■女たちの堪忍袋の緒がブチ切れたのか
新型コロナで人々がいったん価値観をリセットするほどの全人類的脅威にさらされた2020年代。島国日本でも、私たちはいろいろリセットした。
ライフスタイルの変貌は大きかった。会社が経営方針を変更してリモートワークメインに移行し「なんだ、これでも世の中、ちゃんと回ってるじゃん」とボヤく人もいる。幸せとは何かと見直す人が増え、転職も地方移住も海外移住もあった。「こんな会社、もう無理!」と思ったら、いまじゃ退職申請も代行サービスが有料で請け負ってくれるらしい。
ジェンダー観の軌道修正、いや“進化”も大きかった。コロナ離婚もあればコロナ結婚もあり、炎上も告発も大いにあり、常識が非常識になる(逆もまた真なり)価値観の痛快な反転を体験した私たちは、歴史の最前列の目撃者だ。
そんなリセット気分が続いているいま、フィクション作品、特に映画やドラマにおいても、さまざまな表現が進化した。女や男の生き方を問い、再定義するドラマがいまの傾向だ。
昨年は「昭和の当たり前は令和の不適切⁉」と柔らかく常識の転換が説かれたが、2025年4月はもはやダイレクトに「夫よ、死んでくれないか」なんて物騒極まりないタイトルのドラマもあって、いよいよここまで来たかと爆笑した。なんでも、当該ドラマを放送するテレビ東京はこれまでに「夫の家庭を壊すまで」「夫を社会的に抹殺する5つの方法」など夫婦の愛憎劇を手掛け、「全夫が震えるシリーズ」第3弾なのだという。
■ドラマが見せる「令和の夫たち」のバリエーション
だが「死んでくれ」とまでギッタギタに切り刻まずとも、TBSもまた、夫婦のあり方や役割分担に深く言及するドラマを好調に放映中だ。専業主婦・詩穂(多部未華子)と働くママ・礼子(江口のりこ)、育休中のエリート官僚パパ中谷(ディーン・フジオカ)の「対岸にいる3人」が、家事・子育てと仕事をめぐり、それぞれの立場で格闘するストーリーである。
大きくジャンルを括るならば「仕事と家事・育児の両立」。この二軸をテーマにしたコンテンツは、ドラマにせよ小説やコミックスにせよ、特に2000年代以降何度も制作されてきた。いまだに40~50代のワーキングウーマンがシェリル・サンドバーグの『リーン・イン』を引っ張り出して「働く母親は、家庭と仕事の間で常に引き裂かれている感覚を持ち、どちらも十分にできていないという罪悪感に苦しんでいる」と自分たちのしんどいキャリア人生を振り返るが、女性の社会的活躍が進む陰には、常に「子育ては誰がどれくらいやるのか」「家事は誰がどれくらい担うのか」という恨み言に近い議論が繰り返されてきた。
正直、これまで20年以上、子育てや女性の生き方をテーマとした文章を書いてきた私としては、「まだ日本はこのテーマを擦らねばならないのか」と、当初小さくため息をついた。2020年代の日本でまだこのようなテーマがドラマになること自体、日本の女性が背負わねばならない「期待」や社会的プレッシャー(いわゆる無理ゲー問題)がまだまだ大きすぎて、おそらくそれが一人ひとりの普通の女性たちのキャパシティを超えていることの表れなのだろうと思う。
変化しない社会的期待値と実態のギャップ! 女性は上の世代や男性が求める「完璧な母親」神話から解放されるべき! 専業主婦と働く母とで女性内部の分断を起こさず、昭和から令和まで異なる課題を経験した各世代の女性同士がお互いを理解し支援する必要! これは「個人の努力」から「社会構造の変革」へ繋いでいかなきゃ! けれどなかなか社会構造(男性社会!)が変わんなくてヘトヘト!
