※本稿は、泉谷閑示『「自分が嫌い」という病』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■子どもにとって親は「ほぼ神」
言うまでもなく、人は子どもができれば自動的に親になるわけで、特にそのための試験や資格があるわけではありません。厳しい見方かもしれませんが、実際のところ人が親になるような年齢ではまだまだ人生経験も浅く、親という役割を果たす上ではその成熟度はかなり危なっかしいものだと言えます。
ところが生まれてきた子どもは、そんな実態や裏事情など知るよしもなく、無邪気に親に対して全幅の信頼をおいています。つまり人格形成期の前半において、子どもにとっての親は、ほぼ神のごとき存在なのです。
もちろん10年以上経った思春期あたりから親への批判的視点が芽生え始め、それまで鵜吞みにして受け取ってきたことを疑えるようになりますが、その時点ではもう既に、子どもの人格の基礎部分には、しっかりと親の足跡が残されてしまっているわけです。
■核家族という親子だけの閉じた世界
ところが実際の親は、もちろん神ではなく不完全な人間に過ぎないのですから、子どもに対してどんな時でも問題なく接することができるわけではありません。しばしば親は余裕がなくなって苛立ちを子どもにぶつけてしまったり、煩わしく思って邪険に扱ってしまったりなど、およそ完璧な子育てなどには程遠いのがその実情であろうと思われます。
また、現代に多い核家族においては、その閉鎖的な環境ゆえに、親の未熟さや偏りが、ダイレクトに子どもに影響しやすいという問題もあります。
昔の大家族や「古き良き」地域コミュニティの中では、親が単独で子育てをするのでなく、複数の大人たちが子どもをゆったりと見守って育てていたような状況でした。たとえ親自身に偏りや未熟さがあったとしても、その弊害は複数性によって適度に希釈されるので、子どもへの悪影響も、直接的なものではなかったのです。
しかし、今日の核家族という環境は、育児負担が親だけに集中してしまい、親に余裕がなくなるだけでなく、その閉じた隔離的状況の中では、親の言動が子どもに対して一種の洗脳的な作用を及ぼすことになってしまいやすいのです。
■「暴君」に子どもは怯え、委縮する
また、自閉的傾向のある人が親になった場合などは、本人としては普通に子育てをしているつもりでも、子どもに対して、質的にかなり悪影響を及ぼしてしまうことが少なくありません。
子どもに向ける関心が表面的なものにとどまっていたり、過度なしつけや学歴偏重志向など、偏狭な価値観を押し付けていることに無自覚だったりします。
さらにその自閉的特性ゆえに、一貫性のない矛盾だらけの関わりをしてしまったり、泣き声や騒がしさを極度に嫌い、これを感情的に叱責したり、思い通りでないとささいなことでもキレやすかったりなど、家の中の雰囲気はピリピリしたものになりがちです。
このような問題が家庭という密室内で繰り広げられるので、さしずめ暴君が君臨する小さな独裁国家のごとき状況下で子どもは怯え困惑し、精神的に萎縮させられてしまうのです。
■親に叱られた理由を必死に考えるが…
子どもへの不適切な接し方は、子どもの内部に次のような変化を引き起こします。
親に不適切に扱われた子どもは、そのことをいわば神から制裁でも受けたかのように感じ取り、神である親を疑わないので、「自分が何かまずいことでもしてしまったのかな」と考えます。
もちろん、しつけなどの文脈で適切な叱責を受けた場合には、その理由が子どもにも把握できるので、今後は気をつけようという学習が行なわれるだけです。しかし、いくら考えてみても叱られたり無視されるような理由が見当たらなかったり、何らかの失態はあったにせよそこまで制裁を受けるほどの問題とは思えなかった場合、子どもはその本意がつかめずに戸惑ってしまいます。
そして引き続き、親の意図が何だったのだろうと考え続けることになります。人には、不可解なことをそのままにしておけないという性質があるからです。
果たしてちゃんとお手伝いをしなかったのが悪いのか、勉強ができないのが悪いのか、習い事をやめたいなんて言ったのが悪いのか、自分は良い子じゃないのか等々、子どもなりに何か思い当たることを考えつくと、そこを懸命に改善しようと努力し始めます。
■親を否定できず、自分を否定してしまう
しかし、どんなに頑張って改善をしても手応えがなかったり、いくら考えてみても思い当たる原因が見当たらない場合には、その子は「よく分からないけど、自分はダメな子なんだろう」と考えたり、ひどい場合には「自分の存在自体が迷惑なのではないか」「生まれてこない方が良かったのではないか」といった存在否定のところまで、自己否定を進めてしまうこともあるのです。
