※本稿は、熊谷賴佳『2030-2040年医療の真実 下町病院長だから見える医療の末路』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
■若い医師は外科や産婦人科、救急科などを敬遠
海外へ目を移してみると、日本が2030年から2040年頃には直面する医療崩壊に近い状態になっている国もある。例えば、英国では、すでに皆保険制度が破綻寸前になって、医療へのアクセスが制限されている。日本の医療崩壊を食い止めるためにも反面教師となりそうな海外の例を紹介する。
2040年までは、特に都市部で命に関わる病気の手術や入院患者は増え続けるのに、医師や看護師、検査技師、臨床工学技士などの医療従事者が不足するだろう。生産年齢人口は減る一方なので、いくら医学部や看護学校の定員を増やしたところで、きつくてそれほど収入が高くない職種に若い人は集まらない。
すでに現時点でも、若い医師には、皮膚科や美容外科、眼科など、ワークライフバランスを取れそうな診療科が人気で、体力的にきつく長時間勤務を強いられるイメージのある外科や産婦人科、救急科などは敬遠されている。
中高年の医師が、いくら「俺たちの時代は休みなんかないのは当たり前だった」などと言っても時代錯誤だと笑われるだけだ。ほとんどの職種が人手不足で、働く側としては売り手市場なのだから、医師以外の医療資格を持っている人たちが、もっと勤務条件がよく収入も高い職種にどんどん流出してもおかしくない。このままでは、戦前の国民皆保険制度がなかった時代に逆戻りする恐れがある。
■病院の受診や手術の待機時間が長過ぎる英国
世界に目を向けると、医療制度は大きく3つのタイプに分けられる。1つは、英国やカナダ、スウェーデンなどのように、医療が100%税金で賄われている国営・公営方式、2つ目は、日本やドイツ、フランスのような社会保険方式、3つ目は、米国のように基本的には民間の医療保険を使って医療にかかる民間方式だ。
英国では、本書の第4章で紹介した家庭医であるGPを受診する際も、そこから紹介されて専門医のいる病院を受診する際も、救急医療も税金で賄われるので、自己負担なしで治療が受けられる。メンタルや生活面も含めてトータルに患者を診られる家庭医がいる点は評価できるが、問題は医療が常にひっ迫していて、病院の受診や手術の待機期間が長過ぎることだ。お金とコネのある富裕層の中には、手術が必要な病気になったときには、ドイツやフランスの病院で治療を受けている人もいるという話だ。
■1割以上が「受診待ち」をしている状況
コロナ対策で有名になったボリス・ジョンソン元首相が、首相に就任したときの公約の一つは、「GPに診てもらうのに3週間も待たないで済むようにすること」だった。2023年に実施された英国の国民健康保険サービスNHSに対する患者満足度調査では、NHSの現状に満足している人はたった24%で、1983年にこの調査が開始されて以来、過去最低を記録した。52%が不満と回答。
その理由で最も多かったのは、「GPや病院の予約を取るための待ち時間が長すぎること」(71%)だ。2番目が「NHSのスタッフが不足している」(54%)、3番目が「政府がNHSに十分な予算を割かないこと」(47%)で、48%の人が、政府がNHSへの支出を増やすための増税を支持している。
英国では、1999年に心臓手術の順番待ちリストに載っていた38歳の患者が死亡したことが問題になり、当時の労働党政権がNHSにさらなる資金投入をした。GPや病院の待機期間の解消は、首相が代わっても常に政府の大きな課題だ。
コロナ禍以降、その状況は悪化しており、NHSの公開データによると、GPから紹介されて病院での治療を待っている患者は2023年9月に過去最高の約770万人に達した。
■子宮頸がん、結腸がんの生存率が他のOECD諸国より低い
がん治療に関しては、英国政府は、2000年代半ばから、診断から治療開始までのプロセスを迅速化するために、少なくとも85%の患者が、GPから「がんの疑い」との紹介を受けてから62日以内に治療を開始することを目標にしている。しかし、2018~19年に62日以内に治療を受け始めた患者は79.1%で、62日以上待たされている人の人数は増加している。コロナ禍以降、62日以内に治療を開始できた人の割合は低下し、2024年5月時点で62日以内に治療を受けた人は65.8%だった。2022年に新しい基準が導入されているので単純な比較はできないが、約34%の人は2カ月以上待たされ、半年とか1年も待たされる人もいるのが現状だ。
