■事前に力を出し尽くして本番に臨め
わたしは野球観戦が好きで、といってももっぱらテレビ観戦なのですが、メジャーリーグを観るたびに感心させられることがあります。選手たちはみな巨体を誇りながらも、動きがとても滑らかなのです。
ネクストバッターズサークルから打席に向かって歩を進め、バッターボックスで足元の土を踏み固めてから、すっとバットをかまえる。その一連の動作には力みというものが感じられない。すぐれた選手であればあるほどそうです。バットを振って塁上を駆けるにしろ、打球をキャッチして送球するにしろ、その流れるような軽快な身ごなしに、わたしはいつも惚れ惚れしてしまいます。
彼らのそうしたパフォーマンスは入念な準備あってのことで、練習のときに相当自分を追い込んでいるのは想像に難くありません。練習の段階でもがき、力を出し切る。力を絞り出したあとだからこそ、本番で無駄のない動きができるのだと思います。厳しい練習、そして本番。それをひっきりなしに反復している。
■孤独があなたを豊かにしてくれる
彼らのようなトップアスリートにかぎった話ではありません。
キャリアを積み、肩書きを得て、仕事に充実を覚えていても、油断は禁物です。現役であるかぎり、能力に磨きをかけ続けなければ、たちまち錆びつく。繰り返し述べているように、向上するための手間隙を惜しんではいけません。
独りの時間、孤独の中で思考を重ねる営みは、あなたを豊かにします。そうした準備、練習が、仕事に幅をもたらす。あなたを解放する。
毎日忙しくて、思考を重ねるなんて悠長なことをやっている暇はない。あなたがもしそう思うのであれば、あなたのいまいる環境は、望ましいものではない。あなたがやっていることは惰性であり、思考停止です。仕事の奴隷になりかねない。
惰性ではいい仕事はできないし、そのうち虚しさにとらわれてしまうでしょう。
小説を書くうえでも、だいたいこんな感じでいいだろう、なんて高を括って書いていると、すぐに行き詰まって、ろくなものにならない。自分なりに描いた理想に沿って書きはじめてみるものの、なかなかうまくいかず、じきに壁にぶつかる。書いては書き直し、そうやって無駄な力を使い、資料をひっくり返したり、人の本を読んでみたりして、もがく。
その果てにブレイクスルーがあるわけです。もがいた結果として、やっと書き進められるようになる。傍目(はため)からすれば、それまでの時間は無駄なものに見えるでしょうが、これは本番に臨むにあたって、もう一度懸命に練習している過程といえます。
■仕事とは手探りであるべきだ
小説を書くのは、言葉をひとつひとつ手探りで見つけていくような感覚に近い。少なくともわたしの場合はそうです。ぽこぽこと頭の中に浮かんできてくれるなら楽なのですけど。
この言葉で大丈夫だろうか、そもそもいま書こうとしている小説はこの文体でいいのか。そういうことを気にかけて、試行錯誤しながら一歩ずつ進む。
書き継いできた原稿を読み返すような、短期的な確認は頻繁ですし、それでも書きあぐねるようなら、もっと長い視点で振り返る。
待てよ、おれは作家としてどこに向かおうとしているのだったか。かつてあの作品を書き上げたとき、どんな心境だったか。そもそも中学生や高校生のおれは、どんな思いで本に触れていたのだろう。小説とはおれにとってなんだったか。小説を書くことに対して不誠実になってはいないか――。
とりとめのない思案を巡らし、昔夢中になった本を手にとって、自分の感覚をあらためて研ぎ澄ませようと試みることもあります。そうやって行ったり来たりしながら、なにかをつかんでいくしかない局面もあるわけです。
小説家でなくても事情は似たようなものではないでしょうか。仕事とは手探りであるべきはずです。あれこれ考えながら挑戦し、いまだ見ぬなにかを手にする。
練習と本番の絶え間ない繰り返し。そこに喜びがあり、人生の手ごたえがあるのだと思います。
■新しい発見の手がかりは過去にある
出発点を振り返る。
あなた個人の行跡をたどるのも有意義ですが、あなたの職業にかかわる分野を俯瞰して、歴史を掘り起こす作業も資するものは大きいはずです。
わたしにとっては、過去の作家の作品を読むことが、それにあたります。
温故知新という言葉がありますが、どんな分野でもその礎たるスタンダードがあり、それを知ることで、なにが新しいのか、未開拓の地はどこにありそうなのか、その手がかりを得られます。
あなたが身を置く業界の歴史を振り返ることは、鉱脈を探り当てるための営みになるわけです。ひも解けばもちろん、ポジティブな事柄だけではなくて、社会的災害に関与していたとか、大きな不祥事を働いていたとか、負の側面も見えてくるでしょう。
