明治期の島根・松江を舞台にした朝ドラ「ばけばけ」がはじまった。ヒロイン松野トキ(髙石あかり)の父・司之介(岡部たかし)は“無職の元武士”として描かれている。
■働かない“元武士”の父親
小泉セツと小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)をモデルとした髙石あかり主演のNHK連続テレビ小説(通称「朝ドラ」)「ばけばけ」は、明治初期の松江を舞台に、没落士族の娘と異国の英語教師の出会いを描くものだ。
初回放送では、オープニング(主題歌)に入る前のアバンタイトルで、結婚後にトキ(髙石)とヘブン(トミー・バストウ)が怪談を語る様子を紹介。その後にトキの少女時代に戻って物語は始まった。
明治8(1875)年。松江市に暮らす松野家の家族は人々が寝静まった深夜、一家そろって憎い相手に呪いがかかるよう祈願する「丑の刻参り」をしていた。父・司之介(岡部たかし)はすごい形相でろうそく3本を頭にとりつけ、自ら藁人形を手にとって木に打ちつけている。
司之介は「この理不尽極まりない苦難の時代を乗り越えようと、一家そろって世を恨み、丑の刻参りをする。最高の夜じゃ」と話す。しかし妻のフミ(池脇千鶴)は「最高ではないと思いますが……」と渋い顔。祖父の勘右衛門(小日向文世)も「どちらかと言ったら最低の夜じゃろ」という。
翌日、登校したトキはたまたま様子を目撃した同級生にからかわれ、父親が働いていないことをバカにされる。教室にやってきた教師も武士身分を失った人々は既に新しい仕事についていると渋い顔だ。
既に明治維新から8年、トキの父がニート同然なのはどういう背景があったのだろう。
■幕末を生き抜いた実父と養父
父・司之介のモデルは、セツの父親・稲垣金十郎だと考えられる。
実の父ではない。養父である。八雲とセツの息子・一雄が記した『父小泉八雲』(1950年小山書店)によれば、セツの実父は小泉常右衛門湊といい、出雲松江藩松平家で代々番頭役を務め500石の家禄を得ていた。
実母のチエは家禄1400石の家老職・塩見家の長女であった。セツにとっては祖父にあたる塩見増右衛門は、時の松江藩9代目松平斉貴の放蕩を咎めるべく三度諫言し、三度目には陰腹を切って諫死したことで歴史に名を残している。
そんな生まれのセツが養女に貰われた先の稲垣金十郎とトミの夫婦は家禄100石。実家に比べると随分と乏しいように見えるが、小泉家とは縁戚関係。今度子供が生まれたら、男女に拘わらず貰うというのが約束であった。
こうして生まれた直後のお七夜には稲垣家に養女として貰われたセツであったが、縁戚とはいえ格式の高い家から貰った子供なのでセツを下にも置かなかった。一雄は稲垣家では、母は「おジョ」と呼ばれ愛育されていたと記している。おジョとはお嬢の略である。
■松江藩の没落と元武士たちの窮状
この金十郎という男、養女を貰うのだから既に老境に入った男を想像してしまうが、この時はまだ26歳。100石だから抱える家来は2人ほどの中堅の身分で、いたって気のいい男だった。
幕末の動乱期には、京都警備の任についたがその時も緊迫している空気など気にせず、家来に好物の菓子を買いに行かせていた。この時、鳥羽・伏見の戦いに参加しているのだが、その時の様子を何度も子供たちに語って聞かせる好人物であった。
その妻のトミも何事につけて器用な人物であった。ちなみに、セツが養女に入った時には、まだ金十郎の父母も生きていて、稲垣家は本当に心のそこから、セツを可愛がったようだ。
ところが、明治維新を迎えて生活は大きく変わる。松江藩は親藩だったが、大政奉還後もどっちつかずの対応を取っていたために新政府から不興をかった。結局、新政府側に与した松江藩だったが、時既に遅く新政府からの扱いは、敗軍と変わらなかった。
新政府の要人たちとの関係を持つ者はほとんどおらず、武士たちが新体制で新たに職を得ることは困難だった。足軽の家の出で二度にわたって首相を務めた若槻禮次郎は、例外的な存在である。
松江藩の士族の零落は激しく、江戸時代には藩の重臣たちの屋敷が並び「殿町」と呼ばれていた街の中央区に「よれもん町」という貧民窟ができた。かつての武士が行き場を失い、そこで道行く人に施しを求めていたのである。
■善人だった養父、詐欺にあう
