なぜ、愛子内親王の天皇即位が望まれているのか。『日本人にとって皇室とは何か』(プレジデント社)を上梓した島田裕巳さんは「男系男子での皇位継承を強く主張する保守派は、天皇の『資質』についての考察がまったくない」という――。

■皇室と伝統芸能の「家」の共通点
皇室に生まれるということと、伝統芸能の家に生まれるということの間には共通点がある。
一つには、「家」を継承していかなければならない重い責任が生じるということである。
皇室に生まれても、女性であれば、将来結婚し、皇室を離れる可能性はある。だが、まだ結婚していない間は、皇族としての務め、公務を果たさなければならない。
伝統芸能の家の場合も、特に重要な家に生まれれば、周囲から継承することを期待される。ここでは話を歌舞伎に限るが、宗家とされる市川團十郎家や、「團菊(だんぎく)」ということで対比される尾上菊五郎家に男子として生まれれば、将来團十郎や菊五郎を継ぐことを、赤ん坊の段階からどうしても期待される。
もう一つの共通点は、どちらも「見られる」存在であるということである。
歌舞伎なら舞台に上がるわけだから当然だが、皇室の場合も、戦後、「開かれた皇室」ということが言われるようになり、国民の前に姿を現す機会が飛躍的に増えた。姿を現すだけではなく、時に「おことば」を発しなければならない。
愛子内親王も5月3日、災害医療に関する国際学会の開会式に出席し、参加した各国の研究者らを前にして、初めてあいさつをしている。その後には、大阪万国博の会場を2日にわたって訪れているが、そこでも注視の的だった。
■歌舞伎界名門の襲名披露
その5月は、歌舞伎界にとって重要なものとなった。
歌舞伎座の「團菊祭五月大歌舞伎」で、八代目尾上菊五郎と六代目尾上菊之助の襲名披露興行が営まれたからである。
團菊という呼ばれ方をするようになったのは、明治時代の名優、九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎のときからである。九代目團十郎は、歌舞伎の近代化に尽力し、「劇聖(げきせい)」と呼ばれた。五代目菊五郎は、江戸庶民の生活を描いた世話物を得意とした。
皇室の歴史に比べれば、歌舞伎の歴史は浅い。江戸時代の初めからだから、400年を超える程度である。ただ、明治以降、西洋から近代演劇が取り入れられ、それが「新劇」と呼ばれたのに対して、一時は「旧劇」として過去のもののような扱いをされたことがあった。
それでも、歌舞伎は生き延び、今日でも歌舞伎座のような大劇場をいっぱいにできるだけの集客力を誇っている。そこに至る上で、團菊の果たした役割はあまりに大きい。
したがって、團十郎や菊五郎を継ぐことは、恐ろしくプレッシャーのかかることである。
しかも、それぞれの家に生まれたからといって、必ず襲名できるわけではない。
■音羽屋親子の同時襲名
襲名披露では、「口上(こうじょう)」があり、その際には必ず、「松竹株式会社、関係者皆々様各位の賛同を得まして、ここに襲名の運びとあいなりました」と述べることになる。

それは、型どおりの挨拶とも言えるが、周囲がその技量を認めなければ、襲名には至らない。また、技量が十分でない段階で襲名しようとすれば、贔屓(ひいき)筋からも「まだ早い」とたしなめられることになる。
今回の菊五郎襲名については、「まだ早い」という声が上がったとは聞いていない。演技も踊りも定評があり、しかも、シェイクスピアやインド神話、アニメやゲームを次々に新作歌舞伎にするなど、プロデューサーとしての力量も示してきたことは衆知の事実だからである。
私も先日、昼夜にわたって襲名披露興行を見たが、五代目菊之助が八代目菊五郎を襲名することに何の違和感もなかった。むしろ遅すぎると思ってきたところだが、問題は、七代目菊五郎が健在で、舞台に立ち続けていることにあった。その問題も、七代目がそのまま菊五郎を名乗り続けることで解決した。
■歴代最年少で名を継ぐ11歳の少年
「まだ早い」という声がもしも上がるとしたら、それは六代目菊之助のほうである。八代目菊五郎が菊之助を襲名したのは20歳のときだった。それに対して六代目菊之助は、歴代最年少11歳での襲名となる。
初舞台で七代目尾上丑之助(うしのすけ)を襲名したのが5歳のときだから、それから6年しか経っていない。父親から菊之助襲名を告げられたとき、即答できず、「もうちょっと尾上丑之助でいたい」と言ってしまった(『音羽屋三代』小学館)というから、何より本人が、「まだ早い」と思っていたわけである。