■先達がしてきたことを観察せよ
それら一切合財を含めて知ることに大きな意味があります。
あなたの職業は、すでにだれかがやっていることです。たとえ業種として新奇なものだとしてもルーツは必ず存在し、過去の遺産のうえに成り立っています。なにもないところから、なにかが生まれることはありえない。
わたしがまったく新しい小説を書いたといくら自負してみたところで、日本語の歴史的体系を利用しているのは揺るがない事実ですから、先達の営みを手本にしていることになります。
その業界、その職業の先達がどういうことをしてきたのか。それをじっくり観察してみる。
ひょっとしてあなたの目にはどれもつまらないものに映るかもしれない。それはそれで大きな収穫です。つまらないのなら、それではなにがおもしろいのか。おのずとあなたの思考はそのように切り替わるのですから。
いま現在にとらわれず、立ち止まって原点を振り返る。流行は脇に置いて、新しい発見に挑みましょう。
■無知を知り、無力感に浸れ
年齢を重ねると、人は歴史好きになるようです。さまざまなキャリアを積んだうえで、過去に関心が向くのは、やはりそこから新しいなにかを見出したい、味わいたい、という欲求が高まるからかもしれません。
先達がなしたことはこんなにすごかったのか。
たとえば、川端康成や谷崎潤一郎は大正時代から昭和中期にかけて活躍した文豪で、わたしは彼らの作品を愛読してきました。若い時分はただおもしろくて読んでいたのですが、いざ同じ職業に就いてみると、当たり前ですがこれはやっぱり永久に追いつけるものではないと痛感します。自分はなにもわかっていなかったということが、やればやるほどわかるわけです。
どうやっても川端や谷崎の文章にはかなわない。彼らに較べて、自分は無力であると心の底から思う。きっと追いつけはしない。それはわかった、でも、だからといってやめてしまうのか。いやそれはできない。追いつけないまでもできるかぎりのことをしよう――。そういう覚悟というか、肚(はら)が決まる。
自分の無知や無力を思い知るのは、歓迎すべきことです。客観的に自分の立ち位置を把握できるのですから。
他人から「だめなやつだ」と言われると腹が立ちますし、それ以前に、そもそも面と向かってそんな言葉を吐く人はそうそういない。それなら自分で自分を客観視し、「ちょっとおれは足りないぞ、なにもできていないな」と自覚するほかありません。
■頼れるものはなんでも頼れ
真剣に仕事を突き詰めていくと、必ず壁にぶつかります。乗り越えられると高を括っていたところで簡単につまずいてしまう。そんなときは、自分の無力を潔(いさぎよ)く噛みしめるべきです。ああ、自分はまだなにもできないのだと。
「まだ」という部分が大事です。まだできていないということは、これから先できるようになりたいし、できるようになれるはずだという希望につながります。
無力感をしっかり受け止め、無力な自分の中にしばらく浸っていられるだけの体力、気力を養っておきましょう。さんざん無力だ、なにもできないと感じて、少しくらい腐ってもいい。そのあと自分のやるべきことを考え、しっかり顔を上げて実行に移すのです。
先達はいつも豊かな学びをもたらしてくれます。なにかをしようとするときは、具体的なだれかを思い浮かべるのがいい。尊敬できる上司、家族、歴史上の人物。見渡せば、ふさわしい人がいるはずです。
あの人ならこういう状況ではどうするのだろう、まずどういう行動を取るだろうか、あるいは、あの人はあのやり方でうまくいったけど自分は別のルートで頂上を目指すほうが向いているかもしれない、そうやってだれかに自分を重ねながら考えてみると、思いもよらぬ打開策が見出せるものです。
頼れるものはなんでも頼る。それくらいの心意気で臨まなければ、やりたいことを貫くのは難しいのです。
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田中 慎弥(たなか・しんや)
作家
1972年、山口県生まれ。2005年に「冷たい水の羊」で新潮新人賞を受賞し、作家デュー。08年、「蛹」で川端康成文学賞、『切れた鎖』で三島由紀夫賞を受賞。12年、『共喰い』で芥川龍之介賞を受賞。19年、『ひよこ太陽』で泉鏡花文学賞を受賞。『燃える家』『宰相A』『流れる島と海の怪物』『死神』など著書多数。
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(作家 田中 慎弥)