ロシアによるウクライナ侵攻は、2年以上が経過しても収束の見通しが立っていない。なぜプーチン大統領はウクライナに固執するのか。
国際政治学者・舛添要一さんの新著『現代史を知れば世界がわかる』(SB新書)から侵攻に至った経緯を紹介しよう――。
■なぜロシアは「領土拡大」に執念を燃やすのか
1206年にモンゴル帝国を建国したチンギス・ハンは、次々と領土を拡大していった。第2代皇帝オゴデイ・ハンの時代にロシアを攻め、1237年にはモスクワを陥落させた。ロシアは、1480年までの約240年間にわたって、モンゴルの支配下に置かれたが、これを「タタールの軛(くびき)」と呼ぶ。
この2世紀半にわたる隷従の体験が、ロシア人のその後の考え方や生き方に大きな影響を与えたのである。
陸続きのユーラシア大陸を席巻する騎馬民族に蹂躙(じゅうりん)されたロシア人は、外敵に対して異常なまでの警戒心を抱き、安全保障を重視するようになった。
ロシア人が、ソ連邦崩壊後にNATOの東方拡大を警戒したのは当然である。
ロシアにとって、隣国のベラルーシとウクライナは国境を接する最後の砦であり、絶対に敵には渡さないとプーチンは決意した。
ベラルーシは親露派のルカシェンコ政権であるが、ウクライナは反露・親西欧のゼレンスキー政権になった。そのため、プーチンの危機感は募り、2022年2月24日にウクライナに軍事侵攻したのである。
他国を侵略する行為は国際法上許されるものではないが、軍事侵攻を決意するまでの心理状態を説明すれば、以上のようになる。
■プーチンが称えるピョートル大帝の業績
モスクワ大公国のイヴァン3世は、1480年にキプチャク・ハン国への臣従を破棄して、「タタールの軛」からロシアを解放する。
その孫が雷帝と呼ばれるイヴァン4世である。領土の拡張を試みるが、期待通りの成果を得ることができず、雷帝の死後、ロシアは不安定な「動乱時代(スムータ)」となり、対外戦争に負け、多くの領土を失った。
1613年にロマノフ朝が始まるが、1694年にはピョートル1世(大帝)が親政を開始し、西欧化・近代化を推進するとともに、ロシア領土を拡大し、ロシアを大国にしていく。プーチンは、このピョートル大帝の業績を称え、ウクライナ侵攻を「領土を奪還する」ための戦いだと正当化するのである。
1917年、レーニンがボリシェヴィキ革命を成功させ、ロマノフ朝が倒れた。このロシア革命は第一次世界大戦中に起こったが、レーニンは革命政権を安定化させるために戦争を早く終わらせようとし、ドイツと11月後半からブレスト=リトフスクで停戦交渉を開始した。

ウクライナでは、当時は中央ラーダ(評議会、ロシア語のソヴィエト)が権力を握り、反ボリシェヴィキの方針を貫いた。11月20日には「ウクライナ人民共和国」として事実上の独立を宣言し、12月17日にはボリシェヴィキと戦争状態に入った。
■ドイツと手を組んだウクライナへの怒り
ボリシェヴィキ政府は、ウクライナにドイツが干渉するのを防ぐために、ドイツとの講和交渉を急いだ。
ところが、中央ラーダは、一足先に1918年2月9日、ドイツと講和した。ウクライナは、ボリシェヴィキと戦うためにドイツ軍の支援を受け、それと交換にドイツに100万トンの穀物の供給を約束したのである。
ウクライナの主要産品は、肥沃(ひよく)な大地が生み出す小麦などの穀物である。
2022年に始まったウクライナ戦争で、その輸出が制限されたために、世界が食糧危機に陥ったことは周知の事実である。ドイツ軍はこの中央ラーダとの連携に力を得て、赤軍(ソヴィエト政権の軍隊)を攻撃し、首都ペトログラードに迫っていった。
そのような状況で、レーニンは革命の結果生まれた新体制を守るため、即刻の講和を主張して、3月3日に講和条約(ブレスト=リトフスク条約)を締結した。その結果、ロシアは、フィンランド、ポーランド、バルト三国、ウクライナなど、多くの領土を失った。
ドイツと手を組んだウクライナの裏切りが原因であり、この屈辱をスターリンもプーチンも忘れなかった。ウクライナへの怒りの念が、2022年のロシア軍のウクライナ侵攻の背景にある。

■プーチンの狙いは帝国を復活させること
