■平気でいれば内向性がひらく
自分は内向的な性格で、うまく話もできないし、友人もできないと悩んでいる人が多い。
だが、内向的であることは決して悪いことではない。そう思い込んでこだわっているから暗くなり、余計、内向的にしているんじゃないだろうか。内向的ということをマイナスと考えたり、恥じちゃいけない。
生きるということを真剣に考えれば、人間は内向的にならざるを得ないのだ。
また逆に、自分が内向的なために、かえって外に突き出してくる人もいる。だから内向的であると同時に外向的であるわけだ。これがほんとうに人間的な人間なのだ。
歴史的に見て、英雄とか巨(おお)きな仕事をした人は、みんな内向性と外向性を強烈に活かしている。
たとえば、もって生まれた性格は、たとえ不便でも、かけがえのないその人のアイデンティティなんだから、内向性なら自分は内向性なんだと、平気でいればいい。内向性の性格は悪いことだと思っているから、ますます内向的になってしまう。
動物を見てもわかるだろう、動物に内向性の動物はいない。
人間だから、誰でもが内向性を持っているんだ。いくら派手に見える人間だって内向性を持っている。内向性で結構だと思えば、逆に内向性がひらいていく。
■弱い人間が強くなる道とは
内気な人の表現力が、派手にチャカチャカふるまう人より強い印象を与えることもある。
口べタの説得力ってものもある。平気でやれば、逆にひろがる精神状況が生まれてくる。
自分は消極的で気が弱い、何とか強くなりたいと思う人は、今さら性格を変えようなんて変な努力をしてもむずかしい。
強い性格の人間になりたかったら、自分がおとなしいということを気にしないこと――それが結果的には強くなる道につながる。
強くなろうと思えば思うほど余計、コンプレックスを持つだろう。
また、もともとおとなしい性格なのだから、急に強くなるわけもないし、強くなろうと力めば、わざとらしいふるまいになって、かえって周囲の失笑をかうことになる。
だからそんなことをやったら逆効果になってしまう。
それよりも、自分は気が弱い、怒れない人間だと、むしろ腹を決めてしまうほうが、ゆったりして、人からその存在が逆に重く見えてくるかもしれない。
もっと極端なことを言えば、強くならなくていいんだと思って、ありのままの姿勢を貫いていけば、それが強さになると思う。
静かな人間でそのまま押し通すことが、逆に認められるし、信用されるということは十分あり得る。
■自他への甘えで裏目が出る
サービス精神が旺盛で、ついまわりの期待するようにふるまってしまったり、チャラチャラと軽口を連発し、そのくせ軽薄だと思われてやしないかと内心絶望している人がいる。
近頃はテレビの番組でもふざけたり、笑わせたり、ガチャガチヤやるバラエティが大はやりだ。その影響か、一般の人でもお笑いタレントみたいなしゃべり方をする人が結構多い。
それはサービス精神かもしれないが、つまりはみんなに悪く思われたくない、自分がかわいい一念なのだ。
とかく、みんな自分を大事にしすぎる。自他に甘えているんだ。ほんとうに自分の在り方を、外につき出していない。だから、裏目が出てきてしまう。自分でもそれを感じるだろうし、相手も裏目を感じて、深くつきあおうという気にならない。
なぜ、友達に愉快なヤツだと思われる必要があるんだろう。
もっと厳しく自分をつき放してみたらどうだろう。
友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立してもいいと腹をきめて、自分を貫いていけば、ほんとうの意味でみんなによろこばれる人間になれる。
■自分を大事にしすぎるな
自分で自分の在り方がわかってやることなら、もう乗りこえているはずだ。自分自身にとっていちばん障害であり敵なのは、自分自身なんだ。その敵であり、障害の自分をよく見つめ、つかんだら、それと闘わなければいけない。戦闘開始だ。
