※本稿は、野地秩嘉『伊藤忠 商人の心得』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
■負けを極小化するための「か・け・ふ」
「負けを極小化する秘訣は日頃の商売の姿勢にある。商売の心得は『か・け・ふ』。稼ぐ、削る、防ぐだ。稼ぐは儲けてくること。削るは、無駄なコストを減らすこと。そして、防ぐは特別損失がないように危機管理すること。
このなかで、もっとも難しいのは防ぐこと。稼ぐと削るはやってみれば結果は出てくるけれど、防ぐとは見えないリスクをどうやって見つけて、対処するかです。商社ならば、投資先や取引先が『危ないんじゃないか』となる前に手を打っておく。すると、たとえつぶれても負けを小さくすることが可能になる。
防ぐためには現場へ行くことでしょう。取引相手と一度、商売したら、関係を終わらせずに定期的に出向く。相手がどういう状況にあるのか自分自身で確認する。定期的に訪問して、投資先、取引先の顔を見ていたら、『大丈夫かな』と勘が働く。変化や問題点を早く発見できる。防ぐとは早期発見、早期対処なんです。きめ細かくつきあうことが重要。商売に近道はありません。手間と時間を惜しむから、『あっ、知らないうちにこんなことになっていたのか』となってしまう。
■「うちも大きなことは言えない」
ただ、うちも大きなことは言えない。伊藤忠もメンテナンスをしなかったために失敗した例がいくつもある。投資した海外の事業会社とのコミュニケーションがおろそかになったために損を膨らませたこととか。
後で聞いてみたら、現地にいた社員は事業が悪化していることに気づいていた。それなら現地の社員はもっと上にアピールすべきだし、上の立場の責任者は一度、現地へ行くべきだった。結局、手間を惜しんだんです。手間を惜しむと負けを極小化することができなくなる。本当の商人を自負したいのであれば、報告だけで判断せず、現場に足を運んで、自分の目と耳で確かめる」
■最上の守りは変身しながら攻めること
彼はさらにひとつ、負けを極小化するためにやるべきことがあるという。
「守る、防ぐための策は攻めることです。攻めて、稼いで、貯金を作る。そうして、多少の負けにも耐えられる体力をつけておく。
もともと、伊藤忠の繊維事業は羊毛のような原料を輸入する川上分野、繊維製品を輸出する川中分野が強かった。ライバル商社に比べても、圧倒的に強い基盤を持っていた。羊毛なんか世界一の売り上げだった。ところが、この両分野の商売が、時代が進んでだんだんおかしくなってきた。
羊毛の輸入のような川上分野では中国などの大口の顧客が買い手として入ってきたために価格競争に陥った。もう、伊藤忠が入っていく余地がなくなった。一方、川中分野は仲介していた繊維メーカーが自分で海外に販路を作っていくようになった。商社の機能をメーカーが自分で行うようになった。収益基盤が変わってきたわけです。
■普通であれば不採算事業はやめるしかないが…
普通であれば不採算事業はやめるしかないが、新しい収益の稼ぎの柱がないのに撤退したら、損失が増えるだけ。
儲かっていないと本来の守りはできない。攻撃のいいところは、川上、川中の不採算を川下分野で補えたように、どこでも攻めることができることです。一方、守りは今、現実に戦っているところしか守れない。しかし、環境がよくないといいアイデアも出てこない。やはり、攻めは最大の防御です。実践するのは決してたやすいことではないですが」
■できる人間には難しい課題をやらせる
岡藤は社長に就任してからさまざまな改革を行った。
「人事における鉄則は、できる人間には難しい課題を与えて、平均点に届かない実績の人間には実現できそうな課題にすること。人間は目標を自己申告させると、できる人間は絶対にできることしか言ってこない。上司たるものはそこを見て、もう少し難しい問題を与える。そうでないと仕事で手を抜いてしまう。そのうちに難しい問題に挑戦しなくなる。人間が成長するためには少し上の目標を設定すること。そうすれば全身全霊をささげて仕事する。
一方、実績が少ない人間には難しいことをやらせるよりも、まず自信をつけてもらわなくてはならない。易しい課題を与えて突破させる。
学校でも公立高校にはできる生徒とできない生徒が入ってくる。授業は平均の真ん中の生徒をターゲットにする。できる生徒はあくびをするし、できない生徒はわからないから授業に身が入らない。結局、中途半端になる。
私立の進学校ではひとりひとり成績を見て、それに合わせて勉強をさせる。能力を目いっぱい使わせる指導をしている。僕は会社の仕事の与え方もそうでなくてはいけないと思う。能力が少しずつ伸びていくよう指導する。仕事ができる人間とできない人間が混在しているのが組織というもの。個々の人間に合った仕事をさせないといけない。そうでないと、会社は伸びていかない」
■難事は自ら行う
「僕は大切にするべき言葉はメモしている。『商人は水』『慢心したら落ちるのは一瞬』『難事は自ら行う』『大事は細部を指揮せよ』とかね。
難事は自ら行うとは、要するに難しいことは自分が率先してやらなあかんということ。それから仕事の丸投げはあかんよと。大切なのは細かいことを部下に具体的に指示してやること。そうでないと部下は仕事にとりかかることができない。やり方がわからなければ仕事を完遂できない。仕事を完遂できないのは部下がいけないのではなく、できるように指示しない上司がダメ。
