5月21日、江藤農林水産大臣は「コメは買ったことがない」などと発言した責任を取り、辞表を提出した。歴史評論家の香原斗志さんは「江戸時代に起きた米騒動のときと状況が似ている。
約240年前も現在も、コメの安定供給を怠った『お上』に対して一般市民の抱く感情は同じだ」という――。
■「私はコメを買ったことがない」発言のマズさ
米価が下がらない。たとえば、5月5日から11日までの1週間に販売されたコメの平均価格は、消費税込みで5キロあたり4268円だった。この価格は1年前とくらべて102.5%も高い。
ほかの食品でもきついが、ことコメは日本人の主食である。それが2倍以上に値上がりして下がらないとなると、生活への影響はかなり大きい。なかなか上向かない消費者心理にも波及して、景気がさらに冷え込むのではないかという心配も募る。
そんなときに飛び出したのが、江藤拓農林水産大臣(当時)の問題発言だった。5月18日に佐賀市内で講演し、「私はコメを買ったことがない。支援者の方々がたくさんコメをくださるので、まさに売るほどある。私の家の食品庫には」と発言したのは周知のとおりである。
翌日、発言の意図を問われ、「消費者に玄米でも手にとってほしいと強調したかった」と説明したが、なにをいいたいのかまるでわからない。

結局、更迭されたが、ひとついえるのは、江戸時代であれば、とりわけ現在放送中のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢~」の時代であれば、江藤前大臣は打ちこわしに遭っていたかもしれない、ということである。
■コメの値段高騰の最大の原因
「令和の米騒動」においても、これほど米価が高騰し、下がる気配がない最大の原因は、コメを集荷したJA全農が農水省と一体になって米価を操作するために、流通量を調整したから、つまり、市場に供給する量を抑えたからだろう。なにしろ、備蓄米にしてもいまだに9割以上が市場に出ていないのだ。
投機が目的の買い占めおよび売り渋りや、いわゆる「転売ヤー」が介在しているからだ、という指摘もある。だが、そもそもJA全農自身も、消費者から見ればコメを貯めこみ、買い占めや売り渋りをしていると解釈されても、仕方ない状況だといえるだろう。
しかし、コメの価格を操作しようなどと目論めば、蔦重こと蔦屋重三郎が生きた時代には「打ちこわし」、すなわち家屋を破壊して品物を奪ったりする民衆の暴動の対象になることが多かった。
したがって、「売るほどある」とまで大口をたたいた江藤前大臣も、打ちこわしの対象になってもおかしくない。そもそも民衆心理をおおいに逆なでした時点で、打ちこわしを免れなかった気もする。
それでは蔦重の時代には、米価はどのように上昇または下落を繰り返し、その影響でなにが起きたのか、江戸を中心に見ていきたいと思う。
■幕府が米価操作するようになったワケ
幕府の直轄領は多いときで450万石ほどに達した。日本の総石高が3000万石程度だったから、全体の15%ほどになる。だが、「石」とは年貢米を計る単位で(1石は100升、1000合)、幕府も諸藩も、これを市場で現金化する必要があった。
だが、米価が低ければ歳入が減少してしまう。
それでは困るので、幕府は米価を操作するようになった。幕府がコメを買い上げることで、米価を上げようとしたのだ。しかし、先立つものがないので、富裕な町人や豪農、主として大坂の豪商に「御用金」を科した。御用金とはいまでいうところの国債で、利息がついて返済されるのが建前だったが、現実には、強制的に割り当てられ、踏み倒されることも多かった。
幕府が米価を上昇させる目的で、御用金をはじめて徴収したのは、寛延3年(1750)に生まれた蔦重が数え12歳になった宝暦11年(1761)。10代将軍家治が就任して2年目のことだった。このころはコメの豊作が続いていたのである。
ところが、米価は調整などせずとも高騰するようになる。原因は天候不順で、天明2年(1782)には江戸時代の三大飢饉のひとつ「天明の飢饉」がはじまった。とくに東北や関東で被害が大きく、翌天明3年(1783)には浅間山が噴火して追い打ちをかけた。
噴火で周辺地域の農業が全滅しただけではない。
江戸時代は世界的に「小氷河期」と呼ばれる寒冷な時期で、ただでさえ冷害の影響を受けやすかった。加えて、浅間山の噴煙が成層圏まで達し、気温のさらなる低下をもたらした。
■コメ不足で起こったこと
こうしてコメ不足が深刻になり、火山灰により各街道の交通にも支障が生じ、コメの流通が困難になった。その結果、農村では飢餓が深刻になり、米価がどんどん高騰することになったのだ。
こうなると、いつの時代にも登場するのである。コメを買い占め、投機による利益をねらって売り惜しみをする商人たちが――。
騒動はまず、浅間山に近い地域で起きた。天明3年9月、上野国(群馬県)の西部の農民たちが立ち上がって、コメを買い占めている商人たちの店舗や家屋を破壊したり、焼き払ったりした。むろん、圧力をかけられた商人たちが、買い占めたコメを市場に放出することを期待しての行為だった。
10月には信濃国(長野県)の農民も加わって、商人たちへの打ちこわしが続けられたが、最後は武力で鎮圧された。しかし、同様の打ちこわしは、主に東北から関東にかけて広く行われ、幕府は強い衝撃を受ける。しかも、飢饉といわれる状況は緩和されておらず、こうした打ちこわしが全国に広がり、さらには江戸が対象になる危険性もあった。