つまり、自分を大事にしすぎているから、いろいろと思い悩む。そんなに大事にしないで、よしそれなら今度から、好かれなくていいと決心して、自分を投げ出してしまうのだ。
駄目になって結構だと思ってやればいい。最悪の敵は自分自身なんだから。
友達の間で軽薄な人間だと見られている。一種のヒョーキン者で通っている。
そういう習慣とか役割というものは、なかなか変えようとしても、すぐに変えられるものではないだろう。
たとえ、変えられなくても、今日からの自分は今までの自分とは違うんだと意識のなかで覚悟を決めてしまうのだ。そして、たとえ今まで通りの行動をしても、そうすればもう軽薄に見られることはないはずだ。
矛盾は結構だ。
矛盾を、むしろ面白いと考え、そのズレを平気でつき出せばいいのだ。そうすれば、今までのオッチョコチョイとは違ってくる。今度はみんながホントウによろこぶ不思議な魅力を持った人間になる。
■自己嫌悪を乗り越える方法
自分をごまかせない人は当然悩む。
あなたは言葉のもどかしさを感じたことがあるだろうか。とかく、どんなことを言っても、それが自分のほんとうに感じているナマナマしいものとズレているように感じる。たとえ人の前でなく、ひとりごとを言ったとしても、何か作りごとのような気がしてしまう。
これは敏感な人間なら当然感じることだ。
言葉はすべて自分以前にすでに作られたものだし、純粋で、ほんとうの感情はなかなかそれにぴったりあうはずはない。
何を言っても、なんかほんとうの自分じゃないという気がする。自分は創造していない、ほんとうではない、絶えずそういう意識がある。自己嫌悪をおこす。
そんなとき自己嫌悪をのり越えて、自分を救う方法が二つあると思う。まったく自分を無の存在と考えるか、あるいは徹底的にそんな自分自身を対決の相手として、猛烈に闘ってやろうと決めるか、どっちかだ。
どっちでもいい。ただ中途半端は駄目だ。
途中でちょっと自分を大事にしてみたり、甘えたりしたら、ぶちこわし。もとの木阿弥だ。徹底的に貫く。そうするとスッと嫌悪感が抜けてしまう。
■徹底的に自分と闘え
人は自分を客観視しているように思っていても、実は誰でも自分が好きで、大事にしすぎているのだ。
そういう自分をもう一度外から眺めるようにしてみよう。“なんだ、お前は。この世の中でマメツブほどのチッポケな存在だ。それがウヌボレたり、また自分を見くだして、いやになったりしている。バカなことだ”と突っぱなして、いまの状態をアリアリと見るんだ。
それで投げてしまうんじゃない。自分がマメツブならそれでいい。小さな存在こそ世界をおおうのだ。
ぼくは昔、“一匹の蟻”という文章を書いたことがあるが、自分はほんとうにチッポケな、非力な、どうにもならない存在だ。でもこの小さな一匹の蟻が胸から血を流して倒れるとき、自分と一緒に世界が滅び去る……ぼくはそう実感する。いや、決意するといったほうがいい。
自己嫌悪なんて、いい加減のところで自分を甘やかしていないで、もっと徹底的に自分と闘ってみよう。すると、もりもりっとファイトがおこってきて、己自身をのり越えてしまうし、自己嫌悪なんかふっとんでしまう。
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岡本 太郎(おかもと・たろう)
芸術家
1911年生まれ。29年に渡仏し、30年代のパリで抽象芸術やシュルレアリスム運動に参画。パリ大学でマルセル・モースに民族学を学び、ジョルジュ・バタイユらと活動をともにした。40年帰国。戦後日本で前衛芸術運動を展開し、問題作を次々と社会に送り出す。51年に縄文土器と遭遇し、翌年「縄文土器論」を発表。70年大阪万博で『太陽の塔』を制作し、国民的存在になる。96年没。いまも若い世代に大きな影響を与え続けている。
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(芸術家 岡本 太郎)