当然ながら、稲垣家も零落していた。維新後に家臣団の家禄は軒並み下げられ、稲垣家は年32石となっていた。もとの100石から3分の1あまり下げられたのだが、とても暮らせない。ほかの士族と同じく、家来や奉公人に暇をやって、家宝の品々を売り払って生活するしかなかった。
そこで新政府は、士族に就業の資金を与えるため家禄の奉還と引き換えに6年分の支給額を一括して下付することを決めた。全国津々浦々で、これを元手になれない商売に手を出して失敗するものが出たのが「士族の商法」というやつである。
金十郎も、じっとしているのに絶えかねて明治8年に家禄奉還を得ている。
働かないのではない。時代の変化に彼は絶望していたのである。
孫の一雄はこの善良な祖父のことをかなり詳細に書いている。
「母の養父雲峰院殿は稍(やや)覇気に乏しい善良な人であった。詐欺にかかった上に相手が悪辣極まる奴で逆に無実の罪を着せられ、数年後には晴天白日の身とはなったものの、裁判費用で財産をことごとくなくし、日常の生活費にも事欠くの有様となった。この為、母も学校を早く止めさせられ家事を手伝いさせられた」
明治の裁判記録を調べると、司法省の『大審院刑事判決録』明治14年4月分に金十郎の名前がみえる。これによれば、金十郎は負債に喘いでいた人物に頼まれて、債務整理のために土地・山林などを名義上引き受けた。ところがこの人物は、名義が移ったにも関わらず、山林を自分のもののように伐採をしていた。これを金十郎が咎めると「稲垣金十郎は勝手に売買契約証書を作った」と訴えたのだ。
これに対して金十郎は無罪を主張すると共に「自分が買い受けた土地の権利書をきちんと書き換えろ」と反訴している。
これに対して、松江裁判所は債務者(原告)の訴えを退け、盗伐と虚偽告訴を認定した。
金十郎が無実だということは確定したわけだが、裁判は判決までに一年あまりかかっている。ようは負債を引き受けた挙げ句に、裁判費用までがふりかかり家屋敷まで失ってしまったのだ。
現代でいえば、何度も頭を下げられて、断ることができずに連帯保証人になって財産を失うようなものだ。これでは、劇中で丑の刻参りでうさを晴らしたくなるのは当然である。むしろ、そんな男にさっさと働けとかいっている先生のほうが血も涙もないのかとさえ思ってしまう。
■「肩身の狭さ」に苦しんだ
それでも、まだ雨風をしのげる家を確保できていたのだから、金十郎はましな方かもしれない。セツが8歳の時、屋敷を失った一家は城下町の西のはずれにある中原町に居を移している。
決して大きくない家に、別の家族が居候したこともある。それはセツが10歳になった明治11年の春のことだ。高浜家という親戚の一家8人が身を寄せたのだ。
この高浜家というのは、千家家と出雲大社の宮司職をわけてきた北島家の分家である。ようは出雲では名門中の名門だ。高浜家は、釜の上官と呼ばれ、代々大社の祭礼や儀式の重要な役割を担ってきた。
ところが、そんな名家も明治維新と共に終わった。明治5年に神社制度改正令が交付されると、こうした世襲の神官は職を解かれてしまったのだ。こうして困窮した一家は親類筋の稲垣家に身を寄せたというわけだ。
出雲大社の神官を務めた名家すら、明治の荒波に飲まれて零落する。この事実こそが、当時の松江の元武士階級が置かれた悲惨な状況を如実に物語っている。
■丑の刻参りに感じた「怪異への親しみ」
それでは、なぜ脚本家のふじきみつ彦は、稲垣家のこうした悲惨な状況をドラマで描かなかったのだろうか。
ドラマでは松野家は確かに没落士族として描かれているものの、丑の刻参りはどこかコミカルで、家族の絆を感じさせる演出になっている。父・司之介も「最高の夜じゃ」と前向きで、深刻な経済的困窮や詐欺被害、裁判沙汰、さらには親戚一家8人が居候するといったエピソードは一切出てこない。一方で、丑の刻参りには「怪異への親しみ」を家族の個性として描くことで、後の物語に生かそうという意図が見て取れる。
余談だが、松江市のタテチョウ遺跡からは、人を呪う目的で使われたと考えられる人形代が出土している。果たして、古代からの伝説の地を舞台に物語はどう展開していくのか。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)
史実は一体どうだったのか。ルポライターの昼間たかしさんが、朝ドラでは語られない史実をひもとく――。
■働かない“元武士”の父親
