日本の医療が危機に瀕している。京浜病院院長の熊谷賴佳さんは「医療崩壊が進みつつある最も大きな原因は、医療データに基づいた医療政策の推進が行われていないことだ」という――。

※本稿は、熊谷賴佳『2030-2040年医療の真実 下町病院長だから見える医療の末路』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
■どんぶり勘定で診療報酬が改定
医療崩壊が進みつつある最も大きな原因は、医療データに基づいた医療政策の推進が行われていないことだ。これだけITが進んだ時代に、データに基づいた根拠もなく、単に、医療費が高騰しているから病院が儲けられないようにしなければというどんぶり勘定で診療報酬の改定も行われている。
厚生労働省の役人の天下り先の国立病院は、税金の投入で赤字が補填されるので、診療報酬改定で損失が出ても何も困らない。財布を握っている財務省も、病院は利益を得てはいけないという社会主義的な発想だけで動いているとしか思えない状況だ。
「日本の医療は世界一安価で良質」と豪語する政治家や医療者も多いが、そんなふうに思い込んでいるのはもはや日本人だけだ。「日本は医療が世界一安価で、フリーアクセスで恵まれている」というお題目をみんなで唱えて傷を舐め合っている。
新型コロナウイルス感染症対策で日本が後れを取ったことからわかるように、いまやシンガポール、台湾、韓国などの方が医療水準は高いとみられる。これらの国々はデジタル化が急速に進んだ。特にシンガポールは、世界の富裕層が治療を受けに集まる医療先進国になっており、もはや旧先進国に成り下がった日本など太刀打ちできないのではないだろうか。
■政府による「強制積立貯金制度」のあるシンガポール
シンガポールは人口約600万人(2024年時点)で、面積は東京23区とほぼ同じ約720平方キロメートルの小さな国だが、アジアのビジネスのハブとして発展してきた。主要産業の一つが観光であり、医療ツーリズムにも国をあげて取り組んでいる。
2030年には国民の4人に1人が高齢者になると予測されるなど、やはり少子高齢化が進んではいる。
だが、興味深いのは、シンガポールには日本とは異なり、公的医療保険や年金などの社会保障制度はなく、CPF(中央積立基金)という政府による強制積立貯金制度があることだ。被雇用者は、毎月の給与の中から一定額をCPFに積み立てることを義務付けられており、その拠出金は、住宅購入費や子どもの教育費を賄うための普通口座(Ordinary Account)と老後の資金のための特別口座(Special Account)、医療費を支払うための「医療口座(MediSave Account)」に振り分けられる。
個人の医療口座では賄えないような重病や難病など高額な治療費は、やはり原則加入が義務付けられている医療保険メディシールドライフ(MediShield Life)によって賄われる。積み立てができない生活困窮者向けには、政府が拠出している医療費補助基金メディファンド(MediFund)があり、受給資格が認められた患者に公的病院でのみ、この基金を使って無償で医療が提供されているのだという。
■医療ビッグデータの活用が進んでいる台湾
韓国や台湾は、日本と同じように皆保険制度を導入している。韓国は任意加入の医療保険からスタートしたが、1989年に居住者全員が加入する皆保険になった。保険者が乱立して格差が生じていたが、金大中(キムデジュン)大統領政権によって統合が進められ、2000年には全保険者が統合された。台湾では、職業別の医療保険制度が乱立していたが、1995年に全国民が加入する単一の保険者による「全民健康保険(NHI)」が導入された。
どちらも日本の皆保険制度と似ているようだが、全く異なるのは、ビッグデータとしての医療内容がデータ化され解析されていることだ。
特に台湾は、驚くほど医療ビッグデータの活用が進んでいる。約4000の病院と約2万の診療所、約6000の薬局のデータは、NHIメディクラウドシステムに集約される。
医師と患者が自分のICカードを差し込むと、その患者の医療情報にアクセスできるようになっており、検査や薬の処方の重複を防ぐなど、無駄な医療費の削減につながっている。匿名化されたビッグデータは、研究や医療政策立案のために活用されているそうだ。
■マイナンバーカードと保険証の一本化に四苦八苦の日本
新型コロナウイルス感染症拡大時には、当時デジタル担当政務委員だったオードリー・タン氏が、健康保険ICカードとマスクの購入歴を紐づけ、マスク不足時には大人1人週2枚を実名購入し混乱が起こらないようにしたことで話題になった。タン氏は政府が把握しているマスクの在庫データを公開した。そのデータは30秒ごとにリアルタイムの情報が更新される仕組みになっており、このデータを使って民間企業や技術者が、マスクの在庫がある薬局の情報を地図上に表示できるアプリなどを開発した。台湾政府が約20年かけて構築した医療ネットワークシステムが機能した例だ。
その頃日本は、新型コロナウイルス感染症の感染者の把握をする保健所がファックスでやり取りをしていることが話題になったくらい、IT化の遅れが露呈していた。コロナの混乱が落ち着いても、医療デジタル化の一歩となるマイナンバーカードと保険証の一本化にも四苦八苦しているような状況だ。新たな保険証の発行は2024年12月に停止され、マイナンバーカードに一本化されるが、未だ混乱が続いている。やっとマイナンバーカードと保険証、薬の服用歴などが紐づけられて、医療情報のデジタル化が進みそうだが、台湾、韓国などよりも相当遅れている。
■「本当に削るべき部分」を減らせない日本の医療
何しろ、日本では医療のデジタル化が遅れているため、各医療機関がどんな医療をしているのかがわからない。そのため、治療した結果、症状が改善したのか、アウトカムはどうだったのか、治療の内容は適切だったのか悪かったのか、判断する材料がないのだ。

