国内に流通する衣料品は、輸入品の割合が98.5%(日本繊維輸入組合統計)を占め、国産品は1.5%ほどしかない。このまま「日本製」の服は消えてしまうのか。
ジャーナリストの座安あきのさんによる連載「巨人に挑む商人たち」。第2回は「ユニクロ、ワコールが手を出せない『島崎』の国産技術」――。
■「ずっとかゆみに苦しんでいた」人生を変える下着
「スリップ」や「シミーズ」と聞いて、懐かしいと感じるあなたはおそらく40代以上だろう。ファッションに流行り廃りがあるように、ブラジャーやショーツなどインナーも時代とともに求められる形や機能が変化してきた。一方で、「いかに安く作るか」に力点が置かれるようになった生産現場は、淘汰の波にさらされるようになった。
埼玉県秩父市に本社を置く創業72年の島崎はかつてスリップなど女性用下着の大量生産を主力としていたところから、ユニクロもワコールも手が出せない「困りごとに寄り添う」ニッチな市場に挑み業績を黒字化させ、閉鎖の危機にあった岩手県陸前高田の自社工場を存続につないだ。改革を主導したのは3代目社長・嶋﨑博之さん(51)。大手商社勤務から28歳で家業を継いで今年で23年になる。激動のアパレル業界を、いかにして生き抜いてきたのだろうか。
「ほかの下着は全部捨てました。ずっとかゆみに苦しんでいたので、フリープに出会えて、人生が変わりました」
島崎社長・嶋﨑博之さんは4月、横浜市内の皮膚科医院で定期開催している販売会で、参加者の一人からこんな声をかけられた。
「ものづくりをやっていて、本当によかったと思える瞬間ですね。
以前、営業担当の社員に『社長、どんなに厳しくてもこのブランドやめられないですよ』と言われたことがあって。社会的な使命というか、それを年々強く感じるようになっています」
■6500件超のアンケートが語る切実な悩み
岩手県・陸前高田にある島崎の子会社シェリールの縫製工場には現在、20~60代の60人が勤務している。主に手掛けるのは自社ブランド「Fleep(フリープ)」のブラジャーやショーツ、キャミソールなど70アイテム。秩父の本社には東京営業所を含め、マーケティングから製品の企画、デザインなどを担当する38人の従業員がいる。本社で試作を重ねて起こした設計に従い、陸前高田の工場で、裁断から縫製、検品、出荷までを担う流れだ。
ネット販売で商品と共に同封する紙のアンケートの返信は、年間700件超。集計を始めた2017年から8年間の累計は6500件を超えた。
・化繊はかゆみが出るので着用できない。いろいろなものを探して行き着いたのがフリープでした。

・ゴムや縫い目などの少しの圧迫でじんましんが出て痒みで夜寝られなくなるので、フリープの商品はありがたい。

・皮ふがかゆく、以前着ていた下着(ブラ=日本製)でも赤みがひどくなってきている。(中略)出会えたことがうれしい!!
アナログな調査スタイルながら、手書きのメッセージからは想像以上に、買い手が肌にまつわる切実な悩みを抱え、下着の着心地や肌触りに細かな要望を持っていることをうかがい知ることができる。

素材の特性から、FleepはNPO法人日本アトピー協会から推薦品の認定を受けている。売り出した当初はなかなか認知されず伸び悩んでいた。だが、化繊でできた吸湿発熱のヒート素材のインナーで皮膚疾患を起こす事例が増えつつあり、下着選びに悩む人たちを中心に口コミで少しずつ知られるようになった。
■50年の改良を重ねた「わた」に戻す特殊技術
さらに、思いがけないところでは「術後の傷にやさしく、愛用している」という乳がん患者からネットの書き込みが入るようになる。乳がんの治療にあたる病院や皮膚科医院などを通して情報発信されるようになり、年間10万枚を安定的に生産できるようになった。5年前、評判を聞きつけた台湾の卸業者から問い合わせを受け、台北市内の百貨店や大学病院向けにも出荷を始めたという。
フリープには、スマイルコットン社製(三重県川越町)のコットン素材が使われている。同社2代目・片山卓夫さんが1973年に開発して以来、50年にわたって改良を重ねてきた。特殊な生地の製造工程はこうだ。
紡績会社から仕入れた糸を、撚(よ)りぐせを残したままほぐして「わた」に近い状態に戻すところから始まる。その柔らかい繊維の束がばらけないよう、特殊な補強糸を巻き付け、そのまま生地を編み上げていく。補強糸は精錬の過程で最終的には溶けてなくなるという。
「わた」の状態になった繊維は間に空気を含み、洗濯を繰り返してもふわりとした肌触りが保たれる。洗うと硬くごわつくコットンの特性を覆し、軽くて丈夫で保湿性にも優れた素材を誕生させた画期的な技術だ。
「どこにも真似できない、というより、手間がかかる分コストもかかるのでどこもやりきれない」とスマイルコットン3代目社長・片山英尚さんはいう。「父は昨年亡くなったのですが、とにかくものづくりが好きで、人の困りごとを想定しながら、いつも技術を追求していました」と振り返る。
■「どこにも真似できない、というよりどこもやりきれない」
「こんなに気持ちのいい素材は他にない」。2006年、アパレル関連の展示会でスマイルコットンに出会った博之さんは、片山さんの技術の高さと思いに触れ、すぐに国産自社ブランドの商品開発に動き出した。
「大手にはできないことをやらないといけない、という考えが片山さんと一致して。素材に合わせ、肌の弱い人でも安心して着てもらえるような縫製にしようとこだわりました」
品質表示のタグや縫い目を表に出し、縫い方を工夫して糸が極力肌に当たらないように仕上げている。一般的な製品と生産工程を比較すると、その煩雑さは一目瞭然だ。
ブラジャーは29工程(一般品約20工程)、ショーツ19工程(同約8工程)、8分袖の肌着14工程(同約8工程)など。工程数が多い分、効率よく多品目を生産できるプロセスの構築が課題だった。1人の職人がさまざまな縫製部分をマルチに手掛けられるような体制を組み、受注状況に応じて臨機応変に生産数量をコントロールできるようにした。

