■愛子さまが参加した「第50回 愛馬の日」
女性皇族のイメージとして、「お手振り」ということが極めて重要である。私は最近、そのことに改めて思い至った。
世田谷区上用賀にある馬事公苑では、毎年秋分の日には「愛馬の日」と名づけられ、伝統の流鏑馬(やぶさめ)をはじめ馬にかかわるさまざまなイベントが開かれる。
2025年の愛馬の日は、50回目の記念の年を迎えた。馬事公苑を運営するのは日本中央競馬会(JRA)であり、若い人々に馬の文化の魅力を伝えたいということで、愛子内親王が馬事公苑を訪れたのだ。
私の家から馬事公苑までは歩いて20分ほどの距離である。世田谷区からは事前に、愛子内親王が9月23日午後2時からメインアリーナで行われる「ドリームホースショー」に臨席するということが伝えられていた。愛馬の日には毎年馬事公苑を訪れていることもあり、その時刻に合わせて出掛けてみることにした。
馬事公苑は、幻になった1940年の東京オリンピックのため、馬術選手の育成を目的として開設されたものである。1964年と2021年のオリンピックでは、馬術競技の会場となった。
その21年のオリンピックのために馬事公苑は全面改修となり、23年11月に再開苑にこぎつけた。
■1000人近くに及んだ愛子さまを迎える人々
そのため、馬事公苑の入口では荷物検査が行われていた。検査を終えて苑内に入ってみると、すぐ右手にあるメインオフィスの手前には多くの人が群がっていた。
ざっと数えてみると、その数は1000人近くに及んでいた。愛子内親王の到着を待ちわびる人たちである。
私もその中に紛れ込んだ。時刻は午後1時前のことで、愛子内親王が到着したのは2時近くになっていた。あいにく私が立っていたところの前には立ち木があり、愛子内親王の姿は見えなかった。それでも、メインオフィスの玄関の近くに立っていた人たちが、スマホを掲げて写真を撮り、手を振りはじめたことから、到着した愛子内親王が玄関先で「お手振り」をしていることはわかった。その光景は報道もされているし、その光景を目撃したどなたかのインスタにもあがっていた。
近くにいた年配の婦人は、友人と思われる女性に対して、「美智子様が来られた時は、ここの道を通って歩いていかれたのよ」と語っていた。いったいそれがいつのことなのかはわからないが、その婦人は、熱心な皇族ファンで、愛子内親王の到着を待ちわびていたのかもしれない。
■馬たちも愛子さまに挨拶をした
私はその後、メインオフィスの前にあるメインアリーナに移動したが、アリーナの席はすべて埋まっていて、立っている人たちも多かった。メインオフィスの真向かいには、アリーナを隔ててインドアアリーナがあるが、その2階部分にも人が群がっていた。
メインアリーナは3階建てで、1階部分が売店と子どもたちが遊ぶ場所、2階がカフェレストランになっている。アリーナから見上げてみると、3階部分に白いテーブルクロスを敷いた机が置かれていた。その横には、テレビのクルーがいて、カメラをその机のほうに向けていたので、そこに愛子内親王が座ることは間違いなかった。
ショーがはじまるまでのあいだ、アリーナにつめかけた観客の視線は、一斉にその机のほうに向けられていた。愛子内親王は2時になる寸前に姿を現したが、彼女を見つめる観客に一礼すると、「お手振り」をした。観客も、それに手を振って応えていた。私も、その時初めて愛子内親王の実際の姿に接した。
愛子内親王の座った所の前にはガラスがあり、下からはその姿があまり見えないこともあり、いざショーがはじまると、観客の視線もショーのほうに集中していた。ただ、ショーに登場した馬たちも演技が終わると、愛子内親王に向かって挨拶をしていた。
■見事な馬事芸能による大団円
ショーの最後は、「母衣引(ほろひき)」と呼ばれる伝統的な馬事芸能で、それを実演したのは宮内庁主馬班の職員だった。
他にも、別の会場では、やはり宮内庁主馬班による「打毬(だきゅう)」が行われるのも、愛馬の日の恒例になっている。これは、ポロと起源を同じくする馬術競技である。そちらは、愛子内親王は見学しなかったようだ。
ショーが終わると、愛子内親王はまた「お手振り」をして退席した。その後、インドアアリーナのほうで、地元の弦巻(つるまき)騎道スポーツ少年団の中高生や、パリ五輪の総合馬術団体で銅メダルを獲得した戸本一真(かずま)選手による障害馬術を視察しているが、こちらの光景を、一般客は見ることができなかった。
■皇族による「お手振り」の重要性
宮内庁が、古来伝わる馬事芸能を保存しているところに見られるように、皇室と馬術との関係は深い。日本馬術連盟の名誉総裁は、常陸宮の華子妃である。上皇も8歳から乗馬の経験があり、学習院高等科では馬術部の主将を務めていた。
