NHK朝の連続テレビ小説「ブラッサム」は、作家・宇野千代をモデルにしている。歴史評論家の香原斗志さんは「大正8年(1919)に、宇野は最初の夫の弟と結婚し、札幌へ向かう。
だが、同時期に作家として評価を得たことが、夫婦の運命を狂わせていった」という――。
■NHK朝ドラとは全く違う宇野千代の実際
葉野珠(石橋静河)が、前の夫の弟で従兄弟の木村保(金子大地)と東京で暮らしはじめて1年ほどすぎたところで、保の父が入院し、仕送りが途絶えてしまった。しかし、帝国大学の学生である保が仕事をすれば、学業がおろそかになる。それを避けたい珠は西洋レストラン「悠樂軒」でウエイトレスとして働くことになった。NHK連続テレビ小説「ブラッサム」の第5週「狂騒で、東京」(10月26日~30日放送)。
もっとも珠と保の関係は、一緒に暮らしていながら、かなり長い間、プラトニックである。珠は代用教員時代の恋愛がスキャンダルになり、相手で同僚教師だった島村辰彦(工藤阿須加)に突き飛ばされて以来、恋するのが恐ろしいという状態が続いたままで、保の求愛を受け入れられずにいた。
一方、代用教員時代の同人誌以来、小説を書きはじめていた珠は、飛ぶ鳥を落とす勢いの出版社、首都公論社の近所に位置する悠樂軒で、文学人脈を広げていく。たとえば、『首都公論』編集長の黒崎大三郎(遠藤憲一)は、雑誌の勢いを反映して羽振りがよく、高級なビフテキなどをたらふく食べるたびに、チップとして50銭硬貨をテーブルに置いて帰った。
作家志望の左良太(北野秀気)とも仲良くなる。だが、小説を志す者どうし、がんばろうという意志の交換として握手をしていると、珠を迎えにきた保に激怒されもする。
ここまで記したドラマの内容は、朝の視聴者向きにとてもマイルドである。
これくらいマイルドでなければ朝の放送に適さない、といってもいい。だから仕方ないが、宇野千代の実際は、葉野珠とはまったく別人だというほど奔放で激しかった。
■前の夫の弟と一緒に宿に泊まる
木村保のモデルは藤村忠といって、実際、千代の最初の夫の弟だった。京都の第三高等学校から東京帝大法学部に進んだところも、木村保と一緒である。ただし、千代と保の同棲は保が京都で三高に通っていたころからはじまっていた。
しかも、2人がしばらくプラトニックだったなど、とんでもない。まだ岩国にいて保との簡単な文通を続けていた千代は、大正5年(1916)12月、京都から岩国に帰るが、途中で広島に寄るので迎えに来ないか、という保からの手紙を受け取った。それに応えて広島に赴いた千代は、早速、保と一緒に旅館に泊まっている。
千代は〈これが私の、男と一緒に宿に泊まった最初の経験であった〉(『生きて行く私』毎日新聞出版)と書いている。以後、千代と保は知恩院の別院内で同棲し、保が帝大に受かったのちに東京に移り、小石川の女髪結いの2階で暮らした。京都での同棲を千代は〈たった六畳一間の中の、一つの寝床の中に一緒に寝る生活〉(同)と書いた。プラトニックと正反対の関係を示していることは、いうまでもないだろう。