島崎がFleepを発売したのは、博之さんが先代の母・洋子さんから経営を引き継いで5年がたった2007年のことだ。社長就任前年の2001年には、秩父本社の縫製工場を閉鎖し、30人の社員の解雇を断行するつらい役目を負った。伊藤忠商事でアパレル企業の生産在庫の管理業務に携わった経験や、家業にしがらみがなかったことで、博之さんに白羽の矢が立ったのだ。
■日本国内で「日本製」が消えかけている
祖父の代から事業拡大を続け、最盛期には協力工場を含めミシン300台、240人が働いていた。だが過去30年の間に縫製業の衰退は、顕著に進んだ。さまざまなコスト削減をやり尽くす中で、1989年から100%子会社としてもつ陸前高田の工場の稼働を上げ、なんとか存続させようと誕生させたのが、Fleepだった。
国内に流通する衣料品は、輸入品の割合が1990年代は5割程度だったが、2023年には98.5%(日本繊維輸入組合統計)となり、国産品はとうとう1.5%にまで落ち込んだ。日本を代表するインナーメーカー大手のワコールは下着販売の低迷を受け、昨年国内5工場のうち3工場を閉鎖・譲渡した。
島崎の年間売上高は約16億円。国内製造に特化したフリープとは別に、メインの事業は相手先ブランドの設計製造(ODM)事業で、その生産額が全体の8割を占める。その分野では現在、雑誌『ハルメク』や『通販生活』など大手通販会社を中心に15社のオリジナル商品を企画生産している。生産拠点は陸前高田に加え、2021年に倒産した福島県棚倉町の縫製工場を承継したほか、海外に計6カ所の提携工場がある。
全部で年間200~250アイテム、総勢約480人の手によって島崎の商品が生み出されていることになる。
■国内45%、海外55%のベストミックス戦略
拠点別の生産数量は国内45%、海外55%の割合。世界の流通動向、原材料や人件費などを考慮しながら、経営資源のベストミックスを探っているという。コロナの感染拡大期にサプライチェーンが崩れた時には、図らずもリスク分散の機能が発揮された。生産立地にかかわらず、スタッフの対話の頻度や技術連携の密度によって、いかに品質の再現性を高めるかが、経営の腕の見せ所といえそうだ。
「自分たちで工場を動かし縫製しているので、ベトナムや中国の工場のスタッフが難しいと感じるポイントがわかる。業界では工程ごとに分業の発注体制が一般的になりましたが、デザインや素材の選定段階から縫製を想定して、細かな仕様書と合わせてサンプルを起こせるのが私たちの強みだと思っています」
流通構造が大きく変化してきたアパレル業界の一角で、島崎がデザインからすべて自社生産という体制をここまで維持できたのはなぜか。会社の歴史を振り返ると、歴代社長の先見性と柔軟性、そしてその実現性を裏打ちする、専門知識や技術の獲得に意欲を燃やし続けたことが、人を育て、商品を育てる原動力になったことを、教えてくれる。
島崎の家業の源流は今からおよそ100年前、博之さんの祖父で創業者の嶋﨑義孝さんが15歳で秩父の織物買継商に丁稚奉公に出たところにさかのぼる。江戸時代から養蚕が盛んな地域で、多くの織物工場が立ち並んでいた。終戦から3年後の1948年、義孝さんが前身となる「島崎織物工場」を始め、53年に株式会社を設立した。
■皇太子・美智子妃殿下が視察するまでに成長
戦後の物資が不足した時代に、他の業者がやらなかった高級座布団地の製造を手掛けて売り上げを伸ばした。
それもすぐに厳しくなるとみた義孝さんは、「トリコット」といわれる下着の生地の製造に乗り出す。当時、その先進地だった栃木県足利市から技術者2人をスカウトしてドイツ製の編み機を導入し、生産体制をいち早く整えたという。
「旭化成のベンベルグという、現在もある糸なんですが、それを使って生地を編み、旭化成さんに卸していました。そうしたら非常に腕がいいと評価されて。その余った生地を使ってスリップなどを作ったというのが、女性用下着をつくり始めたきっかけです」
織物業から縫製業へ。大きめサイズのランジェリーや袖付きの冬用スリップなど、独自のアイデア商品を次々開発し、人気を集めた。1964年には、当時の皇太子・美智子妃両殿下が、秩父の工場を視察に訪問されたこともある。事業は順調に伸び、義孝さんは地域を代表する経営者として業界を引っ張っていく存在となる。
■離婚届を置いて父親が家を出た10歳の記憶
