2026年のNHK大河ドラマは「豊臣兄弟!」だ。豊臣秀吉の弟「秀長」とはどんな人物だったのか。
渡邊大門編『豊臣秀長 天下一の補佐役武将の生涯』(星海社新書)のなかで歴史学者の柴裕之さんは「兄に臣従を誓った家臣として、一身を賭して秀吉政権を支え続けた名参謀だった」という――。
■政権運営を支えた秀長の役割
天下人秀吉を支える“弟”としてあった家康と秀長であるが、その役割は異なった。
秀吉、秀長、家康の三人について、大和興福寺(奈良県奈良市)の僧侶が記した『多聞院日記』天正14年(1586)11月2日条では、国内秩序が乱れ「一揆ノ世」となってしまったら、「秀吉ハ王ニナリ、宰相殿ハ関白ニナリ、家康ハ将軍ニナル」(秀吉は国王となり、宰相殿〔秀長〕は関白になり、家康は将軍になる)という人々の認識を記している。
この背景には、天下人秀吉(豊臣政権の主宰者)のもとで、秀長は補佐や代行(「名代」)を務めて政権運営に携わる執政(宰相)、家康は政権に従わない勢力に対して軍勢を率いて討伐を担当する軍事指揮官とみられていたことがわかる。
実際に、家康が秀吉から期待された役割は、豊臣政権への関東・奥羽統合のための外交・軍事における活動(諸大名・国衆の従属と紛争解決への尽力)である(柴:2024ほか)。しかし、家康は政権中枢で活動することはなく、運営には関わっていない。
一方、秀長は、羽柴家一門衆の筆頭に位置し、執政(以下、“一門筆頭の執政”とする)として秀吉の意向に従いつつ、一門衆(秀次・小吉秀勝)や重臣を率いて政権運営に携わり、豊臣政権と諸大名との関係維持に努めることを求められた。そのため、秀長は「指南」(政治的後見役)として、織田信雄、徳川家康、毛利輝元、小早川隆景、吉川広家、大友宗滴(義鎮、宗麟)・吉統(初名は義統。天正16年に改名)父子、島津義久・義弘兄弟、龍造寺政家、伊達政宗といった諸大名と上洛した際におこなった接待や日々の贈答を通じて、彼らとの交流を深めていった。
■「公儀の事は宰相存じ候」という重み
こうした諸大名との交流は、豊臣政権を構成した羽柴家と諸大名との統制・従属関係の維持に「指南」として尽くす羽柴家一門衆に求められた「任務」であった。秀長は“一門筆頭の執政”として、この「任務」に従事した。また、その役割に基づいて、秀長には紛争解決も求められ、それを果たした。

天正14年4月、薩摩(鹿児島県)島津家との戦いで勢力を縮減していた豊後(大分県)大友家の家長・宗滴が上洛して、摂津大坂城にいた秀吉に臣従を示したうえで、豊臣政権の政治的後見と軍事的安全保障を求めた。その際には秀長も立ち会い、その後に自身の屋敷に招いた時、「公儀の事は宰相存じ候」(豊臣政権における事柄については、秀長が承知している)と述べ、豊臣政権内部で大友家のための進退保証に「指南」として奔走することを約束した(『大友家文書録』)。
「公儀の事は宰相存じ候」との発言は、豊臣政権における羽柴家一門衆の筆頭として秀吉の補佐・代行(「名代」)を務め、政権運営に携わる執政者(“一門筆頭の執政”)としての彼の立場と、その立場に応じた諸大名との関係維持に奔走する「指南」としての役割を端的に述べたものといえよう。
そして、政権のもとでの国内秩序を乱す存在には、秀吉とともに、場合によっては秀吉に代わり、豊臣軍(羽柴家だけでなく諸大名を従えた豊臣政権の軍勢)を率いる大将として軍事討伐に従事し、終戦・占領後には該当地域の戦後処理と統治のための体制を整備する、「仕置」の実務を指揮した。
■信頼熱い「弟」も兄に臣従誓う「従者」
実際、天正15年におこなわれた島津方勢力の軍事討伐では、秀長は日向(宮崎県)方面から島津領国へと進軍する豊臣軍の大将を務めた。また、戦後は秀吉の九州諸大名・小名配置に基づいた豊前(福岡県東部から大分県北部)・豊後・日向三カ国における諸領国の画定、大友家ら諸大名・小名の進退保証と領国経営の再建にあたって検地(税賦課基準を定めるための地域の実情調査)を実施させるなど領国統治における体制の整備にあたっている。
このほか、羽柴家の本城である摂津大坂城や山城淀城(京都府京都市伏見区)など豊臣政権の畿内統治における拠点城郭の普請も、秀長の監督のもと、諸大名や諸将が率いられておこなわれた。
秀長が豊臣政権における“一門筆頭の執政”としてあったのは、彼が天下人秀吉の信頼する“弟”であったことに源泉はある。
しかし、聚楽第行幸の際に織田信雄・徳川家康・宇喜多秀家・前田利家とともに、秀長・秀次は後陽成天皇の前で、秀吉への忠誠を誓わされている。注目したいのは、織田信雄、徳川家康らと連名で、秀長・秀次も秀吉への忠誠を誓う起請文(誓約書)を提出しているように、羽柴家一門衆であった彼らもまた、政権主宰者の秀吉に対して臣従を誓う“従者”の立場にあったことである(『聚楽第行幸記』)。
■許されない失敗を才覚で乗り越える
また、秀吉の信頼を失った際は、秀長がたとえ“弟”であっても、その立場の失墜は免れ得なかった。例えば天正16年12月に家臣の吉川平助による熊野山材木の不正売買が発覚、秀吉による処罰がおこなわれた後、秀長も秀吉の不興を買って対面できずにいたことが、『多聞院日記』天正17年1月5日条にみられる。