ただ、東京に移って以後、保の父親が裁判所を定年になり、仕送りが途絶えたので、千代が必死に働くほかなかったのはまちがいない。
■左良太のモデルになった作家との親密
その際、千代はいろいろな職種を経験した。出版社の事務、家庭教師、ホテルの食堂の給仕、雑誌の口絵のモデル……。「ブラッサム」の「悠樂軒」のモデルである西洋料理店「燕楽軒」でも、大正7年(1918)に働いている。ただし、「ブラッサム」の葉野珠は、保が北海道の銀行に転勤になるまで1年ほどは悠樂軒で働くようだが、千代はわずか18日しか燕楽軒で働いていない。
しかし、その18日間が非常に濃く、そこでの人脈がやがて、夫になる藤村忠をも翻弄することになる。
「ブラッサム」の左良太のモデルは、作家の今東光だと思われる。千代と今との関係はプラトニックに終わったことになっているが、ある日、今が千代の住まいである女髪結いの2階に入り込もうとしながら、邪魔が入ってニアミスで終わったこともあったらしい。それに千代は、のちに瀬戸内寂聴に、今とは結婚も考えたが、厳格な今の親が女給仕との結婚を許さなかった、と白状している。握手をとがめられたが誤解だ、というレベルの関係ではなかったのである。
ほかにも、「ブラッサム」の黒崎編集長のモデルである「中央公論」の瀧田樗陰はもちろんのこと、芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、佐藤春夫ら、錚々たる作家たちと燕楽軒で出会っている。
■札幌で銀行員の妻になるはずが…
さて、大正8年(1919)8月、千代は忠と結婚したが、これは千代がようやく年貢を納めた、とでもいうべき状況だった。
そして翌大正9年7月、忠は東京帝大を卒業して北海道拓殖銀行に就職したので、千代も札幌に移住せざるを得なくなった。
これで千代もすっかり観念し、札幌で銀行に勤める夫の世話をする、というのが当時の一般的な女性像だっただろう。千代も当初はそのつもりだったかもしれないが、彼女にはそんなことはできなかった。そして、千代が燕楽軒で知り合った作家や文学関係者とのつながりは、彼女を執拗に東京へと呼び寄せる力になった。
久米正雄は燕楽軒で出会った千代にすっかり惚れて、交際さえ申し込んだほどだったというが(2人の関係がどこまで深まっていたのかは不明だが)、札幌で文筆活動を続ける千代に、大きな力をあたえることになった。
大正9年(1920)11月、「時事新報」が懸賞小説を募集し、全国から寄せられた3000以上の小説のなかから千代の『脂粉の顔』が一等に選ばれた。このとき2人の選者のうち一人が久米正雄だったのである。
■札幌の夫を捨てて東京へ
自信を深めた千代は、続いて書き上げた大作『墓を発く』を、今度は「中央公論」の瀧口編集長に送った。だが、なんの連絡もないので、大正11年(1922)4月、札幌から東京の中央公論社を訪ねた。当時は札幌から東京までは三十数時間かかったが、それだけの時間をかけてわざわざ出向いたのである。
夫の藤村忠には、2日で帰ると約束したそうだが、忠に送り出された際のことを、〈汽車が走り出したとき、ふいに私の両眼から涙が溢れ出し、その涙のために、ホームに立っている悟(註・忠のこと)の姿が、霞んで見えなくなった〉と、千代は書く(前掲書)。
それは、自分は札幌を離れて東京で作家生活をしたく、この機会にそれを実現したい、という思いが湧き上がり、もう札幌には帰らないと直感したからではないだろうか。

中央公論社を訪ね、自分の小説はどうなったのかと尋ねる千代に、瀧田編集長はすでに『墓を発く』が掲載された「中央公論」5月号を見せ、360円の原稿料を手渡した。いまの貨幣価値でいえば20万円程度と思われるが、当時の千代にとっては有頂天になるのに十分な金額だったようだ。
■当日出会った作家を“お持ち帰り”
千代は札幌に帰る代わりに、360円をもって6年ぶりに岩国へ帰り、義母や弟妹に大盤振る舞いした。その後、札幌への帰途についたものの、東京で少し時間があったので、瀧田編集長にあらためて礼をいうために中央公論社に寄った。その行動が千代の運命を変えた。
このとき瀧田編集長は千代に、評論家の室伏高信と作家の尾崎士郎を紹介した。この尾崎、千代が「時事新報」の懸賞小説で一等になったとき二等だった作家で、「ぼ、ぼくが、そ、その、二等賞の尾崎士郎です」と自己紹介した。このおどけつつ、どもった話しぶりは、千代にとって〈無防備な、抗し難いものであった〉という(前掲書)。
その晩、尾崎が部屋を借りているホテルで尾崎と千代、そして室伏の3人は飲み、その時点で札幌に帰る気がなくなったと思しき千代は、尾崎に隣の部屋を借りてもらい、だが、自分の部屋ではなく尾崎の部屋で、一つの蒲団で寝たという。
そのまま千代は札幌に帰らなかった。それは東京で作家活動をしたかったからなのか、尾崎と一緒にいたかったからなのか。おそらく両方なのだろう。

その後、藤村忠は東京を訪れ、千代と尾崎と鍋を囲んで酒を飲んだという。その雰囲気を想像するだけで、胃に穴が開きそうになる。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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