そんな義孝さんには息子がいなかった。3姉妹の長女洋子さんが婿養子を迎え、家業を継いでもらうことは最初から「決められたこと」だったという。会社の後継ぎに選ばれたのは、取引先の大手商社に勤める一流大学出身の男性だった。2人の間には69年に長女が、73年に博之さんが生まれ、家庭では幸せな時間を過ごした。だが、仕事では社長の義孝さんと専務の男性はぶつかりあい、仕事上のある深刻なミスをめぐって婿と舅の関係が決裂。男性は離婚届を置いて家を出て行ってしまった。博之さんは10歳だった。
洋子さんが離婚届を提出してわずか1週間後、病気で入院していた義孝さんが息を引き取った。1983年9月、享年70歳。「会社はたたんでもいい」と言い残したが、幹部や社員が事業の継続を強く望み、洋子さんに社長になってほしいと頼み込んだ。父親から会社のことには一切関わるなと線を引かれ、家業からはほど遠いところにいた。だが、社員の行く末を思い「ダメで元々、3年だけなら」と洋子さんは承継を決意する。
38歳、就職未経験の専業主婦から社員約150人の会社の社長へ。洋子さんの就任は、バブル経済に向かう時代の後押しもあり、「第二の創業」ともいえる大きな転機をもたらすことになる。1980年代はダイエーやイトーヨーカ堂、西友など大手量販店が全国各地に出店攻勢を強め、それに伴って、製品の出荷量も右肩上がりに増えていった。約束の3年目には、父親の業績を超えて売上高10億円を突破、社長10年目の1993年には20億円を超えた。
■大量製造から「一人一人が元気になれる商品を」
好業績は景気の要因をはるかに上回って、洋子さん持ち前の感性と行動力のなせる技だった。ランジェリーの他に、ショーツやガードル、ブラジャーなどに商品を広げた。女性の体型の経年変化を分析して開発した下着「ユトリーナ」や、自身が婦人科系の手術を受けた際の経験をもとに開発した「ヘルシーガードル」など、利用者目線にたち、着やすくておしゃれで、悩みやつらさに寄り添うような企画でヒット商品を次々に生み出したのだ。
洋子さんの社長就任から丸1年がたった頃、デザイナーとして採用された入社41年の小池京子さん(63)は、当時をこう振り返る。
「量販店向けに大量生産するような商品から、徐々に、お客さん一人一人が元気になれるような商品をつくっていこう、というほうに向かっていきました。企画やパターンづくりに必要な技術を学ぶために、社長がいろいろなところから専門家や技術者の方を連れてきてくださって、みんなで勉強しました。限られた価格設定の中で、より良いものを作っていこうという雰囲気があり、とてもやりがいを感じました。それがそのまま今に受け継がれていると思います」
小池さんは昨年、専門家の知見を借りて、「骨盤臓器脱」や「排尿障害」に悩む人向けの新作のガードル「ソコブラ」の商品化を担当した。バックサイドのベルトやホックなど複雑な設計で随所に細かな縫製が施されている。1万円を超える価格ながら売れ行きがよく、「困っている人に届けられている」という手応えを感じているという。
■川をさかのぼる黒い大津波が工場を襲い…
先代の洋子さんは工場の立地選びでも、自身の直感を大切にした。同業他社が人材豊富な東南アジアに続々と進出する中、岩手県陸前高田を生産子会社の候補地に選んだ。交通や物流の便が良くないと幹部は反対したが、短大時代に同級生の実家を訪れた時の思い出、豊かな自然や美味しい食べ物、人の温かみに引き寄せられた。市役所の誘致担当者から海沿いの物件を案内された時、ふと見上げた高台に輝く夕日を見て、その山のふもとに用地を求めた。1989年、子会社「シェリール」を設立、35人の社員で操業を始めた。
2002年に博之さんが秩父本社の社長を引き継いだ後も、洋子さんはシェリールの代表権をなかなか譲ろうとしなかったという。
「会社の経営が厳しくなり、いつ工場が閉鎖されてもおかしくないという状況でした。母は口にはしませんでしたが、自分がいる間は絶対に潰させないと思っていたのでしょうね。頑として譲りませんでした」
そして、2011年3月11日午後2時46分、工場のある街を、大地震と大津波が襲った。
陸前高田の工場には、洋子さんがいた。停電して天井が崩れ落ち、社員は屋外へ避難した。だがその直後、家族を心配して自宅に戻りたいという社員たちを洋子さんが、帰してしまったのだ。地震発生から40分、高台にある工場の駐車場から街を見下ろしていると、黒い津波がすぐ真下を流れる気仙川をかけのぼってくる様子が目に飛び込んできた。
