何も不調が見当たらなかった母親が体調不良を訴え、「病院に連れて行ってほしい」「点滴を受けたい」などと言い始める。上村さんは新年早々、病院の仕事始めを待って、母親を連れて行った。
「母はどこも悪いところはなく、点滴をするのみ。でも、食欲不振や睡眠障害、夜間頻尿を起こすようになり、手の震えもひどく、私はペースメーカー手術が原因ではないかと疑い始めました」
(以下、後編に続く)

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)

ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー

愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。

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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
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