■ひなびた温泉地が、世界有数の名所に
桑野和泉さんが社長を務めている玉の湯は大分県の由布院温泉にある。玉の湯は1953年、禅寺の保養所として大分県の由布院に開設された。当時、由布院は有名ではなかった。すぐ近くに有名温泉地の別府があったからだ。
別府の陰に隠れた、ひなびた温泉地だったのである。1971年、桑野さんの父親、溝口薫平氏たちがドイツの温泉地を視察し、由布院を静かな保養温泉の郷とすることを決めた。その結果、世界に知られる人気温泉地Yufuinとなり、今やインバウンド客が押し寄せるようになったのである。
玉の湯は敷地面積が3000坪、全室離れの客室が16棟ある。桑野さんは父親の跡を継いで2003年から社長を務めている。
温泉旅館の接待について、彼女の総論はこうだ。
「私はふたつのことだけ気を付ければ温泉旅館での接待はうまくいくと思います」
■旅館の本質とは、食事でも温泉入浴でもない
「ひとつは旅館の使い方が上手なお客さまの楽しみ方を真似ることです。私が知る限り、うちの常連のお客さまは、みなさん、昼寝をされます。到着して、温泉に入リ、浴衣に着替えたら、ばたん、グーと寝てしまう。昼寝から起きて散歩をして、汗を流したら、また、ばたん、グー。夕食までの間に2度くらい、寝ている方もいます。私が見ていても気持ちよさそうです。温泉に入ると、おだやかになってよく眠れるのでしょう。温泉旅館のそういった使い方を接待する相手の方に教えてあげればいいのではないでしょうか。温泉旅館のいちばんのサービスはやすらぎです。ぐっすり眠るための場所なんです。
ふたつめは仲居さん、料理人などうちの従業員を味方にすることです。旅館で働く従業員はうちだけではなく、みんな『お客さまのために、何かお役に立ちたい』と思って働いています。
桑野さんの話はどちらも重要だ。旅館の本質とは食事、温泉入浴ではない。旅館は眠るための場所だ。温泉、食事は眠るための装置で、いい旅館ほど部屋のインテリア、寝具、照明を研究して質のいいものを用意している。つまり、旅館の本質はぐっすりと眠ることだから、接待の際は「眠ることを楽しんでください」と伝えることだ。加えて部屋、寝具、照明について説明するといい。そして、翌朝、「どうですか。ちゃんと眠れましたか?」と聞く。
■相手をもてなすために「仲居」を味方につける
従業員を味方にすることも忘れてはならない。それはホテルのベルスタッフと旅館の仲居は役割が違うからだ。
桑野さんの話はどちらも温泉旅館のサービスの本質を突いた話なのである。
ここからは温泉旅館の使いこなし方、接待の仕方である。
その前にまず、今の由布院温泉の状況を知っておこう。現在、日本各地の温泉地ではインバウンド客が激増している。接待する相手が外国人だった場合、「外国人ばかりですね」と驚くかもしれない。そうした状況について、質問されても、困らないように、箱根でも熱海でも訪れる先の温泉の状況を予習しておくといいのではないか。
■由布院は本当にインバウンドだらけなのか?
桑野さんは湯布院の状況について、こう言っている。
「由布市の人口は3万人ほどで、そこに日帰り、宿泊の観光客が年間に約430万人やってきます。日帰りのお客さまが290万人、宿泊される方が140万人です。全体の約140万人が外国人の方で、インバウンドのお客さまです。別府市はもっと多いです。(別府の人口は11万人で観光客は680万人。日帰りが441万人、宿泊が238万人。
由布院に外国人客が多いのは福岡空港から直通バスが出ていることでしょう。福岡空港はアジアの玄関口になっています。たとえばソウルから1時間ですし、台北からだと2時間半です。東京、福岡間は2時間ですから、ソウルからのほうが近いのです。それで韓国、台湾の方たちは由布院、そして九州各地にいらっしゃいます。
加えて、JR九州の特急「ゆふいんの森」号の人気が高いせいもあるでしょう。実際にゆふいんの森号に乗ってみると、客席の7割近くはインバウンドのお客さまになっています。
それもあって由布院のメインストリートを歩いている方たちはインバウンドの方が多い。ただし、宿泊客は旅館によって違います。玉の湯のインバウンド客の割合は5%です。反面、インバウンドのお客さまが7割、8割という旅館もあります」
■外国人のほうが「日本文化」を言語化できる
「外国の方を接待するために由布院の温泉旅館を使うとすれば、インバウンドに慣れている旅館、もしくはうちのような旅館のどちらがいいのかを接待相手のお客さまに確認されたほうがいいでしょう。
インバウンドに慣れた温泉旅館の場合は従業員に韓国、台湾、ネパールといった人たちが働いています。
桑野さんが温泉旅館に人を招いて接待する時に忘れてはならないと言っているのは「従業員を味方にすること」だ。これは接待の原則である。飲食店でも同じこと。接待する主役はあくまでホストなのだが、ホストひとりではもてなすことはできない。旅館の従業員に頼もしい味方となってもらい、一緒にさまざまなもてなし策を実施する。