例えば、鼻水と咳がひどいというAさんがBクリニックを受診したとき、肺炎も起こしていないし新型コロナウイルス感染症でもインフルエンザでもなさそうで、特段病名がつくような症状がないから風邪と診断したとする。一般的な風邪のほとんどはウイルスが原因だが、撃退する薬はなく、熱があれば解熱剤、咳を止める鎮咳薬や鼻水を抑える抗ヒスタミン薬などを出す対症療法をするくらいで、全く薬を出さなくてもいいくらいだ。
でも、極端な話だが、自分が欲しい薬をもらえなかったからということで、その日にAさんが別のCクリニックを受診したとしても、保険診療でまた診察してもらえる。症状が取れないからと、何回も受診したとしても安い再診料でまた診てもらえるし、データがないのだから無駄な受診だとクレームのつけようもない。こんなことをやっている限り、日本の医療は標準化されないし、本当に削るべき無駄な部分を減らせずに破綻するだろう。
■患者さんが「抗生物質ください」という日本
医療界では、標準化とかエビデンス(科学的根拠)などという言葉を使って、関連学会が診療ガイドラインを作ったりしているが、世界中で使われている標準化治療の徹底は、本来普通の風邪のように日常診療でよく遭遇するコモンディジーズ(一般的な疾病)で、どんな医師が診ても同じ結論しか出ないような病気にこそ必要だ。
風邪のようなウイルス性疾患には抗生物質(抗菌薬)は効果がないから使わないし、例えば、発熱症状に対する解熱剤などはウイルスがいる間の1週間以内ならともかく、それ以上は無駄であるというのが世界標準だ。ところが、日本では患者さんが「抗生物質ください」ということもある。特に高齢者は、若いころには開業医が風邪に抗生物質を出すのが当たり前だったせいか、ウイルス性疾患には抗生物質は効かないのに抗生物質を欲しがる人が多い。処方した方が患者の評判がいいからと薬を出す医師が少なくないのも問題だ。

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熊谷 賴佳(くまがい・よりよし)

京浜病院院長

1952年生まれ。1977年慶應義塾大学医学部卒業後、東京大学医学部脳神経外科学教室入局。
東京大学の関連病院などで臨床研究に携わったのち、1992年より京浜病院院長。祖父と父親とも医師という医師家系で育つ。オリジナリティー溢れる認知症ケアの発案のほか、地域が一丸となった医療サービスの実現をめざして院外活動にも積極的に参加。認知症や地域医療に関する著書多数。

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(京浜病院院長 熊谷 賴佳)
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