矢田俊文氏は、このことから「秀長は秀吉の弟とはいえ、秀吉の家来であることにかわりはなかった。秀長といえども失敗は許されなかった」(矢田:柴編著2024所収)と述べているが、まさにその通りであろう。
秀長は、秀吉からの絶大な信頼を受けながら、それに応える「力量」(判断とそれに伴う手腕、すなわち「才覚」)を発揮し続けていくことによって、天下人秀吉の“弟”として豊臣政権における“一門筆頭の執政”の立場を得ていたのである。
■兄の天下統一を支えた弟の早すぎる死
このように豊臣政権は、秀吉・秀長の兄弟関係のもとで両人を主軸に成り立ち、そのもとに国内統治と外交・軍事における政務がおこなわれてきたといっても過言ではない。いまも語られる天下人にまで登り詰めて君臨を遂げた秀吉の活躍は、それを支え続け、彼の意向に応えることのできた人柄と「力量」を持っていた“弟”の秀長の存在を抜きにしては語れないのである。
秀長の葬儀で導師を務めた京都大徳寺の僧侶・古渓宗陳は、自らが書き記した引導法語(「大光院殿前亜相春岳宗栄大居士秉炬」)のなかで、秀長を、秀吉の信頼が篤く文武両道で威張ることなく穏やかな人柄であり、戦場では軍勢を率い、世の中のあり方を問い続け、財を成した人物として評価している(『蒲庵稿』)。この古渓宗陳の秀長評は、これまでみてきた秀長の活動からして、誤りではないであろう。
しかし、その功労の裏での激務は、やがて彼の体を蝕んで大病を患わせ、天正18年(1590)以降はたびたび危篤事態に陥ることもみられた。そうした病状のなかで、小田原合戦と関東・奥羽仕置を経て(この時、秀長は病の療養もあり出陣せず、京都で畿内の警固と朝廷との交流に努める)、豊臣政権のもとでの「天下一統」は実現する。そして、それを見届けるように、天正19年1月22日に、秀長は52歳でこの世を去った(『多聞院日記』ほか)。まさに天下人となった秀吉に尽くしてきた生涯であり、そこに秀吉の“弟”として求められ、己の使命に対し応え続けてきた、勤勉実直な人間としての彼の「実像」がある。
■徳川家康も参列した盛大な葬儀と残された財
また、古渓宗陳の引導法語にもみられるように、秀長は倹約・蓄財家であったことから、亡くなったとき大和郡山城では「米銭金銀充満」していて、実際に確認がおこなわれたところ、金子が5万6000枚余、銀子が二間四方の部屋に天井際まで積まれているほど莫大で、銭は何万貫文あるのか、わからないくらいであったとされる(『多聞院日記』)。

1月29日、秀長の葬儀は「京衆・高野衆・当国諸寺・甲乙人見物衆以上人数廿万人モこれあるべし、野モ山も人クツレなり」(『多聞院日記』)と、京都や高野山(和歌山県高野町)、大和国の僧侶や参列・見物人が20万人以上もいて野も山も人ばかりというような、盛大におこなわれた。さらに、一周忌供養は繰り上げて、同年9月22日に実施された。その際には、秀長の生前に密接な親交関係にあり、秀長が病を煩うと気にかけていた羽柴家親類の有力大名であった徳川家康も参列している(小林:2024)。
このように秀長は、その人柄と彼が務めた豊臣政権における“一門筆頭の執政”、また領国大名としての「力量」においても、多くの人から慕われていた人物であったのである。
秀吉は、天正14年に「天下一統」の達成後は秀長に国内のことは任せて、自身は東アジアへの外交・軍事に専念したいと語っていた(1586年10月17日付ルイス・フロイス書翰〔『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第III期第七巻所収〕)。
これから東アジア外交・軍事にあたろうとしていた秀吉にとって、秀長は国内政治を任すことのできる、最も頼りとしていた自身の輔弼(豊臣政権における“一門筆頭の執政”)を務めてきた“弟”であった。その秀長の死去は、同年8月に嫡男の鶴松がわずか3歳で亡くなったことと合わせて、以後の政権運営に軌道修正を余儀なくさせていってしまうのである。

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柴 裕之(しば・ひろゆき)

東洋大学文学部・駒澤大学文学部非常勤講師

1973年東京都生まれ。東洋大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。博士(文学)。専攻は日本中世史。著書に『織田信長 戦国時代の「正義」を貫く』(平凡社、2020年)、『羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟』(角川選書、2024年)、『秀吉と秀長』(NHK出版、2025年)、編著『図説 豊臣秀吉』(戎光祥出版、2020年)などがある。
2026年放送の大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当。

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(東洋大学文学部・駒澤大学文学部非常勤講師 柴 裕之)
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