「愛子天皇」待望論は今後どうなるのか。『』(プレジデント社)を上梓した島田裕巳さんは「愛子内親王が若き新横綱の相撲観戦に訪れれば、世間の『愛子天皇』待望論はさらに高まるに違いない」という――。

■大の里が魅せた大相撲5月場所
両国国技館で開かれた大相撲5月場所は大いに盛り上がった。
特に千秋楽結びの一番には注目が集まった。すでに大関大の里(おおのさと)は4度目の優勝を決め、横綱昇進を事実上確定させていた。にもかかわらず、全勝がかかっていたため、横綱豊昇龍(ほうしょうりゅう)との対戦は、この場所最注目の大一番となったのである。
大の里がデビューしたのは、わずか2年前のやはり5月場所だった。その後、すべての場所を勝ち越し、初土俵以来13場所での横綱昇進は、従来の記録を大幅に上回る画期的なものだった。
ところが、それまでふがいない場所を送ってきた豊昇龍が奮起し、大の里の全勝優勝を阻(はば)んだ。ファンは全勝優勝を期待したが、大の里が来場所昇進して以降の両横綱の対戦に期待をもたせる一番になったことは間違いない。
強い横綱がいてこその大相撲である。私も、ここのところ、大相撲のテレビ観戦から遠ざかっていたが、今場所は、途中から欠かさず観戦した。
あるいは愛子内親王も、もしかしたら私と同じように、5月場所が盛り上がるにつれて、幕内の取り組みに注目するようになったのではないだろうか。
■愛子内親王の4歳からの相撲熱
そうした考えが浮かぶのは、子どもの頃の愛子内親王は相当の相撲好きだったからである。
女性の相撲ファンを「スー女」と呼ぶのが最近のはやりだが、愛子内親王はまさにそのスー女の先駆けだったのである。
4歳の頃にはすでに相撲に熱中していて、力士の四股名(しこな)だけではなく、下の名前やその出身地を暗記していた。幼稚園から帰ると、すぐに衛星放送をつけ、幕下の取組から熱心に観戦していたという。
2006年に、父親である天皇が愛知万博を訪問すると聞くと、「琴光喜(ことみつき)関の出身地の愛知県」と答えたという。愛子内親王は元大関の琴光喜と元横綱の朝青龍(あさしょうりゅう)のファンで、両親を相手に相撲の決まり手を再現することもあった。
ただ、琴光喜と朝青龍が引退してしまうと、愛子内親王の相撲熱も醒めたとも言われている。その相撲熱が、大の里の優勝と横綱昇進で再燃されることになるのかどうか、これは注目されるところである。
というのも、愛子内親王にとっては曾祖父にあたる昭和天皇は大の相撲好きとして知られているからである。
■50回を超えた昭和の天覧相撲
昭和天皇は幼少期から相撲に親しんでいた。天皇が大相撲を観戦することは「天覧相撲(てんらんずもう)」と呼ばれるが、昭和天皇による天覧相撲は生涯に51回にも及んでいる。そのうち40回は戦後のことだった。在位期間は62年に及んでいるが、毎年のように相撲観戦していたことになる。

1955年の戦後初めての天覧相撲では、「ひさしくも見ざりしすまひ(相撲)人びとと手をたたきつつ見るがたのしさ」という御製も残している。
戦前には、昭和天皇は国技館を訪れてはいない。宮城内や海軍の社交クラブであった水交社や陸軍の社交クラブであった偕行社で催された相撲を観戦していた。御製の「ひさしくも」は、戦争が激しくなった1938年以降、相撲観戦がかなわなかったことにふれたものだが、国民とともに相撲観戦が果たせたことは、昭和天皇にとって大きな喜びであったに違いない。
相撲好きであっただけに、詳しかった。アナウンスの決まり手について、昭和天皇が違う手を指摘したところ、すぐに訂正放送が入り、その詳しさが証明された形になった。そうした話がいくつか伝わっている。
■天覧試合に起きる奇跡
天覧相撲となった1975年5月場所8日目の麒麟児(きりんじ)・富士櫻(ふじざくら)戦は、108発の突っ張り合いになった伝説の一番だが、昭和天皇がこの一番を身を乗り出して食い入るように見ている光景が映像としても残されている。
各種のスポーツには天皇杯があり、それを獲得することが選手の大きな目標になっているが、天皇がその場で観戦する「天覧」は特別な機会であり、またそれにふさわしい出来事が起こる。
麒麟児・富士櫻戦もその一つだが、もっとも劇的なのは、1959年6月25日、後楽園球場で行われたプロ野球初の天覧試合だった。
巨人と阪神との対戦で、4対4のまま9回の裏を迎えた。天皇皇后の退席時間は午後9時15分と定められており、その時間が近づいていた。
マウンドには阪神の新人でやがてはエースになる村山実が上がっていた。打席には、先ごろ亡くなった長嶋茂雄が立ち、ホームランを打って、巨人に勝利をもたらしたのである。
それは「奇跡のサヨナラホームラン」と呼ばれ、プロ野球の人気を不動のものにすることに貢献したとされるが、それが天覧試合であったことは偶然とはいえ、驚くべきことである。
■天皇と相撲の古代に遡る深い縁
相撲の場合、特に天覧ということは重要な意味を持っている。
それは、「日本書紀」に記されているのだが、第11代の垂仁(すいにん)天皇の前で、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)が力比べをした。これが記録に残る最古の天覧相撲であり、その試合に勝った野見宿禰は相撲の神として祀られている。相撲自体が天覧からはじまったわけで、天皇と相撲の関係は実に深いのである。
その後、奈良時代になると、宮中では「相撲節会(すまひのせちえ)」が公式の年中行事として定着するようになる。最初は、第45代の聖武(しょうむ)天皇の時代で、734年に天皇が七夕の日の余興として相撲を観覧したのがはじまりだった。
当初は農作物の豊凶を占う神事としての性格が強かったが、次第に全国から力自慢が集められ、天皇の前で技を競うものに変わっていった。ただ、平安時代の末期にあたる1174年、第80代の高倉天皇の時代に終焉を迎えている。武士の世の到来とともに、相撲節会が終わり告げたことは象徴的である。

