朝ドラ「ばけばけ」(NHK)で髙石あかりが演じるトキは、明治維新直後の島根で“武士の娘”として育ったセツがモデル。歴史家の長谷川洋二さんは「セツは父・稲垣金十郎の事業の失敗で小学校を中退。
飛び級するほど優秀だっただけに不本意で、1週間泣き続けた」という――。
※本稿は、長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の一部を再編集したものです。ドラマ「ばけばけ」(NHK)のネタバレが含まれます。
■稲垣家の父は商売を始め、詐欺に引っかかる
稲垣家の当主・金十郎が家禄奉還出願者の列に加わったのは、セツ満7歳の明治8年(1875)4月のことである。しかし、彼は、実業の世界で士族の例外的な成功者になるには、あまりに気が良く、あまりに善良であり、すぐにも狡猾(こうかつ)で薄情な手合の詐欺にかかった。そして、稲垣家もまた、家禄奉還による資金を失い、祖母橋(ばばばし)脇の先祖代々の屋敷を明け渡さなければならないことになった。
セツが8歳の時、稲垣一家は城下なる内中原町を去り、四十間堀という外堀を西に越えた中原町(なかばらちょう)に居を移した。ここは城下町の西南の外れに当たり、家もまばらで田舎の気配の漂う所である。家のすぐ北側に大雄寺川(だいおおじがわ)という小さな川が流れていた。セツは、入学して一年にもならない小学校へも通えず、今や、この慣れない土地での孤独な少女となったのである。
彼女は所在なさに、その小さな川の岸に出て一人淋しく笹舟を浮かべて遊び、ほとんど半日も岸の柳の幹にもたれて、水中を往来する小さな魚の群れを眺めて暮らすようになった。こうした折には、よく向こう岸で釣人が糸を垂れ、とぎれとぎれの低い声で安来節を歌っていた。

■跳び級するほど勉強好き、小学校の優等生
セツが9歳になる少し前に、宍道湖(しんじこ)に臨む土手に2階建ての大きな中原小学校の校舎が完成し、セツもここに通うようになっていたが、11歳の年の6月、義務教育と定められていた小学下等教科を卒業したところで、セツは学校から下げられることになった。日々の生活費に事欠くようになった稲垣家にとって、これ以上セツを学校に通わせる余裕がなかったからである。
学校が大好きであったセツには耐え難かった。学校で良い成績がとれるのが、彼女にとっては何よりもうれしかったからである。それに、セツは1年間のうちに、6級と5級の修了試験に合格した後、実力を認められた子供たちが受ける跳(飛)び級試験で、2級修了試験に合格し、さらに、4カ月後の3月には、最後の1級修了試験に合格するといった進級ぶりであった。小学校下等教科の課程の卒業を決める、この3月の「試験」は、県の役人が立ち合い、父母たちの見守る緊張の中で行われた。セツは、その試験の準備のために熱心に夜も学校に通って、「温復」と呼んだ復習の授業を受けたり、天神様の社(やしろ)に合格祈願のお参りをしたりしたのである。
■11歳で小学校を中退、セツは1週間泣き続けた
「大試験」に合格しても、小学校から下げられると知ってセツは悔しかった。それほど勉強に熱心でない同級生でも、小学校の上等教科に進んで、もう4年も学校に通えるのだ。それに、前の年の9月には松江女子師範学校が設立されて、女の子にも上等教科卒業後、その上の学問ができるような道が開かれたのである。11歳のセツには、貧乏の何たるかを真に理解することができなかった。彼女は泣きに泣いた。
1週間も泣き続けたのである。女の子に学問は要らない、かえって害になる、と言ってセツをなだめようとした大人に、彼女は紫式部や清少納言の例を引いて言い返し、悔しがるのであった。
セツが卒業した明治12年(1879)における、島根県の下等教科の修了者数は、同教科の児童総数の5パーセントにも満たない。そのために県は、卒業に達した者に賞を与えたのである。
さらに、女の子について言えば、明治11年に中原小学校で実際に登校していた児童のうち、女の子はその2割強に過ぎず、また島根県全体で、セツとともに下等教科を卒業した女児は、その年に卒業した児童全体の9パーセントに満たない220人であった。それだけに、セツがいかに学校が好きで、上等教科への進学を切望していたか、そして、いかに学校から下げられるのを嘆き悲しんだかが分かる。
■堤真一演じる傳のモデル、小泉湊の機織工場へ
しかし、セツの持って生まれた気丈な性格は、いつまでも身の不幸を嘆いていることを許さなかった。学校で一生懸命であったのと同じように、今度は一生懸命に働いたのである。40になろうとしていた金十郎は、新時代の厳しい現実に適応することができなかった。人の良過ぎた彼には、粗暴な世間の苦杯を喫した後、生活のために奮闘することが困難であった。
まして、もう60歳を越えていた祖父の万右衛門に、何が期待できたであろう。彼の古い侍気質が、金銭を得るために役立つはずもなかったからである。