いずれにせよ、親と自分の不調和な関係について、子どもにはまだ親を疑うという発想が芽生えていないがゆえに、「何が悪いのかよく分からないけれど、きっと自分が悪いのだろう」と考えるしかありません。親を否定できないので、自分を否定してしまったのです。これを表したのが図表1です。
ひとたびそんなふうに思ってしまった子どもは、そこから先、常に自分のあら探しをするモードで生きていきます。「自分のいったい何が悪いのだろう」という解けない謎をいつか解きたいという必死の思いで、自分の欠点にばかり注目する日々を送るのです。
■「私がダメだから」を手放せない状態に
人はこの状態にあると、たとえ何かうまくやれたり人に褒められることがあったとしても、「そんなのは、きっとまぐれ当たりだ」「自分にできるようなことは、他の人だって当然できるはずだ」「どうせこの人は私をおだてて、からかっているに違いない」などと処理してしまい、自己否定そのものが見直されることにはつながりません。
このように一度思い込んでしまった自己否定は、自分が関わるすべてをマイナスに解釈するような認識上の引力を発生させます。そして、思春期以降になって親の未熟さや偏りにようやく気づき始めたとしても、残念ながらこの自己否定は自動的に訂正されたりはしません。
なぜなら、いわば生乾きのコンクリートのような人格形成初期にくっきりと刻印されてしまった自己否定は、もはや基本OS(コンピューターの基本ソフト)のごとく自分の認識の基礎に組み込まれてしまっていて、疑う対象にはなり得ないからです。
さらにこの自己否定というものは、うまくいかないことや不条理なこと、不愉快なことも不幸なことも、「私がダメだから」という形で見事に理由づけ、説明してくれるオールマイティカードとして機能してきているので、すでに本人の中では疑いようのない真実になっているのです。
■「習い事は続けなさい」と強制する弊害
近年では親の教育熱がかなりエスカレートしていて、子どもたちは幼少時からたくさんの習い事や塾通いなどを強いられていることも少なくありません。
それが、たとえ無邪気に「やってみたい」と本人が言い出したものであっても、子どもですから、途中でイヤになって「やめたい」と言い出すことも決して珍しくないでしょう。これをやみくもに親が禁じてしまうことも、子どもが歪む大きな原因になります。
もちろん、「何でもすぐに放り出してしまう子になって欲しくない」という親の教育方針で、すぐにはやめさせないという考え方もあるでしょう。しかし、本当に向かないものを無理に続けさせてしまうと、いらぬ劣等感を植え付けてしまったり、かえってそれ自体が嫌いになる原因を作ってしまうことにもなりかねないので、見極めは慎重に行なわれなければなりません。
■「いや」を禁じれられた子どものその後
また、親の意向で誘導して始めさせてしまったものに関して、子どもが「やめたい」と言い出したとすれば、それはごく自然な反応だと言えるでしょう。なぜなら、それは「自分の意思を無視して押し付けられた」こと、つまり主体性を侵害されたことに対する正当な反発であるからです。
わが子に豊かな人間に育ってほしいという親の思いは理解できるとしても、結果的に子どもの主体性を奪ってしまったのでは本末転倒です。いかにスキルや学力を身につけたとしても、本人の中に主体性が育っていなければ、決して豊かな人生を送ることなどできはしないからです。
いずれにせよ、親の押し付けによって「やめたい」や「いや」を禁じられてしまうと、子どもは「いや」を言わないようになり、ついには「いや」を感じないように適応していきます。その結果、子どもが忍耐強く物事を行なえる人間に成長したかのように見えるかもしれません。しかし、このような適応の内実は、単に苦痛を感じないような麻痺が子どもの精神に生じたということなのです。
押し付けられたことを「いや」と思わないように精神的に麻痺した子どもは、自分という主体が育つどころかむしろ弱体化し、受動的人間になってしまいます。
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泉谷 閑示(いずみや・かんじ)
精神科医・作曲家
1962年秋田県生まれ。東北大学医学部卒。精神療法専門の泉谷クリニック(東京/広尾)院長。企業や一般向けの講演、国内外のTV出演など精力的に活動中。著書に、『「普通がいい」という病』『反教育論』(講談社現代新書)、『あなたの人生が変わる対話術』(講談社+α文庫)、『仕事なんか生きがいにするな』『「うつ」の効用』(幻冬舎新書)、『本物の思考力を磨くための音楽学』(yamaha music media)など多数。最新刊に『なぜ生きる意味が感じられないのか』(笠間書院)がある。
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(精神科医・作曲家 泉谷 閑示)