なぜ、室町時代が戦国の世の幕開けになったのか。日本中世史の専門家である古野貢さんは「細川政元の生い立ちに、主君の意向を無視して自らの論理で動くようになった家臣の動きのはじまりが見られる」という――。

※本稿は、古野貢『オカルト武将・細川政元 室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■応仁の乱が露わにした政界リーダーシップの乱れ
一四七七年(文明九)になり、将軍足利義政(よしまさ)が戦争を終わらせることを決断し、応仁の乱は終わりました。とはいえ、この戦いはそもそも義政が自分の後継者についてきちんと対応していれば起きる可能性は低かったのです。彼が弟の義視(よしみ)を後継者に立てたにもかかわらず、実子の義尚(よしひさ)誕生後にきちんと整理しなかったので、後継者争いが起きてしまったわけです。
ここから、将軍という当時の政界トップのリーダーシップの不調が明らかになってしまいます。また、本来在京する守護が応仁の乱によって自らの分国に帰国したことから、中央政府である幕府に一番近いところに自分の足場(=分国)を持っていた細川氏がその後の幕政をリードしていくことは必然であり、すでに本書で紹介したとおりです。
応仁の乱終結後の一四七八年(文明十)、細川政元(まさもと)はようやく元服を果たします。ただその前に文明五年の時点で一度京都へ上洛し、将軍義政に出仕しています。そこで細川氏の後継者として顔つなぎをしたわけです。それから、応仁の乱が終わったあとに元服をして、公的にも後継者になった、ということになります。
■「政元」の名が表す幕府に近い関係性
「政元」の名前については、義政からの偏諱(へんき)といわれています。現在でも通字と呼ばれる文字を名前に使用している家があります。
細川氏は「元」が通字です。これを二文字名乗りの後ろの方に置き、前の方は自分が所属をする組織の上司や主人、師事する人の名前の二文字目から一字もらうという形を取ることが多いです。具体的には、義政の「政」の字を細川家の通字である「元」の上に載せ、政元と名乗ったわけです。
偏諱の習慣は古くからあるもので、自分の立場や所属、誰と近しいかを可視化すものでした。名前の一字をもらい、それを継続して使い続けることは「自分は名前をくれた主人の側についている」ことをアピールするものであり、何か理由があって主人を変える時には名前そのものを変えることもありました。
このような慣習は絶対的なものではありませんし、主人を変えたが名前はそのままというケースもありました。ただ、全体的な傾向としては、その後の戦国時代においても、偏諱によって立場をアピールする習慣は残っていました。
この名前からも政元は「幕府に非常に近しい関係性」を持ち、それをアピールする形になっていることがわかります。
■幼少期の政元に影響した応仁の乱
こうして聡明丸(幼名)は「細川政元」として生きていくことになったわけですが、その幼少期は十一年もの長い間、内乱(応仁の乱)が続いていた時期でした。そのことは彼にどんな影響を与えたのでしょうか。
一般的に考えて、戦争の中で生まれ育つわけで、とにかくその状況に対応しなければならなかったはずです。細川氏にとっては危機的状況であり、どうにかしてその勢力を維持しなければならない、とも考えたでしょう。