小泉セツと小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)をモデルとした髙石あかり主演のNHK連続テレビ小説(通称「朝ドラ」)「ばけばけ」は、明治初期の松江を舞台に、没落士族の娘と異国の英語教師の出会いを描くものだ。
初回放送では、オープニング(主題歌)に入る前のアバンタイトルで、結婚後にトキ(髙石)とヘブン(トミー・バストウ)が怪談を語る様子を紹介。その後にトキの少女時代に戻って物語は始まった。
明治8(1875)年。松江市に暮らす松野家の家族は人々が寝静まった深夜、一家そろって憎い相手に呪いがかかるよう祈願する「丑の刻参り」をしていた。父・司之介(岡部たかし)はすごい形相でろうそく3本を頭にとりつけ、自ら藁人形を手にとって木に打ちつけている。
司之介は「この理不尽極まりない苦難の時代を乗り越えようと、一家そろって世を恨み、丑の刻参りをする。最高の夜じゃ」と話す。しかし妻のフミ(池脇千鶴)は「最高ではないと思いますが……」と渋い顔。祖父の勘右衛門(小日向文世)も「どちらかと言ったら最低の夜じゃろ」という。
翌日、登校したトキはたまたま様子を目撃した同級生にからかわれ、父親が働いていないことをバカにされる。教室にやってきた教師も武士身分を失った人々は既に新しい仕事についていると渋い顔だ。
既に明治維新から8年、トキの父がニート同然なのはどういう背景があったのだろう。
■幕末を生き抜いた実父と養父
父・司之介のモデルは、セツの父親・稲垣金十郎だと考えられる。
実の父ではない。養父である。八雲とセツの息子・一雄が記した『父小泉八雲』(1950年小山書店)によれば、セツの実父は小泉常右衛門湊といい、出雲松江藩松平家で代々番頭役を務め500石の家禄を得ていた。
実母のチエは家禄1400石の家老職・塩見家の長女であった。セツにとっては祖父にあたる塩見増右衛門は、時の松江藩9代目松平斉貴の放蕩を咎めるべく三度諫言し、三度目には陰腹を切って諫死したことで歴史に名を残している。
そんな生まれのセツが養女に貰われた先の稲垣金十郎とトミの夫婦は家禄100石。実家に比べると随分と乏しいように見えるが、小泉家とは縁戚関係。今度子供が生まれたら、男女に拘わらず貰うというのが約束であった。
こうして生まれた直後のお七夜には稲垣家に養女として貰われたセツであったが、縁戚とはいえ格式の高い家から貰った子供なのでセツを下にも置かなかった。一雄は稲垣家では、母は「おジョ」と呼ばれ愛育されていたと記している。おジョとはお嬢の略である。
■松江藩の没落と元武士たちの窮状
この金十郎という男、養女を貰うのだから既に老境に入った男を想像してしまうが、この時はまだ26歳。100石だから抱える家来は2人ほどの中堅の身分で、いたって気のいい男だった。
幕末の動乱期には、京都警備の任についたがその時も緊迫している空気など気にせず、家来に好物の菓子を買いに行かせていた。この時、鳥羽・伏見の戦いに参加しているのだが、その時の様子を何度も子供たちに語って聞かせる好人物であった。
その妻のトミも何事につけて器用な人物であった。ちなみに、セツが養女に入った時には、まだ金十郎の父母も生きていて、稲垣家は本当に心のそこから、セツを可愛がったようだ。
ところが、明治維新を迎えて生活は大きく変わる。松江藩は親藩だったが、大政奉還後もどっちつかずの対応を取っていたために新政府から不興をかった。結局、新政府側に与した松江藩だったが、時既に遅く新政府からの扱いは、敗軍と変わらなかった。
出遅れた結果として、もっとも大きかったのは縁故の欠如である。
新政府の要人たちとの関係を持つ者はほとんどおらず、武士たちが新体制で新たに職を得ることは困難だった。足軽の家の出で二度にわたって首相を務めた若槻禮次郎は、例外的な存在である。
松江藩の士族の零落は激しく、江戸時代には藩の重臣たちの屋敷が並び「殿町」と呼ばれていた街の中央区に「よれもん町」という貧民窟ができた。かつての武士が行き場を失い、そこで道行く人に施しを求めていたのである。
■善人だった養父、詐欺にあう
当然ながら、稲垣家も零落していた。維新後に家臣団の家禄は軒並み下げられ、稲垣家は年32石となっていた。もとの100石から3分の1あまり下げられたのだが、とても暮らせない。ほかの士族と同じく、家来や奉公人に暇をやって、家宝の品々を売り払って生活するしかなかった。