■ホテルスタッフと仲居の決定的な違い
では、どういう風に従業員を味方にすればいいのだろうか。
桑野さんは「とにかく、なんでも相談すればいいんです」と言う。
「まず、仲居さんがやる仕事を把握しておくことでしょう。ホテルにチェックインするとベルボーイが荷物を持って部屋まで案内してくれます。ただ、今は自分で部屋まで行くことが多いし、部屋の中まで入ってくるベルボーイも少なくなりました。コロナ禍の影響もあるのかもしれません。フロントで注意事項を書いた紙をもらって、ひとりで部屋に行くことも普通になりました。つまり、ホテルのスタッフは宿泊客の部屋に入ってくることは基本的にはないのです。また、ホテルのフロントが知っている宿泊客の情報とは名前、住所といったものだけです。
旅館の仲居は違います。お客さまが到着した瞬間から、体調などに気を遣います。部屋に案内して、そこでさまざまなことを伺うわけです。
『今日は疲れてるから夕食まで昼寝したい』とおっしゃれば布団を敷きます。『早めに夕食食べたいわ』とおっしゃったら、できる限り、時間の都合を付けます。ホテルではそういう会話は生まれないと思います。ですから、お連れの方を接待されるとすれば宿泊の予約をした時に『接待で泊まります』と教えてください。そうすれば仲居がお客さまの好みを聞いて食事の時の飲み物であるとか、なんでも手配いたします」
■外国人にとってこれほど特別な体験はない
「今、うちを利用される方、ひとりでいらっしゃる方が多くなりました。ご夫婦で利用していたのが奥さま、あるいは旦那さまを亡くされてひとりで来られる。また、今の日本はひとり暮らしの方が多いでしょう。そういう方がひとりで泊まりにきます。すると、仲居は話し相手でもあるんです。旅館だと必ず仲居との会話が生まれます。
『庭に咲いている花は何?』と聞かれたら、『はい、吾亦紅(われもこう)です』と答えて、そこから話が広がっていく。お客さまは旅館の仲居、フロントに会話と安心感を求めていると感じます。接待であれば『仲居さんに何でも聞いてみてください』と伝えることです。特に外国人の方を接待でお連れになるのであれば、庭の花、掛け軸、浴衣の着方など仲居との話題に事欠きません。
『仲居はホテルのスタッフと違って会話をする相手ですよ』と、教えてあげてください。外国人だけでなく、日本人のお客さまでもそういうことはあまり知らないと思います」
■一流ほど「心付け」を渡す理由
「仲居は地域のことでも知っています。地域のコンシェルジュでもあるからガイドもできます。浴衣の着方についてはスタイリストでもある。仲居に着付けをしてもらえばきれいな着方になります。
玉の湯では仲居など、従業員に季節のお花、掛け軸、地元産のお土産に至るまで教育をしています。国内外からお客さまがいらっしゃるので、英語でも会話ができるようにしています。外国人のお客さまを接待するのであれば英語に堪能な仲居を部屋係にしますよ。それはうちだけでなく、他の旅館でもそういうリクエストを出せばいいのではないでしょうか」
旅館では心付けをあげるべきだ。金額はいくらでもいいのだが、3000円から5000円が多いという。それをポチ袋に入れて仲居に渡す。接待の場合は招いた側が心付けを用意するのではなく、ゲストが自ら払うべきだ。あくまで心付けなのだから、いくら接待でもそこまで面倒を見るべきではない。それにサービスを受けた本人が「ああ、いいサービスだな」と感じたから渡すのが心付けだ。
桑野さんはこう言っている。
「心付けはお客さまのお気持ちです。もっとも、玉の湯はもらいっぱなしではありません。心付けをいただいたら、帰りにゆず胡椒などをお土産に差し上げることにしています。また、心付けは決まっているわけではありません。何か用事を頼んだ人が渡すものですから。たとえば、自分の好みのシャンパンをもちこんだ、仲居に着付けをしてもらった、会話が楽しかった、子どもの面倒をみてもらったといったことがあった場合に渡せばいいとわたしは思っています」
■昔は大浴場の「風呂番」に渡していた
「海外のチップと日本の心付けの違いはポチ袋(金封)にあると思います。あれ、とてもいいデザインでしょう。ポチ袋を仲居に渡すことで『このポチ袋のデザイン、とっても可愛いでしょう』と会話が生まれます。ですから、旅館で心付けを渡す時は招いた側がゲストのためにポチ袋を用意しておくのもいいですね。そして、『これはチップを入れる時に使うものですよ』と伝えておく。
金額は3000円から5000円ぐらいでいいと思うんです。1万円も出すと、特別感がありすぎるのではないでしょうか。私は高級旅館であっても5000円で十分だと思います。1万円を出す場合とは1週間、泊まったといったような長く滞在した場合や特別なお願いをした時だと思います。