それと、一芸に秀でることは大事。何でもできるよりもまず一芸に秀でること。うちでは人事異動でセクションを変えるけれど、いろんな部署をくるくる変えているわけではない。ある職場で一芸をマスターしてから他のところへ行く。そうでないと何も身につかない。
うちのグループ会社の社長人事を決める時も、その人の一芸は何かをまず見る。その次は慢心しているかいないか。言葉だけでなくちゃんと実践しているか。部下への仕事の与え方はどうなのか。
そういった点を日ごろから見ていて、それで社長人事を決める。だって、そうでしょう。大切な人事を『じゃんけんで決めろ』とは言えない。入社年次とかにもこだわらない。人物本位、仕事本位だ。
僕一人で決めているわけではない。それは思い込みで決めてしまったらいちばん困るのは自分だとわかっているからだ。日頃からよく観察して、さらに経営幹部、人事の意見を聞く。それに加えて、元の上司の意見も聞く。自分だけで決めることは決してない」
■信用をなくすのは簡単、取り戻すのは難しい
「人の信用は一度失うと、なかなか取り戻せません。僕には若い時の痛烈な失敗の記憶があるんだ。
入社数年目の頃、イタリアへ行く機会があった。それまで海外へは一度も行ったことがなかったから、上司が『世界を見てこい』と送り出してくれた。そうしたら、イタリア駐在の先輩で実力者だった人が、僕のために現地の取引先の要人と面会するアポイントを入れてくれた。
ところが、行き違いもあって、僕はそのことを知らずに、要人をほったらかしにして、あげくに売り場の視察と、女子社員に頼まれていたグッチなどお土産を探しに外出していた。とんでもないことですよ。好意でやってくれた先輩には失礼をしたし、取引先の顔もつぶしてしまった。帰国してから、えらく怒られたのは言うまでもありません。何よりもつらかったのは駐在員の方々の信用、そして取引先の信用を失ったこと。ほんとに信用は大事だ。
もうひとつある。これは僕の失敗やなくて、僕ががっかりしたことや。それは老舗百貨店の電話応対と接客サービスです。
■「筆耕というのがあるでしょう…」
筆耕というのがあるでしょう。のし袋に毛筆で文字と名前を書いてもらうこと。いまや筆耕をやる百貨店が減っているので都心の老舗百貨店へ行きました。書いてもらった後、墨が乾くのに1時間かかると言う。近所を散歩していたのですが、30分も散歩したら、もう行くところがない。じゃあ、あとで取りに行きますわと代表番号に電話したら、長く待たされた挙句に別の売り場に電話を回された。何より、電話をかけてから交換手(オペレーター)が出るまで8分も待った。これはさすがに長い。僕は老舗百貨店のサービスを評価していたから行ったのに……。しかし、百貨店がお客さんを電話口で8分間待たせるのはちょっと違うんじゃないか。
その時に思い出したことがある。同じ老舗百貨店のこと。伊藤忠の新人時代、あるラシャ屋の支店長に聞いた話や。昔、その老舗百貨店にはサービス、接客にうるさい副社長がいた。泣く子も黙る人で、業界の名物男やな。
ある財界人が、その副社長の紹介で、外商で買い物をしたわけです。買い物をしてキャッシュで払った。ところが、しばらくしたら払った売り場から請求書が届いたという。
■何気なく副社長に連絡したら
その人は何気なく副社長に連絡して、『請求書が来とるけれどお金はもう払ってるよ』と告げたわけだ。それを聞いた名物副社長は財界人に平謝りして、その後、かんかんに怒ったらしい。『店の信用問題にかかわる』と担当の部長を荷造りの担当に左遷した。それくらいサービスの質には厳しい百貨店だからと僕は信用したんですが、インターネットの時代になって、電話の取次ぎなんてもう教えないのでしょう。信用をなくすのは簡単。取り戻すのは難しい。
僕が言いたいのは信用、マナーやサービスというのがお客さんにとってどれだけ大事か。一度のミスが原因でお客さんは離れていく。これは大切にしないといけない」
岡藤が言うように信用、マナー、サービスは大事だ。大事ではあるが、失敗することもある。筆耕の問題の場合は8分間、客を電話口で待たせたことがそもそもの失敗だが、その後がよくない。岡藤の元に筆耕したのし袋をすぐさま届けるなりすればよかった。待たせた挙句、何もせずに取りに来させるままにしておいたことが次の失敗だ。
人間は一度の失敗は取り戻すことができる。一度の失敗を取り繕おうとしたり、また放置したままにするから信用を回復できなくなる。政治家の失言を見ていればよく理解できる。一度目の失言は心を込めて謝罪すれば周りも少しは納得してくれる。しかし、謝罪会見でもう一度、失言したら今度は回復不能だ。
もし、失言したら、「しかしながら」「だけど、私は」「あの時の判断は間違っていなかった」などと余計なことは言わない。火に油を注ぐだけだ。
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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。旅の雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)にて「巨匠の名画を訪ねて」を連載中。
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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)