広島県福山市で昔から作られている薬酒「保命酒」の蔵元、八田保命酒舗。廃業寸前だった家業を2019年、62歳で継いだのが、運送会社を定年退職した八田裕重さんだ。
裕重さんは、試行錯誤して生薬の最適な配合を追求、5年間で黒字化させ、生産量も倍以上に伸ばしたという。ライターの山口ちゆきさんがリポートする――。
■マティーニ風カクテル、コーヒーにも合う薬用酒
「今のみりんは調味料として使われますが、昔は甘い焼酎、おしゃれな酒として飲まれていました。保命酒(ほうめいしゅ)は、そのみりんに薬草を漬けこんだ、ハーブ系リキュールの原点のようなお酒だったんです。
これがうちの保命酒です。どうぞ、飲んでみてください。おいしいですか。では次はマティーニ風のカクテルを試してみてください。ドライジンと保命酒を合わせたものです。どうです、よく合うでしょう。次はコーヒーと合わせたものをどうぞ。ね、相性がいいんですよ。
ヨーロッパの方は、これが一番好きだと言われますね」
冷蔵庫から試飲用の保命酒が入ったボトルを次々と取り出しては紙コップに注ぎ、訪れた客に歴史や飲み方を教えてくれる八田裕重さんは、八田保命酒舗の4代目だ。
ウイスキーに似た茶色の液体は、薬のようなみかんのような、複雑だが爽やかな香りがする。保命酒の特徴は甘みとこの香りにあるが、カクテルにするとまったく違う印象になることに衝撃を受けた。
広島県福山市の鞆町(ともちょう)は、江戸時代の港湾施設や豪商の屋敷などが残る港町である。観光客の多い海沿いのメインストリートから少し奥に入った場所に、八田保命酒舗の店があった。
少し色褪せた外の看板やずらりと酒瓶が並んだ棚を見ると、昔懐かしい気持ちになる。一方、店内左側の壁にはハッと目を引くしゃれたディスプレイが施されている。とくに他の保命酒の店と大きく違うのは「Tasting BAR」と掲げられたカウンターの存在だった。
試飲とはいえ昼間の酒はよく回り、ほうっと頬が熱くなってきた。気づけば5~6杯も飲んでいる。試飲の量ではない。
しかし、言われるがままに次のコップに手を出してしまうのは、話術に乗せられて保命酒の味と香りへの興味が掻き立てられてしまうからだ。

■廃業の危機を乗り越え輸出も好調
福山市民でも、居酒屋などで保命酒を飲む機会はほとんどない。筆者にとっても長い間、保命酒といえば、「観光地の鞆で江戸時代から造られている、薬の匂いのする酒」であった。
八田保命酒舗は昭和期に一度廃業し、50年近く経って再開した歴史を持つ。再開後は好調だった時期もあるものの、生産量が4分の1以下に落ち込み再び廃業寸前に陥った。しかし、令和に入ってから徐々に売上を伸ばし、輸出も好調だ。鞆に4社残る保命酒の蔵元のうち、現在輸出しているのは八田保命酒舗ただ1社だという。
八田保命酒舗はどうやって廃業の危機を乗り越えたのか。その陰には、親子2代にわたる保命酒復活にかけた奮闘があった。
■ペリーも飲んだ伝統の薬酒
瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦は、古くから「潮待ちの港」として栄えた。潮の流れに乗って瀬戸内海を船がわたっていた時代、鞆には満ち潮や引き潮を待つ船が多く滞在し、町は大いに賑わったという。鞆は万葉集にもうたわれているほか、室町時代には足利義昭の亡命政権である「鞆幕府」、幕末には七人の公家が京都から追放された「七卿(しちきょう)落ち」の舞台にもなった。
江戸時代の万治2年(1659年)、大坂から鞆へ移ってきた漢方医の中村吉兵衛が、秘伝の製法で薬酒を造るようになったのが保命酒の始まりである。
地黄(ジオウ)をはじめ桂皮(ケイヒ)、丁子(チョウジ)、甘草(カンゾウ)など16種の和漢薬を用いて造られる「十六味地黄保命酒」の名の甘い酒は、血行促進や滋養強壮などに効果があるとして非常に珍重され、福山藩の特産品として広く全国に出回った。
備前や砥部、長崎などの窯元で焼かれた華やかな徳利が容器として使われた保命酒は、幕府への献上品でもあった。黒船で来航した海軍大佐ペリーを接待する席で供されたとの記録も残っている。