そこで幕府は、老中の田沼意次を中心に対応策に追われることになった。
■問屋を通さずにだれでも売れるように
江戸では上野国や信濃国で農民たちが暴動を引き起こす前から、天明の飢饉を受けて米価が高騰していた。そこに浅間山の噴火も加わったので、幕府はお膝元の江戸で米価を引き下げるように命じている(安藤雄一郎『寛政改革の都市政策』校倉書房)。
その後も幕府は次々と手を打った。12月には、全国の譜代大名の居城に備蓄された「城詰米」のうち、飢饉の被害が小さい近畿、中国、九州の大名のものを江戸に回送するように命じた。翌天明4年(1784)になると、町奉行所が江戸市中の米問屋の米倉について見分を繰り返し、コメを隠さずに売り出すように圧力をかけた。
また、幕府は「米穀売買勝手令」を時限的に発布した。コメの販売と流通にかかわる業者を制限していたのを一時的に解除し、問屋を通さずにだれでも売れるようにしたものだった。
それでも、効果が上がらなかったのは、絶対的にコメが不足しているのに加え、買い占めて売り惜しむ商人が、江戸でも近郊でも跡を絶たなかったからである。コメが不足すれば、いつの時代も似た状況が生まれる、ということだろう。2月末には、多くの農民が現在の武蔵村山市に集結し、コメを買い占めたり売り惜しんだりしている商人たちへの打ちこわしを行った。
それでも、まだ天明5年(1785)までは、打ちこわしは東日本にしか広がらなかった。
しかし、風水害の影響が全国におよび、コメの収穫高が平年の3分の1にまで落ち込んだという天明6年(1786)になると、状況は変わった。
■全国30カ所以上で打ちこわしが発生
幕府はふたたび「米穀売買勝手令」を発布したが、今度はコメをあつかう業者以外の商人が買い占め、米価は下がらなかった。続いて江戸町奉行が、大坂から回送されたコメを仲買をとおさずに小売りできるようにした。仲買のマージンを削って米価を引き下げようとしたのだが、流通現場が混乱しただけだった。結局、いくら流通を促進しようとしても、買い占めて利益を得ようとする商人が次から次へと現れたのである。
当時、コメの全国的な流通網は、大きく発展を遂げていた。それだけにコメが不足すると、投機筋が介入しやすくなっていた。また、各地にコメ市場が発達し、大坂に集まる米の量が安定を欠くようになっていた。そこに天明6年(1786)の不作が加わった。
天明6年(1786)8月に将軍家治が病死すると、老中の田沼意次は更迭されるが、飢饉と米価高騰の責任をとらされた面は否定できない。
天明7年(1787)5月、大坂で打ちこわしが発生し、コメを買い占めているとみられる商人が次々とねらわれ、その動きは大坂中に拡大。民衆は店舗を破壊し、金銭や商品、帳面などを次々と川に放り投げた。

この流れが関西全域に広がり、あっという間に中国、九州、北陸、東海、関東、東北、四国へと波及し、天明7年5月だけでも全国30以上の都市で打ちこわしが発生。これは江戸時代をとおして最多の数字である。
■江戸の商家500軒以上が破壊された
この時期、江戸でも小規模な打ちこわしが発生するようになっていた。米価は天明7年4月から5月には、2年前の2倍、3倍に高騰。困窮して隅田川に身を投げる人が急増したという。その前に餓死者も少なくなかった。そして5月20日、赤坂の米屋など20~30軒が打ち壊されると、もはや歯止めがかからずに、江戸中で打ちこわしが荒れ狂うことになった。
結局、江戸で打ちこわしの被害に遭った商家は500を上回るという。打ちこわしに参加した人たちは、「コメの値段を下げて世の中を救うためだ」「コメを買い占め売り惜しんだ者は人々の苦しみを思い知れ」といった内容を大声で叫んでいたと記録されている。
もちろん、当時と現在を簡単には比較できない。米価が2倍になっても、いまは困窮者が餓死したり、次々と身投げしたりする状況下にはない。とはいえ、打ちこわしへの参加者たちの声は、いまの消費者の叫びと重なるのではないだろうか。それに気づかなかった江藤前大臣の感覚および認識のまずさも、農水省の無策もJA全農の身勝手も、ますます浮き彫りになるともいえる。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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