治療開始が遅れる人が多いせいか、2019年11月に公表されたデータでは、子宮頸がん、結腸がんの生存率が他のOECD諸国より低くなっている。脳卒中の院内死亡率や閉塞性肺疾患(COPD)、喘息による死亡率もかなり高い。救急患者には4時間以内に対応する目標を立てているが、それも達成できていないため、待っている間に手遅れになって、助けられる命も助からなくなっているのではないだろうか。
■費用対効果が低い薬は保険適用非推奨
そして、英国では、NICE(National Institute for Health and Care Excellence:国立医療技術評価機構)という組織が費用対効果を評価している。既存の医療技術や薬より効果が劣り費用が高いものは保険適用にならない。そのため、日本で承認されている医療技術や薬でも、英国では使えないものがある。費用対効果が低い薬は保険適用非推奨とし、新薬は、効果が特に高いケースに限って保険収載を推奨している状況だ。
例えば、軽度認知機能障害や初期のアルツハイマー型認知症の進行を抑えるとされるレカネマブは、英国では効果に比べて費用が高すぎると判断され、公費で医療を提供するNHSでの使用は見送られることになった。確かに、レカネマブは、当初期待されたほど長期的な効果が得られるわけではなく、ごくまれではあるが、脳の腫れや脳出血などの副作用が報告されているので、適応基準が厳しい。
■2035年頃にはがんの手術も2~3カ月待ちに
診療報酬改定を審議する中医協にも費用対効果評価専門部会が設置されているが、現時点では、日本では1人の患者に年間約3500万円かかるような高額な薬でも保険承認されている。それが、健康保険組合の財政をさらに厳しくしている原因でもあるのだから、保険料や税金を払う国民の側からみたら、手放しで喜べない状況だ。
医療が常にひっ迫し、ある程度効果があっても高額のために保険診療では使えない薬が多数存在する今の英国の状態は、10年先、あるいは15年先の日本の未来だ。日本でも、コロナ禍で医療がひっ迫した時期、病院によってはがんの手術など、緊急度の低い手術は先送りされた。地方の病院や都市部の中小病院は経営難に陥って潰れ、2035年頃には、英国のように病院の予約が取れず、心臓の手術を待っている間に死亡する人が続出し、がんの手術も2~3カ月待たないと受けられないのが当たり前になるだろう。
■「高額な治療は所得の高い人だけ」の米国
もしくは、米国のように、高額な医療は、全ての医療がカバーされるような保険料の高い民間保険に入っている人のみ受けられるようになる可能性もある。米国では、病院にかかるとき真っ先に聞かれるのは、医療保険に加入しているか否か、加入しているのならどんな保険に入っているのかだ。日本も、ある程度のところまでは公的な医療保険で賄うけれども、高額な治療は所得の高い人だけしか受けられない米国に近い格差社会へ向かうのかもしれない。
日本の未来は英国か米国か、いずれにしても、破綻寸前の日本の国民皆保険制度が岐路に立たされていることは間違いない。
米国に近い形になるのなら、医療にアクセスできない人が大勢出るだろう。英国型を目指すのなら、今以上に医療財政はひっ迫して保険料と税金が上がり、医療従事者の人件費も抑えられる。そうなれば、医療や介護の担い手の大半は、海外からの人材になるかもしれない。
■外国人労働者の受け入れは問題を先送りするだけ
すでに、介護業界は、ベトナムやインドネシアなどから来た介護技能実習生がいないと回らない状態になっている。しかし、医療機関に関しては、外国人労働者の受け入れについては慎重になるべきではないだろうか。外国人労働者を受け入れれば、一時的に、医療や介護業界の人手不足は解消されるかもしれないが、問題を将来に先送りするだけだ。海外から来た医療従事者は、扶養家族を連れてきて、さらに健康保険財政を圧迫する可能性があることも考慮すべきだ。
若い外国人で医療・介護業界の人手不足を補っても、ほんの数十年で彼らも高齢化して医療や介護を使う側にもなるわけで、さらに医療財政を圧迫する原因になるかもしれない。移民政策が成功している国は少ないので、安易に外国人に頼らずに、国民皆保険制度を維持する方法を探るべきだ。
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熊谷 賴佳(くまがい・よりよし)
京浜病院院長
1952年生まれ。1977年慶應義塾大学医学部卒業後、東京大学医学部脳神経外科学教室入局。東京大学の関連病院などで臨床研究に携わったのち、1992年より京浜病院院長。
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(京浜病院院長 熊谷 賴佳)