織田信長は戦に強かっただけでなく、楽市楽座など、商業の規制緩和を進めたことでも知られる。立命館アジア太平洋大学(APU)前学長の出口治明さんは「当時は粗悪な“びた銭”が流通していたが、信長は金銀との交換価値を認めた」という――。

※本稿は、出口治明『日本史の極意』(SB新書)の一部を再編集したものです。
■チャイナマネーが日本を変えた
平安時代後期から中国の宋との貿易が本格化し、「宋銭」の流通は商取引を便利にしただけでなく、人々の価値観や社会のしくみをも変えていきました。富と権力の源泉が「土地(モノ)」から「お金(カネ)」へと重心を移し始めるのです。
室町後期から戦国時代にかけて、日本は中国から銭が入ってこなくなり「銭不足」に陥ります。今の経済用語で言えばデフレ状態です。そこでしかたなく、びた銭と呼ばれる粗悪な銭が日本のあちこちで作られ始めます。
びた銭が出てきてからも、取引現場では「びた銭、受け取ってもいいけど割り引かせてもらいますよ」といったかたちで良質な銭と悪質なびた銭を選より分ける撰銭(えりぜに)が行われていました。
この時代で注目すべき存在は織田信長でした。信長はびた銭の種類によって「本銭(本物の宋銭)の何割」といったかたちで階層(換算比)を決めます。世の中にお金が出回らないと商売に不都合が生じますから「無文銭」とも呼ばれたびた銭にも一応少しは銭の価値があると認めました。それによって市場に流通するお金の量(マネーサプライ)を増やしたわけです。
そしてそのあと生糸や薬、茶碗といった唐から物ものの高額取引には金と銀を使わせることにします。
日本には当時、金山や銀山があり、金と銀はあったので、金と銀と銅銭の換算額を定めました(三貨制度)。一部の地域では金と銀の通貨としての使用がすでにありましたが、信長は法律で認めたのです。
■信長が画期的な三貨制度を始めた
信長のもとには、金銀が献上されてきます。信長はその金銀で京都の茶道具を買っています。すると市中には金銀が出回ります。
さらに信長は米を通貨代わりにすることを禁じます。米をカネの代わりにため込む商人がいると、市場流通が阻害されかねないからです。そうして1580年頃にはびた銭が本銭のように扱われるに至ります。
信長はびた銭、金、銀を貨幣として大量に流通させたのです。こうした政策は、今で言えば日本銀行のような中央銀行が、マーケットから国債を買って円を供給するのと同じです。現代の金融政策では「量的緩和」と言われています。量的緩和は何のためにするか?
景気を刺激、経済を活性化させようとするときに行うものですね。

■秀吉は太閤検地で米の石高を重視
ただ、天下統一を成し遂げたあとの豊臣秀吉が1582年から98年にかけて全国規模で実施した太閤(たいこう)検地では、全国の土地の生産性を米の収穫量、すなわち石高という統一された単位で測り直しています。
大名の領地の価値は「何貫の銭が上がる土地か」という貫高制から、「何万石の米が穫れる土地か」という石高制へと立ち返ります。なぜか。秀吉の主たる勢力下はともかく、地域ごとに貨幣の水準、びた銭の価値、貨幣の流通度合いもまちまちだったんですね。ゆえに年貢については「この土地から米がどれくらい穫れるか」を基準にしたほうが客観的な基準で評価できたからです。
もっとも、石高制と併存するようになっただけで、銭が使われなくなって米があらゆる貨幣の代わりになったわけではありません。
豊臣秀吉は金銀の鉱山開発を進め、1587年に天正通宝、1588年に天正大判という貨幣を発行します。
10世紀で途絶えた皇朝十二銭以来、日本の政府が通貨を作ったのは久々の出来事です。とはいえ秀吉は富をため込んでおくためと、大名への報酬に使ったくらいでした。
■貨幣制度を完成させたのは家康
その後、統一的な貨幣制度を完成させたのは徳川家康(将軍在任1603~05)、江戸幕府です。家康は1601年から金貨・銀貨・銅貨の三貨制度をつくりはじめ、慶長金貨銀貨を発行します。その後、1636年には幕府自ら銅銭の寛永通宝を大量に発行しました。
これによってたとえば1635年に始まった参勤交代の道中等々で、日常的な取引ができるようになります。さすがに宿場町で気軽に金銀を使うわけにいかないですからね。
こうして金貨(両)、銀貨(匁(もんめ))、銅銭(文)の3種類の貨幣がそれぞれの交換比率を持ちながら全国に流通する三貨制度が確立します。
■綱吉の時代、幕府は深刻な財政難
家康によって確立され安定した三貨制度でしたが、泰平の世が100年近く続いて5代将軍・徳川綱吉(将軍在任1680~1709)の治世になると、江戸幕府は深刻な財政難に直面します。江戸幕府が始まった頃は250万石の収入がありました。くわえて幕府直下の佐渡金銀山など鉱山経営もあり、朱印船貿易もありました。
金銀はだんだん採り尽くして、2代将軍・秀忠(将軍在任1605~23)から3代将軍・家光(将軍在任1623~51)の頃(1630年代)にはすでに減少に転じるなど、収入が減っていきます。
一方で支出は土木建設費や祭礼に関するお金などを中心にふくらんでいくのです。たとえば綱吉の時代には東大寺大仏殿や孔子をまつる湯島聖堂などの造営、修復事業が積極的になされています。藤田覚の『勘定奉行の江戸時代』(ちくま新書)によれば、綱吉時代には幕府の財政は11万両近くの赤字だったと推定されています。
■勘定吟味役が幕府を救った
この財政危機を救ったのが、1682年に新設された勘定吟味役(いわば監査役)に抜擢された荻原重秀(おぎわらしげひで)でした。彼は佐渡金山の立て直しを経て1695年、貨幣改鋳(すなわち金や銀の含有量を減らした新しい貨幣〔元禄小判〕を発行し、その差額〔出目〕を幕府の利益とする)をスタートさせます。