その後、第二次世界大戦でスターリンはヒトラーに勝ち、領土を奪還し、東欧諸国を支配下に置いた。プーチンがスターリンを尊敬する理由は、広大な領土を誇る大国、帝国を復興させたからである。
ソ連邦解体後のNATOの東方拡大は、「21世紀のブレスト=リトフスク条約」であり、それを是正し、帝国を復活させることこそが自らの責任であるとプーチンは確信している。
1999年8月に首相に就任したプーチンは、チェチェン紛争に介入し、親露派政権を樹立した。2000年3月の大統領選挙でプーチンは当選し、引き続き大国ロシアの復活という課題に挑戦していく。
1991年のソ連邦の解体で独立国となったジョージア(グルジア)で、2008年に南オセチア紛争(ロシア・グルジア戦争)が起こった。
ジョージアには、親露派で分離独立を唱える南オセチアとアブハジアが存在していた。
2008年8月、グルジア軍は南オセチアの首都ツヒンヴァリに対し軍事行動を起こしたが、ロシア軍が南オセチアに入り、激しい戦闘が行われた。その結果、グルジア軍は撤退を余儀なくされ、ロシアは南オセチアとアブハジアの独立を承認したのである。
2022年2月のロシア軍によるウクライナ侵攻は、この2008年のグルジアに似ている。親露派勢力の要請で軍事侵攻し、独立国として承認するというパターンである。
2014年3月、ロシアはクリミア半島を併合した。その根拠は、住民投票によってロシア帰属が決められたことであるが、その住民投票はウクライナ憲法違反である。そこで、ロシアは、クリミアに独立宣言をさせ、独立国家としてロシアに併合したのである。
ウクライナ侵攻の直前の2022年2月21日、ロシアは東部のルガンスクとドネツクを独立国家として承認したが、クリミア併合と同じプロセスを追求するためであった。
■ウクライナ侵攻を許した西側諸国の不作為
クリミアを併合するまでのプーチンの外交軍事の成功は、版図を広げ、大国の復活を目指すことを望むロシア国民の喝采するところであった。支持率が上がるのは当然である。
周到な準備と果敢な行動力がプーチンの成功につながったことは否定できないが、同時に忘れてはならないのは、それを可能にしてきたのはアメリカをはじめとする西側諸国の無関心と不作為であったということである。
ベルリンの壁が崩壊し、ソ連邦が解体した後の最大の問題の一つが、核兵器の管理である。
1968年に国連で採択され、1970年3月に発効した条約に、核拡散防止条約(NPT)という取り決めがある。それは、アメリカ、フランス、イギリス、中国、ソ連(ロシア)5カ国以外には核兵器の保有を認めないという約束である。核保有国を増やさないということでは評価できるが、批判的に言えば、国連安全保障理事会の常任理事国のみで核兵器を独占するということである。
唯一の被爆国である日本は、1970年2月に署名し、1976年6月に批准している。締約国は191カ国・地域にのぼる(2021年5月現在)が、参加していないのはインド、パキスタン、イスラエル、南スーダンである。5大国による核兵器の独占に反対しているからである。南スーダン以外の3カ国は既に核兵器を保有していると見られている。
■プーチンを増長させたクリミア併合
ソ連時代には、連邦を構成していたベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンには核兵器が配備されていた。もし、この3カ国が独立後もそのまま核兵器を保有し続ければ、核兵器保有国が3カ国増えることになってしまい、NPTに違反することになる。
そこで、ソ連邦から独立する際に、この3共和国がNPTに加盟し、核兵器を放棄する(具体的にはロシアに引き渡す)ことにしたのである。1994年12月5日に、ハンガリーの首都ブダペストでOSCE(欧州安全保障協力機構)会議が開かれ、核放棄の見返りとして、ロシア、アメリカ、イギリスは、この3カ国の安全を保障することを約束した。こうして署名された文書を、ブダペスト覚書と呼ぶ。
2014年3月にロシアはクリミアを併合したが、ウクライナはブダペスト合意違反だと抗議した。ロシアは住民投票の結果だと反論したが、クリミア併合がブダペスト合意の違反であることは明白である。しかし、アメリカもイギリスも経済制裁は科したが、それは重いものではなく、合意を遵守(じゅんしゅ)させるための具体的・実効的な手は打たなかったのである。このような西側の姿勢が、プーチンを増長させたといえよう。