江戸時代には中村家のみが保命酒の製造を許されていたが、明治になると専売制が廃止され、他の醸造業者も保命酒を造るようになる。多いときには20社ほどの蔵元があったらしい。
中村家は海運業や養豚など他の事業にも乗り出したが、損失が続いた。鞆町長としての職務の忙しさも加わって、明治36年(1903年)に保命酒の醸造から完全に手を引く。
■戦後は生産量が激減
昭和に入ると各社の販売競争が激化し、観光ガイドや入浴などのサービスをつける客引き合戦が繰り広げられるようになった。客引きのためのコストは当然、保命酒の価格を上昇させ、質の低下を招く。あまりの激しさに商工省が調停に入って価格調整がされたほどだったが、戦時中の物資統制令によって保命酒業界は衰退へと向かう。
戦後になると消費者の好みも変わり、保命酒の生産量は大きく減った。鞆酒造株式会社代表取締役であり、鞆保命酒協同組合の代表理事でもある岡本純夫さんは言う。

「私の感覚では、保命酒の生産量は江戸から明治の最盛期と比べ、10分の1ほどに減っています。造り方の変化もありますが、うちでは大きなタンクを20本使っていたのが、現在は小さなタンクでの製造になりました」
戦前に始まったハワイなどへの輸出も、昭和40年代にはストップした。
現在、保命酒の蔵元は入江豊三郎本店、岡本亀太郎本店、鞆酒造、そして八田保命酒舗の4社しか残っていない。
■50年途絶えていた「初代の味」が復活
八田家の初代・八田種松は、入江豊三郎が明治19年(1886年)に始めた保命酒製造に加わり、麹づくりの責任者である代師(だいし)として活躍した人物である。明治41年(1908年)に独立して八田保命酒舗を創業した。
一時期は、入江家と並んで大きな蔵を持つほどであったという。
3代目である八田健さんが誕生したのは昭和10年(1935年)。まさに客引き競争が最高潮だった頃だ。
昭和13年(1938年)に始まった日中戦争に将校として参戦した2代目・喜平の戦死と、保命酒業界全体の衰退によって、八田家は保命酒の製造をやめ酒の小売などをすることとなった。
「使用人がいるような大きな家で、親父は大事に育てられました。いうなら、ボンボンです。3歳で父親を亡くしているから、創業者である種松が父親代わりでした」
4代目の裕重さんが生まれたのは、昭和32年(1957年)。
酒屋の仕事は順調で、父・健さんは忙しい日々を過ごしていた。
しかし、平成6年(1994年)、健さんは突然、50年近く途絶えていた保命酒製造を再開する。
「実家を離れて運送会社に就職した僕は、親父は一体何をする気かなと思いながら、様子を見ていました。
でも、その頃の親父の年になってみて、わかった気がするんです。それまでは忙しくて、保命酒を造る暇もなかったのでしょう。60歳を前にして、元気なうちにおじいさんに教わった保命酒を造りたい、保命酒をなんとかしたいと思ったのではないでしょうか」
■平成の保命酒は「薄い」
実は八田家の床下には、初代が造った60年前の保命酒が眠っていた。60年前の保命酒を飲んだ健さんは、ほかの蔵元が作っていた平成の保命酒を「薄い」と感じたのだ。
父親代わりだった初代と一緒に保命酒を造ったことはなかったが、造り方は聞いていた。また、親戚には生薬を使った商品を製造している者がいる。親戚にも相談し現状を分析しながら、健さんは理想とする保命酒を造り始めた。
それは、保命酒の復活というよりも、新規開発だったといえるかもしれない。
古いものを守るだけではなく、時代に求められるものを造ろうとしていた。

■「赤たる保命酒」が評判に
健さんは保命酒に桂皮や丁子、サフラン、甘草、枸杞子(クコシ)などの生薬をたっぷりと使い、他の10倍も値が張る高麗人参も新たに加えた。
必然的に、完成した「赤たる保命酒」は、他社のものよりもずっと値段が高くなる。
そのような高い保命酒が売れるものかと、冷ややかな視線を向ける人もいた。
しかし、一度赤たる保命酒を買った客から、飲むと体の調子がよいと追加注文が入るようになり、健さんは手応えを感じる。保命酒がほしいのではない、赤たる保命酒がほしいというのだ。