しかしその一方で、周辺に内衆と呼ばれるような良くも悪くも自分を支え囲っている存在がいたことが、彼のその後の行動原理を左右してしまった面もあるのだと考えられます。
のちに政元がオカルト的なことも含め、自ら地方へ行くなど積極的に行動しようとしたことは、京都に固執しなかったと言い換えることもできるでしょう。それは、応仁の乱という戦争の中で、「物事は京都の中だけでは完結しない」「京都にこだわっていたら戦争が解決しない」ということを肌感覚で理解したからではないでしょうか。
だから京都だけではなく地方を押さえなければいけないと考え、またそのためには具体的にどう動く必要があるか、といった具合に、応仁の乱は政元の物の見方や手法の根本的なところに影響を与えたのではないかと考えられます。
■この無常の世界をどう変えるのか
長く続く戦争とその中で起きた父親の死は人格に影響を与えやすい状況でもあったでしょう。攻撃され、またはこちらから攻撃することによって人が死ぬという経験もしたはずです。
政元は幼いなりに「上層部の判断や決断によって、勝つこともあるし負けることもある」「勝つためには何をどうするべきか」「ずっと人の意見ばかり聞いてても駄目で、自分なりの考えを作って進めなければならない」ことを学んだのでしょう。それらは戦争のなかに身を置くことで体得していったものと考えられます。
また、政元がどんどんオカルトの世界へ傾倒していったことの背景には、戦争の中で多くの死を見たことが彼の死生観に影響を与えたのでは、と見る向きもあるかもしれません。
しかし、政元の好んだ修験道は、例えば死んだ人の弔いがどうこうなどという話とはあまり直接的には結びつかないのです。人が死んだ、世は無常だ、悲しい……というよりも、ではその無常の世界をどう変えるのか、自分の意思によってどう問題を解決するのか、ということが政元が魔法の世界で学んだことなのではないでしょうか。
■家臣によって少年期に拉致される政元
政元は少年期に、もう一つ大事件を経験します。
一四七九年(文明十一)十二月、拉致されてしまうのです。この拉致は四カ月ほど続き、最終的には解放されます。犯人は一宮(いちのみや)宮内大夫という人物で、細川氏の家臣でした。
細川京兆家はいくつかの国を守護の分国として支配していました。そのひとつにこの事件の舞台となる丹波国(たんばのくに)があります。当時の守護は原則として京都におり、実際の統治は守護代と呼ばれる代官が担当するのが一般的でした。
当時の丹波国では内藤氏が守護代を務めていましたが、他にも有力な国人が何人かいて、そのひとりが一宮氏です。実は時期によってはこの一宮氏が守護代だったこともあり、幾人かの有力国人の中から守護である細川氏が指名することで守護代が決まるわけです。
この守護代になれるか、守護代を続けられるかという時に、上納物をどれだけ出せるか、守護にとって利益をもたらすことができる存在になれるかがものを言うわけです。現在であれば「賄賂だ」ということで大問題になりますが、当時はむしろ「贈答」することこそが、なりたい立場や役職に就くための重要な手法であったわけです。
■内藤元忠の暴走と細川家の沈黙
そのような関係性の中で、この時期は内藤元忠(ないとうもとただ)という人物が守護代でした。そうなると、一宮氏や波々伯部(ほほかべ)氏といったかつて守護代を務めたこともある有力国人の中で、内藤氏が頭ひとつ抜けた存在になります。

しかも内藤氏は自分が守護代だという権限や権威を背景に、自家にとって有利な政策を強引に進めたり、他所の土地を奪ったりしていきます。土地の分捕りは違法行為なのですが、現代のように警察や国家に訴えればいいかというと、そうはいきません。
この時代、違法行為に罰を与えたかったら「自力救済」といって被害者が自ら犯人を捕まえ、またさまざまな権力者が受け入れ窓口を持っている法廷の場を選んで連行し、裁判をしてもらわなければなりません。
一宮氏の場合、主家である細川氏に「内藤氏が自分の所領を分捕っていく」と訴えるわけですが、黙殺されてしまいます。ここで一宮氏は怒ります。「自分たちはこれまで細川京兆家を支えてきたのに、現在の守護代を務めている内藤の方を支持するのか」と。
そして怒った一宮氏は細川氏の家督を継いでいる政元を拉致して「自分たちの主張を聞いてくれ」と訴えるわけです。政元はまだ自分の意見を通せるような年齢ではありませんから、一宮氏は彼を支える内衆たち(元は一宮氏もその一部でした)に対するアピールをしたのです。
■家臣が主君を無視した最初の現れ
しかしこの交渉はうまくいかず、内衆たちに討伐されることになってしまいます。つまりこの細川政元拉致事件は、政元や細川京兆家を支えていた内衆の内紛というべき事件だったと言えます。最終的には一宮氏の中から一宮賢長(かたなが)という人物が出て政元を救出します。丹波国内の一宮氏が分裂して事態は収束した、というわけです。

この事件の際、主君である政元が囚われていたにもかかわらず、内衆たちは一宮氏を攻めました。どうしてそんなことをしたのでしょうか。
ひとつには、政元の安全は確保されていたのではないか、と推測できます。やはり一応は主君ですから、一宮宮内大夫の城あるいは拠点に留められていたらしく、はっきりとはわかりませんが牢屋などに監禁されていたわけではないようです。加えて、裏切り者がいる状況だったため、「内側から首謀者を捕まえさせよう」「政元を保護して脱出させよう」といったことを内衆たちが計算した上で攻めたのではないかと考えることは可能です。
もう一つ、内衆たち(細川家臣たち)がトップの意思とは別に、彼らの論理で動いていることも理由として考えられます。だから政元が危うい状況であっても攻撃することができたのかもしれません。この時点では「政元がまだ幼い」ために理解できる動きですが、彼らはその後もしばしば政元の意思を無視します。そのような動きの最初の現れがこの誘拐事件の時の対応だったのかもしれません。

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古野 貢(ふるの・みつぎ)

武庫川女子大学文学部歴史文化学科教授

1968年、岡山県生まれ。大阪市立大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学。博士(文学)。
武庫川女子大学文学部歴史文化学科教授。専門は日本中世史。14~16世紀の政治史、権力論、室町幕府、守護、国人など。著書に『中世後期細川氏の権力構造』(吉川弘文館)、『戦国・織豊期の西国社会』(日本史史料研究会)などがある。

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(武庫川女子大学文学部歴史文化学科教授 古野 貢)
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