■存続を救った明治の天覧相撲
その後の相撲は武士の鍛錬のためのものになったが、江戸時代に入ると、相撲は興行となり、庶民の娯楽となっていった。神社仏閣の建立や再建の費用を集めるための勧進(かんじん)相撲もくり返し開催されたが、雷電為右衛門(らいでんためえもん)といった人気力士も生まれ、相撲人気は頂点を迎えることになる。
ただし、明治に時代が変わると、西欧化、近代化が進められるなかで、相撲は野蛮なものとも見なされるようになり、存続の危機にさらされることになる。それを救ったのが1884(明治17)年の天覧相撲だった。
明治天皇は赤坂の邸宅で相撲を観覧したが、天覧に値するものということで、相撲はその地位を向上させることに成功する。これは、1887(明治20)年の天覧歌舞伎が、歌舞伎の地位向上に貢献したのと共通する。
それほど天覧の栄に浴するということは、重要な意味を持つわけである。
■期待が高まる次の天覧相撲
愛子内親王の場合には、これまでに3度、両国国技館を訪れ、大相撲を観戦している。いずれも一家でということになり、最初は2006年の9月場所だった。そのときは、すでに相撲ファンになっており、「夢じゃなかったのかしら」と喜び、星取り表に勝敗を書き込むなど、わずか4歳で熱心に観戦していた。翌年の9月場所も観戦に訪れている。
今のところ最後は2020年初場所の14日目で、これは令和の時代初めての天覧相撲となった。
愛子内親王は、八角(はっかく)理事長(元横綱北勝海(ほくとうみ))に対して、「土俵の高さは何センチですか」と質問したという。
令和の時代になっての天覧相撲は、そのときだけで、それからすでに5年の月日が流れている。その点からすると、今年、あるいは来年早々に天覧相撲があり、愛子内親王も天皇夫妻とともに大相撲観戦に訪れる可能性がありそうだ。
あるいは、天皇以外の皇族が観覧する大相撲は、「台覧(たいらん)相撲」と呼ばれる。愛子内親王の最初の2回の観戦は、両親が皇太子夫妻時代のものであり、台覧相撲ということになるが、愛子内親王に相撲熱が復活しているのであれば、単独での台覧相撲もあるかもしれない。
■「愛子天皇」待望論と天覧相撲の共鳴
大の里の横綱昇進で、来場所以降の相撲人気は大いに高まっていくものと予想される。5月場所で見せた強さによりいっそう磨きがかかれば、大横綱への道を歩んでいくことになるであろう。なにしろ大の里はまだ25歳で、23歳の愛子内親王とは一学年しか離れていないのだ。
そうした形で相撲人気が高まっていくなかで、天覧相撲になり、愛子内親王が観戦に訪れたとしたら、世間の注目は一気に高まるに違いない。
愛子内親王の立場は、2020年と今とでは大きく違ってきており、注目度は抜群である。日本相撲協会は、その日がすぐにでも訪れることを強く願っているのではないだろうか。そして愛子内親王が若き新横綱の相撲観戦に訪れれば、世間の「愛子天皇」待望論もさらに高まっていくことだろう。


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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)

宗教学者、作家

放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。

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(宗教学者、作家 島田 裕巳)
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