人からもらって飲んだらよかったから、評判を聞いたから、と客が買っていく。
2000年頃には、健康系の雑誌にも取り上げられるようになり、知名度が増していった。
経済産業省が主導したジャパンブランド事業の一環で、フランスへ販促活動に出向いたところ、香り高い赤たる保命酒がパリのバイヤーの目に留まる。
こうして2010年頃からフランスへの輸出が始まった。
■「家業を継ぐつもりはなかった」
一方、家業を継ぐ気はなく、運送会社で働いていた裕重さんは、営業担当として実績を残していた。流通がスムーズになるよう問題点を見つけて改善するのが主な仕事で、岡山地区の地区部長まで勤め上げた。
製造業にとって、流通のコストは大きい。不具合が1つ減るだけでも、積み重なれば何億もの金が浮く。そのような業界で書類作成から経営戦略まで、さまざまなノウハウを学んだ。
「『人が一番嫌がる仕事のてごをせえ(手伝いをしろ)』をモットーにしていました。
管理する側になると、チェック表を持ってパトロールします。現場でトラックの運転手のそばで立ったままチェックする人もいましたが、僕は運転手が一番嫌がる仕事を手伝うんです。
トラックの運転手の仕事って大変なんですよ。荷物を積み込んだり、荷物の干渉を防ぐために間にベニヤ板を立てたり、リフトから下ろしたり。それを一緒にやると、運転手は喜んでくれます。そして、一緒にやった人間のことを忘れません。あのおっさんがここまでやるっていうんだから協力するか、となるんですよ」
■「もっとおいしいものが造れる」4代目は跡を継いだ
そして、運送会社を定年退職後の2019年に、裕重さんは保命酒造りを始めた。
「親父の代で保命酒造りはやめればいい、権利をほしい人がいるなら渡せばいいと思っていたんです。自分が保命酒を造るなんて、若い頃はまったく考えていませんでした。
でも、人生の晩節を迎えたせいですかねえ。八田家で100年以上、中村家からは360年以上続いているものを、僕の代で終わらせるのはどうかなという気持ちが強くなったんですよ。
会社員時代のノウハウを生かせば、企業で働いたこともない親父の保命酒よりももっと美味しいものを造れるんじゃないか、そう思ったんです。
僕が変えたかったのは、保命酒の香りです。漢方独特の土のような香りをなんとかしたい、そのためには柑橘系がカギだ、と思っていました。
退職前から少しずつ準備を始め、するべきことをリスト化しておきました」
■赤字が続き廃業寸前に
健さんは裕重さんの挑戦を、比較的冷ややかに見ていたという。
この頃、手軽に飲めるチューハイやワインなどが人気となり、八田保命酒舗の生産量は落ち込んでいた。好調だったときには酒類製造免許の継続を許される年間6000リットル以上の生産があったが、その4分の1以下となった。赤字が続き、再び廃業する寸前だった。
「いまさら何をするんや、余計なことはせんでもええ。そんな感じでしたね」
親子はそれぞれが保命酒造りに挑んだ際に、同じような反応をしたことになる。
その父の姿がまた、息子の心に火をつけた。
■香りを追求、生薬の漬けこみで試行錯誤
問題解決のプロとして会社員時代を過ごした裕重さんがまず取り掛かったのは、一つひとつの生薬の最適な漬けこみ期間や香りを確かめることだった。
「1種類ずつみりんに漬けこんでいって、様子を観察しました。2週間くらい漬けこめばいいとか、いや45日だとかいろいろ聞いていたのですが、やってみると6カ月は漬けたほうがいいことがわかりました。
とくに、ある種の生薬の場合、4カ月くらいまでは藁や枯れ草のような香りがしているのですが、6カ月漬けるとチョコレートのような深い香りに変わります。
やはり、本物の薬酒を造るのには時間が要るんです」
材料の多さも特徴だ。柑橘系だけでも数種類を使った。
「もともと十六味地黄保命酒、と呼ばれていますが、僕の造っている保命酒には16種類どころではなく、もっと多くの材料が入っています。
香りは味に非常に重要な要素です。目を閉じて赤ワインと白ワインを飲んでも、どちらが赤かすぐわかりますが、鼻をつまんで飲んだらわからない。それくらい、香りがポイントになるんです」