愛子内親王も幼い頃から御料牧場で馬と親しんでおり、乗馬の経験もある。その点では、愛馬の日の馬事公苑訪問を、愛子内親王がとても楽しみにしていたことは十分に頷ける。
それにしても、今回のことを通して私は、国民の間に愛子内親王の人気がいかに高いものであるかを実感した。そして感じたのは、天皇や皇族による「お手振り」の重要性である。
私はこれまでに2度ほど新年の一般参賀に参加したことがあり、その際には、天皇がマイクを通して「おことば」を述べることになっている。だがそれは1982(昭和57)年の一般参賀からのことで、それ以前は、バルコニーから「お手振り」をするだけだった。それでも、参賀に訪れた一般国民は、無料で配られる日の丸を振って、それに応えていたのだ。
■昭和天皇の「戦後巡幸」がはじまり
天皇や皇族は、宮殿のバルコニーからだけではなく、列車や車の中から、沿道の人々に向かって「お手振り」をする。手を振るという行為は、皇室と国民とをつなぐ上で極めて重要な役割を果たしている。
しかも、そうした慣習が生まれたのは、戦後になってからである。そのはじまりは、昭和天皇が戦後すぐに行った「戦後巡幸」にある。昭和天皇は日本各地で「お手振り」をした。それは、戦争で疲弊した国民を励ますために行われたもので、天皇と国民と距離を縮める役割も果たすこととなった。
それまでは、天皇が一般国民の前に姿を現すということ自体がほとんどなかった。
■皇太子ご成婚パレードのお手振り力
戦後巡幸以降、私たちは天皇や皇族が国民に向かって「お手振り」をする光景に幾度となく接してきた。特に印象に残っているのは、なんといっても戦後二度の「ご成婚」時のパレードである。
現在の上皇(当時は皇太子)夫妻と天皇夫妻のパレードを比較してみると、美智子上皇后は時折「お手振り」はするものの、むしろ手を振り続けていたのは上皇のほうだった。それも、上皇后はショールを羽織っていて、それを手で押さえていたからである。
それに対して、天皇(当時は皇太子)夫妻の場合、どちらも「お手振り」を続けていた。雅子皇后はショールを羽織ってはいなかった。白い手袋をして、手前に映っていることが多かったため、皇后が「お手振り」をする姿が強く印象に残った。天皇は手袋をしていないので、どうしても皇后の手が目立つのだ。
天皇や皇族が国民に向かって「お手振り」をする光景は、戦後の「開かれた皇室」というあり方を象徴するものになっている。国民の中には、それで励まされたと感じる人たちも少なくないであろう。
愛子内親王の場合、皇室に生まれたわけだから、幼い頃から国民に向かって「お手振り」をする経験を数多く重ねてきた。
それから20年以上の月日が流れ、公務の機会が増えることで、愛子内親王の「お手振り」の機会も格段に多くなってきた。これは、皇族の務めとして極めて重要なものになってきている。
■実現されない内親王のご成婚パレード
悠仁親王も、成年式を終えた報告のために伊勢神宮を訪れた時の「お手振り」がかわいいと評判になった。成年皇族として公務が増えれば、そうしたことが話題になる機会も増えていくであろう。
ただ、悠仁親王が将来において結婚した場合、パレードが行われるかどうかは未知数である。というのも、皇太子の結婚であれば、正式にパレードが行われるであろうが、悠仁親王がその立場になる可能性は極めて低いからである。秋篠宮の場合も、「ご結婚の儀」が執り行われた後、車列で新居に向かう間のことがパレードとして報道はされたものの、皇太子夫妻のパレードのような正式なものではなかった。
となれば、悠仁親王が配偶者とともにパレードを行い、その際の「お手振り」が大々的に報道されることはないであろう。そこにも、悠仁親王の曖昧な立場が示されている。
ただ、国民が本当に見たいと望んでいるのは、愛子内親王の「ご成婚パレード」かもしれない。これは、現在のところはあり得ない。内親王が結婚し、パレードに臨むことはないからだ。
しかし、もし愛子内親王が次の天皇ということになっていれば、その点は大きく変わっていたはずだ。パレードの車にどういった男性が同乗するかは予想もできないが、パレードで愛子内親王が白い手袋で「お手振り」する姿が、国民から熱く迎えられることは間違いない。その日を待ち望んでいる人たちも少なくないに違いない。
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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。
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(宗教学者、作家 島田 裕巳)