だから、家族の生計は、いつも変わらぬ働き者の母トミが、他人の縫物をして手にする少々の金と、セツが稼かせいでくるものとにかかっていたのである。
小泉湊は、強固な性格の持ち主であり、当時のいわゆる「奮発家」でもあって、明治8年に現米年32石の家禄のうち、20石分を奉還して得た資金と、2年後に家禄撤廃の代償として下付された金禄公債を巧みに活用し、やがて機織の会社を興した。士族の子女を集めて機(はた)を織らせるこの会社は、最初は順調で、出来た反物は広く大阪方面まで売りさばかれた。セツは今や、この小泉湊の会社で機を織る士族の娘の一人として、少女時代から娘時代へと成長していったのである。
■賃働きに明け暮れながらも伝統文化を学んだ
(セツの長男である)一雄は小泉湊について、「士族の家禄奉還後といへども、社会的大変革に順応して機業の会社を設立し、自ら社長となり、旧藩士の娘たちを集めて機を織らせ、出来た反物は大阪方面に売捌(うりさば)いた」と記し(「亡き母を語る」)、セツはここで機を織ったが、この会社は後には失敗し、湊は明治20年に没する前には、門長屋に住まう身となった、としている。また、セツの生前に『小泉八雲』を書いた田部隆次をはじめ、セツの少女時代に触れた多くの著者が、セツが実父の会社で機を織ったと書いているのである。
確かに、セツは、賃働きに明け暮れる生活を送っていた。そして精を出した機織の仕事が、彼女の脚を太くもし、彼女の手からしなやかさを奪いもした。それに、手習いの時間がとれずに、後々までも、自分の筆跡を恥じなければならないことにもなった。
しかし、その一方でセツは、生け花と茶の湯の基本を身につけている。そのうち、茶道は、不昧の雅号で知られる、出雲松平家七代目の藩主治郷(はるさと)が、自ら石州流(せきしゅうりゅう)不昧派の祖としてこの道に打ち込んで以来、松江の多くの人々の嗜(たしな)みとなり、広く松江人の趣味を洗練させたものであった。
セツの素養は、茶華道に限られなかった。
彼女は、日本の造園・美術・音曲といった伝統的芸術に一定の眼識を持つようになったし、着物・調度品・室内装飾など、日本の伝統的な生活文化の諸方面に、相当に洗練された感覚を身につけもした。もちろん彼女は、そうした嗜みや生活文化の感覚が、未来の夫の日本文化への理解に役立つことになろうとは、夢にも思わなかったのである。

----------

長谷川 洋二(はせがわ・ようじ)

歴史家

1940年新潟市生まれ。新潟大学人文学部で史学を専攻、コロンビア大学のM.A.学位(修士号1974)、M.Ed.学位(1978)を取得。一時期会社員、前後して高等学校教諭(世界史担当)。著書に『小泉八雲の妻』(松江今井書店、1988年)、その改定版となる『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)、『A Walk in Kumamoto:The Life & Times of
Setsu Koizumi, Lafcadio Hearn’s Japanese Wife』(Global Books, 1997)、『わが東方見聞録―イスタンブールから西安までの177日』(朝日新聞社)がある

----------

(歴史家 長谷川 洋二)
編集部おすすめ