■「過剰品質」で得られる知見
ろ過にも頭を悩ませた。
材料を漬けこんでおくと、不純物が酒の表面に浮いたり、「おり」となって底に溜まったりする。これらをろ過して取り除く必要があるのだが、フィルターの穴が大きいと除ききれないし、小さすぎると味や香りの成分まで濾し取ってしまう。
試行錯誤の結果、ワインや日本酒などで使うよりも小さな穴のフィルターを使う方法に落ち着いた。
過剰品質だと裕重さんは笑う。
「でもね、製造業というのは、必要最低限のことをしているのではダメなんです。どこか1点でも過剰品質にチャレンジしていけば、その他のところで何をするべきか、多くの知見が得られます。
伝統を守るだけではなく、時代に合わせたものを造っていく必要がある。ものづくりのその先を考えると、過剰品質でいくことは非常に大切です」
最大の課題は、生薬の最適な配合を見つけることだった。
「1種類ずつ生薬を漬けてできた液体をブレンドするといっても、それはもう膨大な組み合わせができますよね。配合を変えて何十本も作って、置く時間も3カ月、6カ月、9カ月と変えました。
いろいろな人に飲んでもらって評価をもらい、データを集めて分析しました。エクセルで関数を組むのは、会社員時代から得意でしたから」
こうして完成させたのが、「赤たる保命酒【緑ラベル】」である。区別をするため、健さんが復活させた保命酒は「赤たる保命酒【赤ラベル】」と呼ぶことにした。
■ベルモットのような香りの「緑ラベル」
赤ラベルと緑ラベルを飲み比べてみた。
どちらも他社の保命酒と比べて、甘さは控えめだ。赤ラベルからは漢方薬独特の体に良さそうな香りがする。一方、柑橘(かんきつ)系の香りを強めた緑ラベルは、これまでの保命酒のイメージを一新する爽やかさと華やかさがあった。
「イタリアに『ベルモット』という香草やスパイスを配合して造られるワインがあります。緑ラベルはベルモットに似た香りがしますね」
現在、八田保命酒舗の売上の8割を緑ラベルが占めるという。
「親父もこの売れ行きを見て、何も言わなくなりました。でも、昔からのお客さまの中には赤ラベルがいいという人もいます。だから敬意を持ってどちらも造ります」
■パリ、マレーシア、シンガポールでも高い評価
海外でも好調だ。
「親父の代にフランスへの輸出が始まり、中華系文化の影響が大きいマレーシアにも進出しました。カクテルにして飲まれるんです。
シンガポールとも取引がありました。アジアのバーのトップ50に入る1社に香りを認められ、日本イベントのアイテムとして使われました」
最近、裕重さんがパリのバイヤーたちと商談したところ、24人中18人が保命酒がほしいと言ってきた。
「甘い酒でこれほど香りが立つなんて、相当多くの果皮を使っているだろう、と言われました。美食で知られる国の人に理解して認めてもらえたのは、うれしかったですね」
「過剰品質」の保命酒は、着実にファンを増やしている。
■家業に入って5年間で経営は黒字化
裕重さんは国際見本市のようなイベントへも積極的に出向き、新規顧客獲得の努力も怠らない。
その結果、年間1500リットルほどだった生産量は3500リットルほどに回復した。
総合売上は2023年から2024年で13%増、2024年から2025年でも7%増の勢いだ。とくに店舗以外の販売は15%も伸びているという。裕重さんが家業に入ってからの5年間で、経営は黒字化した。
「運も実力のうち、といわれますが、僕は少し違う見方をしています。
運は平等に降ってきます。その巡ってきた運をこぼすか、受け止めるかは、受けるもの次第。受け止める準備をどれだけしているかで、商売も人生も変わってくるんですよ」
■江戸時代の文献と向き合い生まれた新たな味
また、2025年春にはさらにもうひとつ、新たな保命酒ができた。薔薇(ばら)保命酒である。
「江戸時代の文献には、ハマナスという日本原産の野薔薇のほか、梅や金銀花(スイカズラ)も使われていたことが記されています。