2022年のロシア軍によるウクライナ侵略についても、ブダペスト合意違反である。この覚書は反故にされてしまっている。もはやこの覚書に頼ることはできず、それに代わって強力な法的担保のある安全保障体制の構築が必要である。
■ロシアが挑発行為とみなした「NATOの東方拡大」
外交では、プーチンは西側との協調路線を維持した。2006年7月には、G8の議長国として、サンクトペテルブルクでG8サミットを開催している。
2007年2月10日、ミュンヘン安全保障政策会議で、プーチンは、「冷戦後にアメリカ一極集中の世界は実現しなかった」と述べ、「アメリカの一方的な行動は問題を解決しておらず、新たな緊張をもたらしている」と指摘した。そして、NATOの東方拡大を「相互信頼のレベルを低下させる深刻な挑発行為」だと厳しく批判したのである。
それまでプーチンは、西側との協調路線を歩み、NATOの東方拡大などの屈辱にも耐えてきたが、ここにきて堪忍袋の緒が切れたように、アメリカへの不満を爆発させたのである。この演説は西側に大きな衝撃を与えたが、アメリカは、その不満の深刻さを正確に認識できなかったのである。冷戦の勝者として、敗者の痛みなど無視したアメリカの傲慢さ、鈍感さが、その後の事態の悪化の背景にある。
アメリカは、NATOの東方拡大へのロシアの懸念を真剣に受け止めず、さらに傷口に塩を塗るような行為に出た。2008年春にブカレストで開かれたNATO首脳会議において、アメリカはウクライナとジョージアの加盟を強く主張したのである。
これは、プーチンの神経を逆なでする提案であった。ロシアの反発を懸念するフランスとドイツの反対で、首脳会議は「ウクライナとジョージアをいずれNATOに加盟させる(will become member)」と、加盟時期を明示しない宣言をまとめた。これが、ブカレスト宣言と呼ばれるもので、4月3日に採択されている。
■「米英vs独仏」の構図でバランスが保たれていたが…
プーチンにしてみると、フランスやドイツは冷戦の敗者であるロシアに一定の配慮をしているが、アメリカはロシアの封じ込めしか考えていない冷徹な勝者である。イギリスは、アメリカの立場に近い。つまり、西側の中で、「米英vs独仏」という対立があり、そのバランスが機能しているかぎり、ロシアにはまだ妥協する余地があったのである。
皮肉なことに、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻は、独仏をも英米側に押しやってしまった。プーチンにとっては、大きな誤算である。
ウクライナでは、親欧米派と親露派の対立が続いてきた。2010年に政権に就いた親露派のヤヌコーヴィチ大統領は、ロシアの圧力によって、2013年11月にEUとの協力協定への署名を取りやめた。
それに怒った親欧米派の市民が、キーウ(キエフ)中心にある「独立広場」などで反政府デモなどの抗議活動を繰り返し、大混乱になった。その結果、2014年2月にヤヌコーヴィチ大統領は国外に逃亡した。
これがマイダン革命であるが、親露派の多く住む東南部では、この動きを認めず、ロシアとの協力関係を重要視してウクライナからの分離を求める人々が立ち上がった。
プーチンは、この親露派の動きを支援し、「分離独立派の希望に応えるため」に、3月にはクリミアを併合した。
■ウクライナ侵攻前から続く親欧米派と親露派の抗争
こうして、親露派とウクライナ政府側(親欧米派)との間で武力闘争が行われる深刻な事態となっていった。
クリミア、ドネツク、ルハンシク(ルガンスク)、オデーサ(オデッサ)、ザポリージャ(ザポロージエ)、ハルキウ(ハリコフ)、ドニプロペトロウシク(ドニプロペトロウスク)では親露派勢力が多く、NATOやEUではなく、ロシア主導の関税同盟への加盟を求める声が強かった。一方、西部、中部の親欧米派地域では親露派とは反対に、EUやNATOへの加盟を支持する人が多数だった。
ただ、ウクライナが分裂せずに一つの国家として存続すべきだという考えの人が、どの地域でも最も多かったことは記しておこう。