たとえば1枚あたりの金貨に含まれる金の量を3割減らしたら、2.5枚あたりもう1枚分作れますよね。これまでよりも少ないコストでたくさん貨幣が作れます。たくさん貨幣を作ってもとの慶長金銀と交換し、それをまた溶かして新しい小判と交換していけば、幕府側はめちゃくちゃ儲かります。荻原重秀はほかにも政策を組み合わせることによって、幕府に約500万両分はもたらしたとも言われています。
かつてはこの元禄の改鋳によって猛烈なインフレが起こったとして「生類憐れみの令」と並んで綱吉の悪政とされてきました。しかし近年の研究によれば、インフレ率は年3~4%程度だったようです。経済学的には物価が下落していくデフレよりも、若干のインフレで安定していたほうが景気はよくなるとされています。ということは、元禄の改鋳は理にかなった政策だったと評価できるでしょう。
荻原重秀は「貨幣は国が作るものなのだから、流通するなら瓦礫(がれき)でもいい」と語ったと伝わっています。「みんなが貨幣だと信じれば、それが貨幣になる」という発想は現代の管理通貨制度にも通じる考え方です。
■政策変更でインフレからデフレへ
もっとも、タイミングやバランスがむずかしい政策であることは間違いありません。
綱吉時代末期、地震や富士山噴火などでまたまた幕府財政は悪化します。
荻原重秀は再び貨幣改鋳で乗り切ろうとしますが、この「宝永の改鋳」は不作が重なったこともあって経済に混乱を引き起こし、物価高騰を招いてしまいます。
6代将軍・家宣(将軍在任1709~12)の顧問役をつとめた儒学者の新井白石は荻原重秀の貨幣改鋳を「あんなもんごまかし、インチキやないか」と嫌悪し、金の含有量を元に戻します。すると今度は貨幣の出回る量が少なくなってデフレに振り切れ、米の値段が3分の1にまで下がります。武家から農民まで収入減に直面し、さらには直後に将軍が死去するなどの出来事が重なり、白石はクビになります。
適切なマネーサプライがインフレやデフレを調整し、人々の暮らしと政府財政を左右する。これは現代の経済政策においても変わっていません。

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出口 治明(でぐち・はるあき)

立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授

1948年、三重県生まれ。京都大学法学部卒業後、日本生命保険に入社。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年退職。同年、ネットライフ企画(現・ライフネット生命)を設立し、社長に就任。2012年に上場。2018年よりAPU学長。
読んだ本は1万冊超。主な著書に『生命保険入門 新版』(岩波書店)、『全世界史』(上・下、新潮文庫)、『一気読み世界史』、『一気読み日本史』(日経BP)、『自分の頭で考える日本の論点』(幻冬舎新書)、『教養は児童書で学べ』(光文社新書)、『人類5000年史』(I~VI、ちくま新書)、『0から学ぶ「日本史」講義』シリーズ(文春文庫)、『日本の伸びしろ』(文春新書)、『哲学と宗教全史』(ダイヤモンド社)、『復活への底力』(講談社現代新書)、『「捨てる」思考法』(毎日新聞出版)など多数。

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(立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授 出口 治明)
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