保命酒の徳利には薔薇の絵が描かれているものも多いんです。これらの花の香りは、かつて保命酒の特徴のひとつだったのではないでしょうか」
「100万本のばらの町」をうたう福山市に残った保命酒の蔵元として、薔薇の保命酒に挑戦したかったのだと裕重さんは言った。
ハマナスなどの花は一つひとつ蕾を手で摘んで集めるため、高麗人参よりもさらに高価な材料だ。
「香りの成分は揮発性の化学物質です。花が咲くと空気中に香り成分が飛んでいってしまうので、蕾のうちに集めなくちゃならない。昔のようにハマナスの需要がなく生産量が減っているのもあり、希少性が高いんです」
最初に仕込んだハマナスは、大失敗してしまった。酒税の関係で少しアルコールを飛ばすため湯煎にかけたら、香り成分もすべて飛んでしまったのだ。
もう一度造るには、時間が足りない。温度をかけて抽出を早めようと、自宅のリビングに8リットルの瓶を十数本並べ、電気毛布でくるんで30℃程度に保ったこともあった。
抽出した生薬の配合を決めるのには、海外で活躍した実績のあるソムリエに協力をあおいだ。
自分の主観だけではなく、プロが認める味に仕上げたかったからだ。
■薬らしさを消した薔薇保命酒
ソムリエと相談しながら何日もかけて、30種類ほどの配合を試した。ほんの少し割合を変えるだけで、味はまったく違ってくる。
味と香りを確かめるときには、酒を口に含んで空気を吸い込み、揮発性物質を鼻に送る。飲みこんでしまうと酔って判断できなくなるため、すぐに吐き出して水で口をすすぐ。
この作業を何度も繰り返した。
気温が変わると感じ方も変わる。日を変えて、また同じことを繰り返した。
「この配合が一番いいですね」
検討の結果、ソムリエが指したのは、さまざまな配合を試すための基準として裕重さんが混ぜておいたプロトタイプだったという。
「僕の経験からの思考パターンは捨てたもんじゃないな、と自信を持ちましたね」
コップに注がれた薔薇保命酒を、筆者もそっと口に含んでみた。
漢方臭はほとんど感じられず、野に凛(りん)と咲く小さな薔薇の香りがする。きつい匂いではない。ほのかな、やわらかい薔薇の香りだ。
薬らしい味や香りを強調する薬酒が多い中で、薬らしさを消した薔薇保命酒の存在は異質だともいえる。しかし、なんとも心惹かれる酒だ。
■リモンチェッロ、梅酒…「体が動くうちにいろいろ造ってみたい」
裕重さんはレモンのリキュール、リモンチェッロも造っている。イタリアでは、日本の梅酒のように家で造られることも多いらしい。
「ハーブを扱ってきた経験を生かして、瀬戸内の自然栽培のレモンを使いました。農薬も肥料も使っていない畑で育つと、レモンの香りが非常によくなるんですよ」
他にもまだまだ、試したいものがあるのだという。
「江戸時代の中村家では、梅酒やいちご酒なども造っていたそうです。梅酒もサンプルで造ってみたんですが、びっくりするくらい美味しいんですよ。」
入れてもらった梅酒を飲むと、一瞬、すべての動きが止まり、自分が舌と鼻だけの存在になってしまった気がした。何だこれは。今までに飲んだことのある梅酒ではない。鮮烈な香りだった。この梅酒を表現するための言葉を思いつかないことがもどかしい。
「時間も人手も足りません。ただ、体が動くうちにいろいろ造ってみたいんです」
インタビューが終わると、裕重さんは楽しそうな足取りで蔵の方へと向かっていった。
これからまた、飲んだ人をあっと驚かせる酒を造るために。

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山口 ちゆき(やまぐち・ちゆき)

ライター

山口県出身。広島県在住。筑波大学・筑波大学大学院で生物学を学んだ後、農業系法人の研究開発職、塾講師、大学職員などを経て、2018年からライターとして活動。地域の魅力と課題を伝え、地域で活躍する人の想いを届ける記事を目指している。

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(ライター 山口 ちゆき)
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