■「思い」だけでは会社は守られない
「自分の判断のせいで、一人でも死んだら会社はやめる、母はそう思ったそうです。幸い社員は無事でしたが、12人が家族を失い、17人が家を失いました。あの震災は私の中でも大きなターニングポイントになりました」と博之さんはいう。
「あの街の状況を目の当たりにして、厳しいので工場を閉めますなんて、言えるわけがありません」
陸前高田にあった事業所の9割が、津波にのまれるなどして事業を継続することができなくなった。残る1割に含まれた会社の責任と使命を、この時博之さんははっきりと自覚したのだという。
洋子さんは3年前、膵臓がんを患い77歳で亡くなった。今年創業37年を迎えたシェリールには社歴37年の社員が9人いる。今日もここで、手に職を得た人々の技術によって、人の喜びや悩みに寄り添う製品が一枚一枚、丁寧に生み出されている。
だが、「思い」だけでは会社は守られない。縫製業の見通しは、決して明るいものではないからだ。賃金や原材料が上昇し、人口減の加速によって人材もマーケットも急速に萎んでいく。生産拠点を万が一手放すことになれば、復活は二度とかなわないだろう。工場を守るために、何をすればいいのか。努力や工夫のやりようは、メーカーだけに課されたものではない。
■老舗卸とのタッグで「大手にできない分野」を確立
博之さんには、頼りにしている老舗の卸問屋がある。東京日本橋にある創業123年の「エトワール海渡」は、卸事業を通して島崎と60年以上にわたって取引を続ける企業の一つだ。大手量販店とは異なり、全国各地、台湾や韓国など東南アジア地域の約1万の会員店舗とつながる販路を強みにしている。
島崎が量販店中心の事業からの脱却を模索し始めた2001年、エトワールはその取り組みを後押しするように、オリジナル商品の開発を依頼した。モダール(レーヨンの一種)素材の「とろ~り極上インナー」シリーズは発売から今年で23年、販売累計19万枚、現在も国内外1430店に卸すロングセラー商品となった。しかし、小売店のオーナーの高齢化や廃業、それに伴うエトワールの事業規模の縮小の影響もあり、全体の取扱高はピーク期の10分の1に落ち込んでいるのが実情だ。同社は打ち手を探っている。
原材料供給から製品に連なる川上の生産現場、川中の卸、川下の地域の小売店の三者は、日本の商業文化を支えるいわば、運命共同体の関係にある。それぞれが先行きの厳しい経営環境に置かれているが、裏を返せば「大手にはできない分野」で互いの結びつきを一層必要としている間柄でもある。その中で、海外にも販路を持つ川中のエトワールが重要な役割を有することは言うまでもない。
そして、使い手である私たちにも、おそらくできることはある。「つくり手」が「使い手」を思ってものづくりに向かうのと同じように、商品を選ぶ目を持つ私たちもまた、つくり手の技と思いを知り、想像を働かせる。そうした関心が、生産拠点と職人を守る一助となるに違いない。

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座安 あきの(ざやす・あきの)

Polestar Communications取締役社長

1978年、沖縄県生まれ。2006年沖縄タイムス社入社。編集局政経部経済班、社会部などを担当。09年から1年間、朝日新聞福岡本部・経済部出向。16年からくらし班で保育や学童、労働、障がい者雇用問題などを追った企画を多数。連載「『働く』を考える」が「貧困ジャーナリズム大賞2017」特別賞を受賞。2020年4月からPolestar Okinawa Gateway取締役広報戦略支援室長として洋菓子メーカーやIT企業などの広報支援、経済リポートなどを執筆。同10月から現職兼務。朝日新聞デジタル「コメントプラス」コメンテーターを務める。

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(Polestar Communications取締役社長 座安 あきの)
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