※本稿は、古野貢『オカルト武将・細川政元 室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■「戦国三愚人」にされてしまう武将
注目すべきポイントがいろいろある細川政元(ほそかわまさもと)(1466~1507)ですが、彼の名前でインターネット検索をかけてみますと、少し気になるワードが引っかかります。
「戦国三愚人(戦国三大愚人)」です。つまり、政元は戦国時代の愚か者三人のうちの一人だ、というのです。他の二人は中国地方の名門大名・大内義隆(おおうちよしたか)と、「海道一(東海道一)の弓取り」と呼ばれた今川義元(いまがわよしもと)の跡継ぎである今川氏真(うじざね)です。
どうして政元はこんな評価を受けてしまうのでしょうか。
ひとつには、従来の制度を次々と覆していく彼の革新性に周囲がついていけなかったということが考えられます。
ゲームチェンジャーという言葉があります。ゲームの仕組みそのものを変えてしまうような役割を果たした人、を意味します。中世日本を破壊し、戦国時代の幕を開けたゲームチェンジャーといえば織田信長だ、と従来から言われてきました。しかし、革命的な人物だと思われてきた信長に対する評価は最近かなり落ち着いてきて、むしろ意外に保守的な志向性を持った人物であった、とみなされるようになってきています。
その上で、信長が活躍できた前提として、細川氏に仕えた三好長慶(みよしながよし)こそが信長に先立つ革命的な動きをした人物であるという評価がなされるようになってきました。
■家臣が将軍を替えるアンタッチャブルな行為
しかし、やっていることからすれば、長慶よりも十数年前に活躍した人物である政元の方がよほど革新的であり、当時の人々からすれば、さぞとんでもないことをやっていると捉えられたのではないかと思ってしまいます。政元は当時の常識や慣習を堂々と無視してしまうような人物であり、強烈なパーソナリティをもつ人物であったのは間違いないと思われます。
政元は、「明応の政変」において本来の将軍を追い払い、新しい将軍を立ててしまいました。これは、それまでの室町幕府におけるスタンダードな政治的あり方からすればかなり異質なものでした。そもそも「家臣が将軍を取り替える」ということは手をつけてはいけないアンタッチャブルな行いであったわけです。
一部の例外を除いて、代々の足利将軍は自分自身が後継者を決める形になっていたはずなのですが、十一代将軍の義澄(よしずみ)を立てる際には、将軍ではない政元が十代将軍の義材(よしき)を追放する形で決めてしまいました。ここには将軍就任における本来のあり方ではなく、将軍よりも下位の立場である政元の意思が優先されています。
■新たな方法論で戦国時代の幕を開けた
政元は義材を追放して将軍を義澄にすげ替える「明応の政変」を実行したことで、下の立場から将軍をコントロールできるようになったために、幕府内で強大な権力を行使するようになりました。
これはやはり幕府のルール・制度を変えてしまったということですし、将軍の権威・地位を棚上げしたことになり、幕府の根本的なあり方、いわばガバナンスのあり方も変質させます。このことは結果的には政元自身の首を絞めることにもなりました。
そして政元は、社会を動かす政治の構造部分に新しい方法論を持ち込もうとしていました。将軍を追放した時、自分が意のままに動かせる相手をきちんと計画的に置いていることが、それまでの室町幕府の歴史からすれば新しかったのです。
政元以前も、将軍が追われたことに関する先例はありました。最初の足利将軍である足利尊氏(あしかがたかうじ)も京都を攻め取ったものの、のちに敗れ、追い払われて一度は九州に下っています。
また、六代将軍の義教(よしのり)は嘉吉(かきつ)の乱で赤松満祐(あかまつみつすけ)に暗殺されました。その次が政元で、足利義材を追放して義澄を立てました。そして最後が織田信長による足利義昭の追放です。
■公武合体を図った政治家としての企図
このうち南北朝の内乱真っ只中の尊氏はともかく、嘉吉の乱で義教を暗殺した赤松満祐は、その後の政権構想をしっかりと考えていたとはいえません。もちろん次の将軍候補について全く考えていなかったわけではなく、一応「この人を次の将軍に」と候補を立ててはいます。
しかし、それが将軍家からすれば非常に遠い関係の人物であったので、京都の人々は「これは全く実現可能性がない」と判断しました。そしてそれ以外にも「幕政については、自分はこういうことをします」といったことは何も告げずに本拠地の播磨(はりま)へ戻っていったのです。
対して政元は、新しい将軍を用意し、公武合体ともいえるような構想を準備して、新しい政治体制を作ろうとしています。つまりポスト応仁の乱の社会のあり方を自分なりにデザインして形にしていこうとしていた政治家だったと思われます。ここが赤松満祐と大きく違うところでしょう。
■ゲームチェンジャーの因果応報
その意味で、政元は室町時代をガラッと変える新しいあり方を模索しており、室町時代における最もゲームチェンジャー的な存在と言えるのではないでしょうか。
政元の行動は、「こういうことができる」「こういうことをしてもよい」といった先例を作ったことになるわけですから、明らかに社会のフェイズ(段階)を変えたといえます。
実際、政元ののちに三好長慶が現れて、本来の主君である細川氏を排除して権力を奪ってしまうわけです。
これは細川氏の立場からすれば自分たちが足利将軍にやったことをやり返された、今で言うところの「ブーメラン」(自分の言動が自分に返ってくる)が成立する状況を自ら作ってしまった、ということになります。
■社会の定義を変えた先例としての政元
その後、信長が義昭を京都から追放した際には、政元の時ほど話題にならず、世の人々も、ある程度冷静に受け止めることができました。
それは「将軍は必ず京都にいるもの」「将軍は武家に命令を出すもの」という定義が必ずしも当然ではなくなったからではないでしょうか。
仮に将軍がいなくなったとしても「そういうこともある、先例があるから」となってしまっている。さらにいえば「世の中が回るのであれば別に将軍はいなくてもいいのではないか」ということになってしまっているわけです。
このような新しい社会構造・政治構造が出来上がった背景には、志半ばで死んでしまったものの、政元のやろうとしたことが先例として残ったためではないでしょうか。
たとえば、政元が目指したと考えられる社会安定化のための「公武合体」については、江戸幕府で二代将軍秀忠(ひでただ)が自分の娘を朝廷へ嫁として送り込んだり、幕末になると逆に和宮親子(かずのみやちかこ)内親王を将軍の妻として降嫁させるような形で実現しているわけです。
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古野 貢(ふるの・みつぎ)
武庫川女子大学文学部歴史文化学科教授
1968年、岡山県生まれ。大阪市立大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学。博士(文学)。武庫川女子大学文学部歴史文化学科教授。専門は日本中世史。14~16世紀の政治史、権力論、室町幕府、守護、国人など。著書に『中世後期細川氏の権力構造』(吉川弘文館)、『戦国・織豊期の西国社会』(日本史史料研究会)などがある。
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(武庫川女子大学文学部歴史文化学科教授 古野 貢)