親露派陣営の過激派は暴力行為に訴え、ウクライナ政府側はそれに対抗するために軍隊を出動させた。3月、4月と対立抗争は激化し、ドンバス地域(ドネツク州とルハンシク州)では内戦の様相を呈し、ドンバス戦争とすら呼ばれたのである。
親露派の分離独立派は、4月7日にはドネツク人民共和国(DPR)を、4月27日にはルガンスク人民共和国(LPR)の樹立を宣言した。しかし、その後も、親露派の分離独立主義勢力とウクライナ政府軍との間で、激しい戦闘が続いていった。
■欧米、EU、ロシアが話し合っても内戦収束は不可能だった
このような状況を危惧して、4月にウクライナ、アメリカ、ロシア、EUがジュネーブに集まり、ウクライナの違法な武装集団の武装解除、違法占拠した建物の返還などの措置をとることで合意した。そして、OSCE(欧州安全保障協力機構)の特別監視団が、その措置の実施を監督することになったが、内戦は収束しなかった。
ウクライナ、ロシア、OSCEに、ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国の代表が加わり、7月31日、8月26日、9月1日、9月5日に会議が行われ、9月5日にベラルーシの首都ミンスクで議定書の調印に漕(こ)ぎ着けた。議定書は12項目からなり、即時停戦、OSCEによる停戦監視、ドネツク・ルガンスクの地方分権の確保、ウクライナ・ロシア国境セキュリティゾーンの設置、捕虜の解放、ドンバスの人権状況の改善、違法な武装集団の解散などが決められた。
しかし、議定書調印後も停戦違反が続発し、さらに関係者で議論が続けられ、覚書が9月19日に調印された。国境線から15km内での重火器の撤去など、議定書の内容を具体化した。
ところが、その後も覚書が遵守されない状況が続き、OSCEの関与のみでは内戦を止めさせることは不可能なことが明白になった。そこで、2015年2月に、フランスとドイツが介入することを決めたのである。
アメリカは一方的にウクライナに武器援助をしようとしたが、ドイツやフランスは、アメリカの動きは事態の悪化を招くだけだと反発し、ロシアとの良好な関係の維持にも配慮したのである。
■威嚇や武力行使を伴わない外交はロシアに通用しない
こうして、2015年2月12日に、独仏の仲介で、ウクライナとロシアの間で、「ミンスク合意履行のための措置パッケージ」(ミンスク2)が成立した。内容は、OSCE監視下での無条件の停戦、捕虜の解放、最前線からの重火器の撤退、東部2州に自治権を与えるための憲法改正などである。
問題は、ロシアが、自国は紛争当事国ではないので、この合意を履行する責任はないと主張していることである。ウクライナはロシアも交渉に参加した以上、履行義務があると反論している。
しかし、この合意の後も、ウクライナ政府と親露派武装勢力は、お互いに相手が停戦合意に違反する行為を実行していると非難し、親露派勢力とウクライナ政府の間で小競(こぜ)り合いが続いていった。つまり、事態の抜本的改善は見られなかったのである。
2022年2月21日、ロシアは、ルガンスク人民共和国とドネツク人民共和国の独立を承認し、翌22日には、プーチンは、「ミンスク合意はもはや存在しない」と述べた。そして、24日にはウクライナに侵攻したのである。
武力による威嚇、そして武力の行使を伴わない外交はロシアには通用しない。ブダペスト、ミンスクなどの覚書は、実効性を持たず、単なる紙切れに終わってしまった。

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舛添 要一(ますぞえ・よういち)

国際政治学者、前東京都知事

1948年、福岡県生まれ。71年、東京大学法学部政治学科卒業。パリ、ジュネーブ、ミュンヘンでヨーロッパ外交史を研究。東京大学教養学部政治学助教授を経て政界へ。2001年参議院議員(自民党)に初当選後、厚生労働大臣(安倍内閣、福田内閣、麻生内閣)、都知事を歴任。『ヒトラーの正体』『ムッソリーニの正体』『スターリンの正体』(すべて小学館新書)、『都知事失格』(小学館)など著書多数。

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(国際政治学者、前東京都知事 舛添 要一)