しかし、周囲は、そうは感じなかったのではないだろうか。しかも、襲名披露の舞台を見ていると、菊之助襲名も当然だと感じさせるに十分な技量を発揮していた。
特にそれは「京鹿子娘道成寺(きょうかのこむすめどうじょうじ)」について言えることだった。これを三人花子として踊るのは、音羽屋(尾上家)の伝統で、1992年11月、七代目菊五郎、五代目菊之助襲名披露興行で、七代目の父である七代目尾上梅幸と三人でつとめている。
■末恐ろしい“新・菊之助”の才能
「京鹿子娘道成寺」は舞踊の大曲で、しかも女方の踊りである。六代目菊之助は、くり返しになるがわずか11歳で、しかもそれまで女方ではほとんど踊ったことはない。女方の踊りは、腰を折ったり、内股にしなければならず、難易度は格段に上がる。
ところが、六代目菊之助は、それを見事に踊りきったのだ。十分に動けない七代目菊五郎が出られないため、そこに人間国宝の坂東玉三郎が加わった。玉三郎と“新・菊五郎”は踊りでは定評がある。だが、どうしても目が行ってしまったのが“新・菊之助”だった。
私が座った席の横では、女性の観客が、六代目菊之助の踊りの巧みさに驚嘆していた。
以前から歌舞伎通の間でも、その演技力は高く評価されていたが、踊りにこれだけの才能を発揮しようとは考えられていなかったのではないだろうか。
辛口で知られる歌舞伎評論家の渡辺保氏は、その劇評で「まだ少年なのに大健闘である」と述べていたが、私は11歳の少年の踊りに圧倒され、末恐ろしい気になっていた。これでは、襲名に文句をつける人間が出てくるはずもない。
■大名跡を継ぐ資格とは何か
もちろん、六代目菊之助が天才振りを発揮したのは、音羽屋の血を引いているからである。尾上梅幸は昭和の名優六代目菊五郎の養子で、血がつながってはいないはずだが、実子説も根強くある。
しかも、六代目菊之助の母方の祖父は、平成時代の名優、二代目中村吉右衛門である。吉右衛門が亡くなって以降、そのファンは、丑之助時代からこの「少年」に篤い期待を寄せるようになっている。
こうした血の力は大きいが、それだけで大名跡を襲名できるわけではない。六代目菊五郎には、こちらは間違いない実子である二代目尾上九朗右衛門(くろうえもん)がいた。九朗右衛門が襲名してもおかしくはなかったはずなのだが、大名跡を継ぐにはふさわしくないと判断されたのではないだろうか。
それだけ「菊五郎」という名前には重みがあった。そこには六代目の功績が大きい。
谷崎潤一郎の名作『細雪』でも、何としても六代目菊五郎の舞台を見なければという話が出てくる。私の父も、歌舞伎の愛好家で、私に対して「あんたにも六代目を見せたかった」と語っていた。
■愛子内親王の天皇即位が望まれる理由
歌舞伎役者は男性に限られるが、女性も舞台にのぼる。最近では、寺島しのぶが歌舞伎座に出演した。皇室の場合も、明治以前は女性天皇が幾人も現れた。だが、明治以降「万世一系」ということが言われ、男系男子で継承することが絶対の条件とされるようになった。それを強く主張する保守派は、その点だけを問題にし、天皇としての「資質」については、まったくそれを問うていない。
確かに、戦前まではそれで済んだかもしれない。だが、戦後の開かれた皇室においては、見られる存在としての側面を強く持つようになった。美智子上皇后や雅子皇后が、天皇や皇太子以上に注目を集めてきたのもそれが関係する。
国民は、皇室に対して、血統だけではなく、見られる存在としての資質を問題にするようになってきた。その点を、保守派はまったく理解していない。

最新刊の拙著『日本人にとって皇室とは何か』(プレジデント社)で述べたように、「愛子天皇待望論」が高まりを見せるのも、それが深く関係している。11歳の六代目菊之助に歌舞伎役者としてのカリスマが備わっているように、愛子内親王にも、皇族としてのカリスマが身についている。カリスマを持つかどうかの判断は難しいが、報道の多さや、国民が各所で愛子内親王の来訪を待ち望んでいるところに、それが示されている。
しかも、愛子内親王は現在の天皇と人気の高い雅子皇后の長女である。その点を踏まえ、多くの国民が、愛子内親王が次の天皇に即位することを望んでいるのだ。
■皇位継承の安定化への一案
十五代目片岡仁左衛門と言えば、玉三郎と同様に人間国宝で、しかも絶大な人気を誇っている。ところが、仁左衛門には我當(がとう)と秀太郎(故人)という兄がいる。兄の我當が仁左衛門を襲名するのが筋だが、そうはならなかった。そこに、確執があったのかどうかは知らないが、現・仁左衛門が襲名することが片岡家の繁栄に結びつくと判断されたから、兄を差し置いて仁左衛門という上方歌舞伎を代表する大名跡を襲名することになったのである。
もし、天皇家が伝統芸能の家であれば、愛子内親王に継承させることに躊躇(ちゅうちょ)しなかったのではないだろうか。
一方、悠仁親王は、皇嗣の秋篠宮の子どもということで、秋篠宮が天皇に即位するまで、「皇太子」になることはない。立場は曖昧である。しかも、天皇のもとで育てられたわけではないので、帝王学を十分に授かってはいない可能性がある。秋篠宮には、現在の上皇から天皇になるための帝王学を授かってはいないはずだ。
現在の天皇は日本国の象徴、日本国民統合の象徴であり、国事行為を遂行する責任を負っている。政治的な発言は事実上封じられているものの、政治と深く関わっていることは間違いない。
だが、これはあくまで仮の話だが、もしも天皇が象徴の役割から離れ、さまざまな公務を果たす伝統芸能の家のような存在に変貌したとしたら、愛子内親王が天皇に即位することに、何の問題も生じないはずである。
皇位継承の安定化に妙案がない現状において、それも一つの選択肢になるのではないだろうか。少なくとも検討してみる価値はあるはずだ。

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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)

宗教学者、作家

放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。

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(宗教学者、作家 島田 裕巳)
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