渡すタイミングはやはり一番最初にお部屋に案内した時が多いです。でも、『この人に渡したい』と思った瞬間に渡すのがスマートだと思います。
お帰りの時に渡す方もいらっしゃいます。また、昔は大浴場に風呂番がいて、その人に心付けを渡す方がいらっしゃいました。今はもう、風呂番がいなくなったので、そういう習慣がなくなりましたが、粋な感じがします」
■外国人が興味を持つ「日本料理独特のルール」
玉の湯にはネパール人の仲居がいる。カラさん。日本語の上手な仲居で、教育係だ。日本文化に詳しい人でもある。英語をしゃべるので、玉の湯に泊まった外国人の担当になることも多い。彼女は日本文化を学ぶことが大好きだから玉の湯に勤めたという。
「生まれたのはネパールのグルカです。湯布院と同じ山のふもとの町です。勤めて4年になりました。朝食、夕食のサービスをしながら、日本の懐石料理のマナーについて、お客さまにご案内することがとても楽しいし、また勉強になります。自分のふるさとの話とか、日本の伝統の話をしながら、お客さまに食事を提供するのは大好きです」
桑野さんが補足した。
「旅館の食事は懐石料理が多いです。外国人のお客さまが泊まった場合、どういう順番に料理を出すのかに興味を持たれます。また、料理には冷たいものと温かいものがあります。ですが、同じ素材の汁物でも温かくしたり、冷たくしたりすることに関心を持たれます。外国の方にはそういった日本料理のルールがとても興味深いようで、それを聞かれることが多い。
あと、たとえば打ち水をしますけれど、『どうして水を撒(ま)くんだ』と必ず聞かれます。仲居は『すがすがしい気持ちでお客さまをお迎えするためです』とちゃんと説明しなければいけない。外国のお客さまに来ていただくことは私たちにとって、あらためて日本文化を学ぶ機会でもあるんです」
■玉の湯が外国人仲居を登用する理由
「そして、日本の文化だけでなく、地域について説明することもあります。お料理のなかに関アジ、関サバを使ったら、『これは地元の特産の佐賀関のアジです、サバです。脂が乗っています』と説明いたします。野菜でも旬の素材を使います。すると、『旬』という概念、『走り』『名残り』についても説明することになります。
どうして、地元の魚や野菜を使うのですか? と聞かれたら、日本の旅館は地域の顔であり、地域につながるものを置いていかないといけないのですとお答えします。うちでは食材だけでなく、器でも地域の作家の焼き物を使うようにしています。
ホテルであれば、ホテルは自社ブランドの皿であったり、タオル、バスローブを使います。
このようにホテルと日本旅館は同じ宿泊施設ですけれど、違うところのほうが多い。それを外国のお客さまに教えてあげることが接待になるのではないでしょうか。
ただ、私自身、そういう日本の旅館の特徴に気づかされたのはカラさんがいるということも大きいです。カラさんのような外国から来た従業員が自分から疑問に思い、積極的に知ろうとしてる様子を見て、私たちは気づかされました。そして、私がカラさんに教えたことを今度はカラさんがさまざまな国からいらしたお客さまに説明します。日本の文化を海外の方に説明するのに、彼女がいることがいかに重要か、よくわかりました。日本の文化を海外の方たちに説明する時、カラさんは私たち以上に向いていると思います」
■ここぞという接待は温泉地がいい
外国人をもてなす機会は今後とも増えていくだろう。その際、まずは料理店で食事を共にする。その次に日本の景勝地などを案内する。最後が一緒に日本の旅館に宿泊するということだろう。
外国人を接待する時に注意するポイントは、温泉や食事だけでなく日本の文化、地域の文化を大切にしている宿泊施設として旅館を紹介することだろう。そして、泊まった旅館の仲居を味方にして、総力でもてなす。ポチ袋は何種類か用意しておく。心付けの渡し方を伝えておく。浴衣の着方は仲居にやってもらうように話しておく。
外国人にとって温泉旅館の宿泊はそれ自体がワクワクする体験だ。たとえ手際が悪かったとしても、接待の相手が怒り出すことはないだろう。彼らにとって温泉、浴衣、下駄、懐石料理はいずれも本国では味わえないことだ。外国人を接待する機会がある人は由布院でなくともいいから、温泉旅館へ案内するといい。
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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。ビジネスインサイダーにて「一生に一度は見たい東京美術案内」を連載中。
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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)