そこで新政府は、士族に就業の資金を与えるため家禄の奉還と引き換えに6年分の支給額を一括して下付することを決めた。全国津々浦々で、これを元手になれない商売に手を出して失敗するものが出たのが「士族の商法」というやつである。
金十郎も、じっとしているのに絶えかねて明治8年に家禄奉還を得ている。
ところが、元来善良だった金十郎は、たちまち詐欺にかかって資金を失い、屋敷まで失った。
働かないのではない。時代の変化に彼は絶望していたのである。
孫の一雄はこの善良な祖父のことをかなり詳細に書いている。
「母の養父雲峰院殿は稍(やや)覇気に乏しい善良な人であった。詐欺にかかった上に相手が悪辣極まる奴で逆に無実の罪を着せられ、数年後には晴天白日の身とはなったものの、裁判費用で財産をことごとくなくし、日常の生活費にも事欠くの有様となった。この為、母も学校を早く止めさせられ家事を手伝いさせられた」
明治の裁判記録を調べると、司法省の『大審院刑事判決録』明治14年4月分に金十郎の名前がみえる。これによれば、金十郎は負債に喘いでいた人物に頼まれて、債務整理のために土地・山林などを名義上引き受けた。ところがこの人物は、名義が移ったにも関わらず、山林を自分のもののように伐採をしていた。これを金十郎が咎めると「稲垣金十郎は勝手に売買契約証書を作った」と訴えたのだ。
これに対して金十郎は無罪を主張すると共に「自分が買い受けた土地の権利書をきちんと書き換えろ」と反訴している。
これに対して、松江裁判所は債務者(原告)の訴えを退け、盗伐と虚偽告訴を認定した。
しかし債務者は不服として上告し、裁判は大審院にまで持ち込まれた。大審院は明治14年4月26日、松江裁判所の判断を支持し、原判決を確定させた。
金十郎が無実だということは確定したわけだが、裁判は判決までに一年あまりかかっている。ようは負債を引き受けた挙げ句に、裁判費用までがふりかかり家屋敷まで失ってしまったのだ。
現代でいえば、何度も頭を下げられて、断ることができずに連帯保証人になって財産を失うようなものだ。これでは、劇中で丑の刻参りでうさを晴らしたくなるのは当然である。むしろ、そんな男にさっさと働けとかいっている先生のほうが血も涙もないのかとさえ思ってしまう。
■「肩身の狭さ」に苦しんだ
それでも、まだ雨風をしのげる家を確保できていたのだから、金十郎はましな方かもしれない。セツが8歳の時、屋敷を失った一家は城下町の西のはずれにある中原町に居を移している。
決して大きくない家に、別の家族が居候したこともある。それはセツが10歳になった明治11年の春のことだ。高浜家という親戚の一家8人が身を寄せたのだ。
この高浜家というのは、千家家と出雲大社の宮司職をわけてきた北島家の分家である。ようは出雲では名門中の名門だ。高浜家は、釜の上官と呼ばれ、代々大社の祭礼や儀式の重要な役割を担ってきた。
ところが、そんな名家も明治維新と共に終わった。明治5年に神社制度改正令が交付されると、こうした世襲の神官は職を解かれてしまったのだ。こうして困窮した一家は親類筋の稲垣家に身を寄せたというわけだ。
出雲大社の神官を務めた名家すら、明治の荒波に飲まれて零落する。この事実こそが、当時の松江の元武士階級が置かれた悲惨な状況を如実に物語っている。
■丑の刻参りに感じた「怪異への親しみ」
それでは、なぜ脚本家のふじきみつ彦は、稲垣家のこうした悲惨な状況をドラマで描かなかったのだろうか。
ドラマでは松野家は確かに没落士族として描かれているものの、丑の刻参りはどこかコミカルで、家族の絆を感じさせる演出になっている。父・司之介も「最高の夜じゃ」と前向きで、深刻な経済的困窮や詐欺被害、裁判沙汰、さらには親戚一家8人が居候するといったエピソードは一切出てこない。一方で、丑の刻参りには「怪異への親しみ」を家族の個性として描くことで、後の物語に生かそうという意図が見て取れる。
余談だが、松江市のタテチョウ遺跡からは、人を呪う目的で使われたと考えられる人形代が出土している。果たして、古代からの伝説の地を舞台に物語はどう展開していくのか。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)
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