……なんてのを何周も何周も繰り返したのが、この30年だったじゃないか、と……。
ところが、このドラマにはこれまでのパターンには存在しなかった登場人物がいた。「妻たち」ではない。「夫たち」である。
2年もの育休を取得し「完璧な育児計画」を掲げる厚生労働省官僚パパ中谷(ディーン・フジオカ)。詩穂の夫で両親を早くに亡くし、深夜まで働く居酒屋の店長、虎朗(一ノ瀬ワタル)。キャパシティ超えの両立に擦り切れる共働きのワーママ礼子に「俺だって一日子どもの面倒見ただろう」と他人事のような言葉を投げる量平(川西賢志郎)。
女親の側だけじゃない、令和の男親の側にもバリエーションがあることをきちんと押さえてくれているのだ。
■「日本の男子の分水嶺」だった家庭科共習化
コニュニケーション・ディレクターの佐藤尚之(さとなお)さんが、アラ還にしてアレルギーの発症をきっかけにほぼ毎食自分で料理をするようになり、それまで家事をしてこなかった自分自身を振り返って、自分は本当の意味で自立していなかったこと、奥さんに甘え続けていたことに気づいた、と語っている(オレンジページのメディア「ウェルビーイング100」の浜田敬子さんとの対談)。
この中に「日本の家庭科の男女共習化は日本の男子の分水嶺」という、さとなおさんの名言がある。日本の教育では中学および高校で「女子も男子も家庭科を学ぶ」家庭科共修化から30年以上が経ったが、まさに中学校や高校という人間形成の大切な時期に、家庭科という学科として「暮らし方」を学んだか否か、それが男性の価値観や自立をかなり大きく左右している、というのが佐藤さんの指摘だ。
事実、大学附属有名校である某男子校の家庭科教諭をしている私の友人は、「やっぱりレベルの高い男子は家庭科ののみ込みも早いわよ。家庭科って科学だから」と語っていた。家事能力とはシンプルに生活スキルであり、「女は料理上手」「女は子育て上手」「女は……」などと、男女で適性など違うわけがないのである。
料理も洗濯も掃除も科学、子育ては人間的な総合力。男性が教えられてこなかっただけ、そして誰でも自分が生きることに前向きであれば自然と学び取ることなのに、男性だけがまるっと「基本的な生活能力」を社会的な選好によってそがれているのを社会が疑問視してこなかっただけである。
だって自立できないんだから。
■あなたは分水嶺のどっち側?
女性の労働力参加率のめざましい上昇や、いわゆる料理男子の増加という現象面からしても、若い層から見れば女性と男性が同様に仕事をして同様に家事もするのは当たり前。ところがまだ「当たり前に両親が家事育児する」というフレーミングには完全に移行していないのは、硬直した労働環境や上の世代に強く刷り込まれた「母性神話」など、ひとえに日本社会がちゃんと自分で自分のメシを作り、自分が汚したものや空間を洗濯し掃除し、自分の子どもを育てる日本人の男性像を構築してこなかったからだ。
そしていま、家事が楽しい、美味しい、気持ちいいと知ってしまった男性が暮らしのスキルに続々と目覚めている。私としては、よかったね、ようこそ本当の暮らしへ、本当の人生へ、という気持ちで胸がいっぱいである。
冒頭の話に戻ろう。現代人類に生きる力を問うたコロナはいろんなものをリセットしてアップデートしたが、男子の生きざまもアップデートされた。さて、これを読むあなたは佐藤尚之さんのいう「分水嶺」のどっち側を流れているだろう。
自宅のキッチンでステーキ肉を焼けるくらいでドヤっちゃダメですよ? それ誰が買ってきたの? 冷蔵庫に入れてくれたのは誰? 買い物袋を畳んだのは誰? 汚した鍋や皿やキッチンも自分で洗いましたよね? 途中で行ったトイレの掃除、お宅は誰がしてるんですか? 肉なんて誰でも焼けるのよ、トイレ掃除はできない(ていうか「俺の仕事じゃない」)なんて、うわ、カッコ悪。もうこれからの時代モテないよ、サヨナラ~。
はてさて、2年の育休を取得してひたむきに家事育児と格闘し涙する厚労省官僚のパパ役を、キャスト内イチのヒーロー枠ディーン・フジオカが演じる「対岸の家事」の今後も楽しみだ。
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河崎 環(かわさき・たまき)
コラムニスト
1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。
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(コラムニスト 河崎 環)